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戦争体験
1 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/26(水) 18:48
私の曽祖父は一般人で一番最初にドーリットルのB−25を発見したそうです。
なんでも、私の曽祖父は日本光学(今のニコン)に技術者として勤めていて、その日は
双眼鏡のテストの為に東京湾をそれで眺めていました。そのうち眺めていたら東京湾の向こうから小さな点々が見えてきて
それが段々大きくなってきてこっちに近づいてきて、やがて市街地の方に飛び去っていったそうです。

このようなちょっと違った戦争体験を聞いたことありませんか?




2 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/26(水) 23:08
私のじいさんは元近衛第二師団兵でした。
「陸王」に乗ってブイブイ言わせてたとか言ってたから通信隊ですか?
 自分は不真面目だったので前線に送られなかったけど、真面目な人はみんな前線に送られていた。
何で判断するかというと上官の靴磨きが上手いかどうかだそうです。
大陸に渡った時は行軍中に足をもつらせて倒れ、うつぶせになった体の上スレスレを銃弾が飛んでったそうです。
 すいません、うちのじいさん、今ボケてるんで嘘も混じってると思います。


3 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/26(水) 23:12
近衛師団って帝国陸軍中最弱の誉れ高い?(藁



4 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/26(水) 23:18
>3
いちおうエリートの集まりじゃないの?


5 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/26(水) 23:31
近衛師団は精鋭部隊だよ。
近衛第二師団というのは、どうか知らないが。


6 名前: ベンゼン中尉 投稿日: 2000/07/26(水) 23:48
私の母方の祖父は、中国戦線で大尉でした。なんでも、日本の占領地は点のようなもので、いつも苦戦の連続だったそうです。
終戦の年、祖父は内地に引き上げ、近衛師団に配属になり、九十九里方面から上陸する敵を討つ訓練ばかりしていたそうです。
祖父の部隊は中国戦線ソ連の参戦で敗走し、大隊長殿は切腹して果てたそうです。運がよく戦争を生き抜きました。



7 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/27(木) 21:41
私の母方の祖父は・・種子島守備隊の一等兵。
米軍が「九州上陸作戦」を実行してたら一発で死んでたな。
ちなみに鼻先に米軍機の機銃掃射をくらった傷があり、死ぬまで跡が残ってた。

ちょっと平凡でしたね。



8 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/27(木) 23:11
おれのおやじ77歳?は、乗るはずの船が沈んで京都で竹槍で戦車壊す練習してるうちに敗戦。
進駐軍に取り入り英語分からないのに通訳になった。

いまだにそこらへんの世渡りの上手さというか強運だけで生きてます。

孫に買うおみやげはパイナップルとチョコレートです。
おいおい、イマドキ輸入果物や輸入食品はご馳走じゃあないんだよ。。。。。
自然食志向の嫁の顔が引きつってるだろうが。。



9 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 00:09
予科練にいたらしいが生きてかえってきたそうだ。


10 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/28(金) 00:13
近衛兵はエリートだが、近衛師団は東京出身者中心の師団だから陸軍最弱の称号を大阪の師団と争っていた。


11 名前: 投稿日: 2000/07/28(金) 00:16
10さん>
昔、何かの本で近衛は全国の兵員は全国から選抜で〜
って記述を見ましたが、時代とかで変わっているんですか?


12 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/28(金) 00:21
>10・11
なんかの本で、特別優秀でもなく、かといって出来の悪い
兵隊でもない奴が選抜されていた、というのを読んだ記憶
があるね。

本当は、優秀な兵隊を送るよう指示されていたらしいが、
送る立場になってみるとねえ・・・。


13 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/28(金) 00:34
でも、近衛師団ってのは天皇を守るための部隊でしょ?普通は優秀と考えていいんじゃないの?


14 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 00:53
>13
建前と本音、てやつじゃない?



15 名前: 違った角度から 投稿日: 2000/07/28(金) 01:45
特高に捕まり投獄2回
結核に罹り出獄、そのまま死亡したしそうな。
総力戦に備え銃後の守りを整えるには、まずは教育から
といってたそうだがアカと思われた。
戦後ばあさんが、どちらかというと社会党に近かった、
と言っていたので、濡れ衣でもなさそうだ。


16 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 02:03
近衛師団は全国から選抜された兵隊である。
戦時、増員のため近衛第1、近衛第2というふうに師団が増設されたが。
大東亜戦争勃発と同時にマレー半島に先陣上陸したのは、とっておきの
機械化された近衛と広島第5師団だったことを思え。


17 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/28(金) 11:27
機械化って・・・。
ちょっとばかし車輌が多い(日本軍の中で相対的に)のと自転車持ってただけじゃん(藁


18 名前: 自営業 投稿日: 2000/07/28(金) 11:41
俺のオヤジが言ってたぞ、出ると負けの近衛連隊って。
オヤジはシンガッポール攻略作戦に自動車部隊の運転兵をやってた。

中西先生の資料によると、皇居警備の近衛連隊は毎日新品の軍服に
袖を通し、一度着用した軍服は一般部隊に下げるとあります。



19 名前: 名無しさん@ 投稿日: 2000/07/28(金) 11:49
見栄えは良さそうだ>近衛


20 名前: 特命鬼謀 投稿日: 2000/07/28(金) 12:17
もともと近衛師団って、旧士族のための部隊じゃなかったですか?
確か桐野利秋だったかが、百姓兵なんぞ役に立たんとかいって作った
というハナシを聞いた記憶が・・(実際は生活苦にあえぐ旧士族の雇用
確保の意味合いが強かったんだろうけど)
だからこそのエリート部隊だと。
それが時を経て、旧士族なんてものの意味合いがなくなって、弱体化したと。

すんません、資料なしで書いてます。間違っていたら失礼。


21 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 12:39
うちのじいちゃん海軍の士官だったんだけどミッドウェーで艦隊が
ぼこぼこにやられちゃって、傾いた艦橋から命からがら脱出したんだって。
(艦長はもちろん残っていたらしいが)
その時に勲章やら軍装品は海に沈んじゃったそうだ。

でも海軍だったもんで戦艦大和や山本五十六さんも見た事あった
と言っていた(マジで)
本人ももう亡くなっちゃったけどね。


22 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/28(金) 13:07
禁裏を守る近衛兵と近衛師団とは基本的に別物じゃないの?


23 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/28(金) 15:23
皇宮警察ってゆーのも当時からあったんだろ。
そこら辺どうよ?


24 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 16:24
祖父は餓島から帰還できました。


25 名前: うそつき厨房@無農薬 投稿日: 2000/07/28(金) 18:21
うちの祖父は満鉄で働いていました。オレの母は満州で生まれ、終戦後日本に帰還するときに
近所の中国人から「子供をくれ」と言われたそうな。当時、日本人の子供は賢いと言うことで
中国人が引き留めたそうだ。

結局祖父は家族全員と帰ってきたが、日本軍が敗走してよりによって橋を爆破され、仕方なく
同胞数千人川をおぼれかけながら渡ったそうだがそこで何人も死んだらしい。
平壌を通り、日本に向かう最後の船に何とか乗れたそうだが、向こうで撮った写真は全て没収、
生まれたばかりの弟は船の中で腐ったゆで卵を食べ死んでしまったそうだ。
ロシア人による強姦、殺人は日常茶飯事だったそうだ。
祖父曰く、世界中でロシア人が一番意地汚いそうだ。

たくましさを感じました。


26 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 18:38
予科練ってなに?


27 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/28(金) 19:04
http://www.st.rim.or.jp/~k-kawano/yokaren/wyokaren.html
聞く前に検索くらいしろよ。>教えてくん


28 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 2000/07/28(金) 20:43
私の祖父は海軍陸戦隊だったそうですが
陸戦隊関係が詳しく書いてあるサイトご存知ありませんか??
Ya*ooとg*oで検索してみましたが
サバゲーのチームとか中国の事ばかりでして(><


29 名前: キルロイ 投稿日: 2000/07/28(金) 20:45
知り合いのじいさんは、陸軍機甲学校(今の東京農大のあるところにあった)
を出て満州で戦車兵をやっていたそうだ。(チハ車に乗ってたとかいってた)
終戦後、シベリアで5年間抑留されたといってた。
ロシア兵は掛け算ができない(←バカ)というのはホントらしい。
また、作業の行き帰りに野生の大蒜が生えていてそれを食べて飢えをしのい
だそうだ。(この手の話はよく聞きますよね)

また、知り合いのほかのじいさんは徴兵されて化学戦部隊に配属になり
「あか」弾「きい」弾なんかを実際に演習でぶっ放したそうだ。
(おいおい・・・)
防護服はゴム引きで通気性がなく夏は死ぬほど暑かったらしい。
その後、陸軍中野学校にいって憲兵くんになり曹長まで昇進したらしい。
泣く子も黙る憲兵くんは女性にモテて仕方なかったらしい。(藁)
映画館でデートしてたら別に付きあってた女性とかち合って参りました
よあっはっはーなどと自慢していた。
また、那須(だったかな)の御用邸の警備中に人魂が出て腰を抜かした
とかいろいろ面白い話を聞いた。
結局、上官が同郷のよしみでうまく手を回してくれて戦地に行かずに済
んだという事だ。

人生、いろいろですね。


30 名前: キルロイ 投稿日: 2000/07/28(金) 20:47
訂正
陸軍中野学校→中野の憲兵を養成する学校(正式名称はわからん)


31 名前: 安全企画部 投稿日: 2000/07/28(金) 21:07
うちの家は僧侶の家系らしいが祖父が近衛兵だったぞ。


32 名前: 露助はバカだ! 投稿日: 2000/07/28(金) 22:43
↑先日亡くなったウチの爺さんがよく言っていた言葉

満州で露助にとっ捕まって10日程強制労働させられ、
その時に腕時計を取られたそうな。
奴らは一人で腕に3つも4つも時計をして喜んでいたそうで、
それ以来爺さんは露助は全員「バカ」と思っていたらしい。


33 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/28(金) 22:47
8/9は反ソデーです!
…いまはなんていうんだろ?反露デーか??


34 名前: 2 投稿日: 2000/07/28(金) 22:54
なんだかうちのじいさんが優秀だったのかなんだか分からなくなりました。
まあ、私は私ですが。
戦友会の理事をやったりと戦後は色々活躍してますが、終戦近く(すでに除隊)は、四国上陸に備えて山に逃げるルートを探してばかりいた、
と婆さんが言ってました。


35 名前: 名無しさん@失業中 投稿日: 2000/07/28(金) 23:01
中野学校って諜報員とか特殊部隊員の学校じゃなかったっけ?
千草俊が中野の国防婦人会(だったかな?)に間借りして。



36 名前: 後備第101大隊 投稿日: 2000/07/28(金) 23:59

死んだ爺さんは東京一連隊の重機関銃手だったが、所属した中隊が
上海で全滅し、以後帰国するまでに1名の連隊長、4名の中隊長が戦
死しと聞いた。
あと、初徴兵(3回徴兵された)の時の連隊長は東条英機で、後に総
理大臣になったので、連隊長も偉くなったもんだとビックリしたそ
うだ。



37 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/29(土) 00:04
私の叔父さん(故人)は、陸軍の予備士官少尉で、南方へ行って戦っていたそうです。
決戦の前に盲腸になり、後方へ送られたそうです。そして叔父の部隊は
全滅したとのこと。実家には戦死の知らせが届いて、復員してきた叔父をみて
家族は驚いたそうです。こういった話はよくあったそうな。
本当に人生色々です。


38 名前: 自衛隊無用論 投稿日: 2000/07/29(土) 00:09
うちの爺さんは日本最初の戦車を開発したメンバーの一人だったらしい。
走行試験のデータを取るのに国道を使って東京から青森まで行ったそうだが、
当時の国道はとても道幅がせまく馬車がやっと通れるぐらいだった所は並木を
倒しながら無理矢理進んだり、階段が国道の途中にあって無理矢理登ったりし
たんだと。また戦車の設計というのは考えるよりも相当難しく、当時日本には
載せられるエンジンが無く、巨体に小馬力でとても戦争に使える代物ではなか
ったが、一台の単価は飛行機よりも遥かに高かったそうだ。


39 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/29(土) 00:39
なんだ?親族自慢スレか、ここは。


40 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/29(土) 00:54
いいじゃないか、すでに死んでいるんだから。


41 名前: >39 投稿日: 2000/07/29(土) 00:58
戦争体験というスレなのだが、
戦後生まれの俺らは実際に体験しているわけではないでしょ。
(まぁ紛争地域に行って巻き込まれたりしたってんなら別だが)
だから戦争を体験した世代から聞いた事を出しているだけ。
テレビでやっている戦時中のドキュメントより身近な話なだけに
面白いと思うがなぁ。


42 名前: キルロイ 投稿日: 2000/07/29(土) 01:01
35>
中野学校じゃなくて、憲兵を養成するところが中野にあったらしいんです。
詳しくは知らないんです。誰か知ってたらフォローきぼーん。


43 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/29(土) 14:23
age


44 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/29(土) 14:41
うちのじいさん(存命)は満州に行ってたとき
酒によってふらふらと宿舎に戻る時
八路軍に襲われてピストル一丁で何とか
逃げ帰ったとか言ってた。


45 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/29(土) 16:10
父が東京矢口に住んでいた頃、矢口の戦車工場にベトナムから壊れた戦車が毎日のように運び込まれてきて、工場内に入りきらない戦車が多摩川の河川敷に並べてあったそうな。
その頃は、第一第二京浜を戦車その他軍用車をつんだトラックを良く見かけたって。



46 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/29(土) 18:37
うちの隣の本屋のおじいさんは特攻隊の生き残りだそうです。


47 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/29(土) 22:53
 うちの近所のおじいさんは南方に送られて、インパール作戦にも従軍したそうです。
マラリアにかかって置き去りにされたのが逆によかったそうで、後方の部隊に助けられて九死に一生を得たとか。
 暗号通信に従事していたそうなので、飲むと必ず暗号を解かされて閉口しました。
暗号や無線は発信者によって癖があり、また受信する方にも癖があるそうで、送信側受信側の担当者の組み合わせによって暗号文書にも精度の違いが生じたそうです。



48 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/29(土) 23:45
途中から嘘っぽくなってきたな。
46が原因か?


49 名前: ER 投稿日: 2000/07/30(日) 02:56
>48
47のことか?どこが嘘っぽい?
当時の暗号では運用如何によって、情報精度に差が出たのは事実だよ。

米軍のケースだが、
・発信側が、冗長化の為の無意味文を添付するとき、不用意にこんな
文脈上本文と繋がりやすい文を使った。
・復号側では、暗号ルールを無視して、つい本文にくっつけてしまった。
おかげで電文を受領したハルゼー(だっけ?)が激怒、攻勢を強めた。

「全世界が知らんと欲す」。有名な実例だ。




50 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/30(日) 04:54
僕の父は、京都深草の野砲だった、大陸各地を転戦したが、
部隊が南方に出ていった時は、負傷で入院中だった、
その後、航空操縦士に転科したが、視力が落ちて、飛行機を降りた。
思えばとても幸運だった、と言っていた。

その時の話
帰投が遅れてみんなが心配していた僚機が、穴だらけになって帰ってきた、
しっかりと脚を出して着陸したが、降りてこない。
負傷しているに違いないと、みんなが駆け寄って風防を開けたが、
搭乗員は、胸に穴があいていて、既に絶命していた、
父は「かなり前に死んでいた、よほど帰ってきたかったのだろう、と言って、
皆泣いた」と言っていた。

2年前に他界した父は、嘘をつく人でなかった。
本当のことだったのだろう。


51 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/31(月) 02:09
テレビでアメリカ兵が撮影した終戦直後の日本の様子を見た事があるが
廃虚の中にも関わらず人々(特に子供がイキイキしていた)の表情がすごく
明るいのが印象的だった。
そして50年経って豊かになった現在の日本だけど、目が死んでいる人がすごく
多いような気がするんだけど・・・活力が無いっていうか・・・。


52 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/31(月) 02:18
>51
特攻隊員の顔なんか悟った感じで凄いよな。

うちの曽祖父の弟は陸軍次官だった。そのときの大臣は杉山元大将。
祖父は軍人じゃなかったが、真珠湾攻撃に補給船の艦長として参戦。


53 名前: >51 投稿日: 2000/07/31(月) 17:08
戦争中の話しではないけど、昭和30〜40年代の記録フィルムやVTRを
見てると人々の表情がイキイキしてるんだよね。瞳が輝いている人が多い。



54 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/07/31(月) 17:32
>53
やはり、社会的目標というものが描きやすい時代だったからだろうね。
しかし、混迷の時代であっても、幕末の武士達の顔つきは皆精悍だった・・・。


55 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/01(火) 07:14
祖父は非合法時代からの今日三糖院でした。
出征兵士の壮行会で「こんなばかげた戦争で死んではいけません」と
スピーチしてから村八分になりました。
遺品には独ソ戦関連の新聞記事のスクラップ帳があって、それをみると
スターリングラード戦以降ドイツが劣勢になってゆくのがよく分かります。


56 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:37
貴重なスレだ。
もうすぐ15日だし、もっと聞かせてくれ。


57 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 12:12
俺の祖父は、戦艦「山城」に乗ってたそうだ。
プラモデル組んだ事あるけど、「扶桑」共々格好悪いと思う。(なんて孫だ)
戦争体験って言っても、なにせ乗り組んだ艦が艦だから、しばらく瀬戸内海で冷飯
食ってた立場だったと思う。(想像)
そしてようやく出撃した先で、為す術もなく逝ったみたい。

戦死した身内を悪し様に表現するのも気が引けるけど、客観的に考え「山城」って
ところから、どう弁護してもエリートじゃなかったようだ。



58 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/11(金) 15:42
家の祖父は昭和13年に赤紙が来て、兵役検査で義眼がばれて、落ちた。
そのことが恥じと思ったらしく。
戦争体験は
「いっしょに検査受けた同郷の人たちは潜水艦で船ごと沈んだ。」しか言わず、
どこでやられたのかとか死ぬまで語らなかった。
太平洋戦争に興味を持っていた孫をどう見ていただろう・・・。


59 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/11(金) 18:14
うちの親父は近衛師団にいた、赤坂離宮に着任して半年で終戦
官位は少尉(終戦中尉)でした。
当時陸軍士官学校をでたてで回りは古参兵ばかり、で いろいろと
教えてもらえたといっていたが、いったいなにを教わったのだろうか?
また、たばこと酒には不自由しなかったので、古参の伍長あたりに物を頼むときは
金鵄とか光とかのたばこを渡すとよく動いてくれたとも言っていた。




60 名前: J姦@陸 投稿日: 2000/08/11(金) 21:11
>57
俺の職場にも爺さんが戦艦山城の乗組員だったひとがいる。
大戦中は乗員じゃなかったらしいが。

同期の爺さんが比島で米軍と闘った時の話。

奴等は野砲を捨てていったが、ソレをみて、あ・日本軍は負ける、と思ったそうだ。
日本軍なら絶対に野砲等遺棄しなかったそうだ。
米軍は野砲如きは遺棄している!と驚いたそうです。


61 名前: 47>ER 投稿日: 2000/08/12(土) 09:30
 フォローありがとう。誓ってマジレスです。


62 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/12(土) 10:33
>60
 正常な判断力をお持ちの方ですね。「見ろ、敵軍は恐れをなして大事な砲すら捨てていったぞ」なんて考えるところですが。

 母方の祖父は20歳そこそこで単身朝鮮に渡り、設計技師として橋梁の図面など引いてました。現地で祖母(日本人)と結婚、母3歳の頃敗戦。
 幼い母を抱え、伯母を身ごもった祖母をかばいながらの逃避行は想像を絶するものだったようです。汽車が来ないので徒歩中心で数百キロを行き、草ばかり食べて栄養失調になったり、抗日ゲリラに会った時は行き倒れの死体を装ったり。絶望感で何度母を朝鮮家庭に預けようと思ったか、伯母を堕胎しようと思ったか。半年近くかかって舞鶴にたどり着いた時は、大声で泣いたそうです。今でもこの話をするとぼろぼろ泣きます。
 あやうく残留二世になるとこでした。祖父母に感謝します。


63 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/12(土) 10:47
終戦直後、祖父が疎開していた祖母を迎えに行った時の話。
あまりにも列車が混んでいたので何かに額をぶつけてしまい、タオルを巻いていた。
そして、祖母が疎開しているド田舎に行くと、その姿を見た村人に驚かれたそうだ。
「東京から血染めの日の丸鉢巻きをした男が来た!」って(笑


64 名前: 我思ふ 投稿日: 2000/08/12(土) 12:33
昔は人殺しがうじゃうじゃいたんだなあ。


65 名前: >64 投稿日: 2000/08/12(土) 13:32
抗日ゲリラのことか?


66 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/14(月) 04:42
伯父が南方にいた頃、祖父(父や伯父にとっては父)の夢を見た。
復員後、従軍中に亡くなった祖父の命日は、その夢を見た頃だったとか。
別の伯父はシベリヤに抑留されて最後の方まで帰れなかった口だが、当時
のことは全く喋らない。


67 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/14(月) 04:52
うちは愛知県の田舎なんだけど名古屋が空襲されたときはそちらの方の空
が真っ赤になり、翌日には灰が降ってきたらしい。
名古屋に来た爆撃機の護衛なのか戦闘機が畑仕事をしている人間を見つけ
ると女子供関係なく機銃掃射するために何人か死んだとか。こんなのどう
見ても戦争犯罪だがつくづく勝てば官軍だな。

戦争末期に軍部が戦意に影響が出るとか言って被害がもみ消されたらしい
三河地震の時には名古屋から疎開にきていた小学生が宿泊していた寺が倒
れて死者が出て可哀想だったと当時同じ小学生で世話をしたりした父が言
っていた。
小学生といえば当時の学校の校庭は畑になっていて学業そっちのけで芋を
作っていたが泥棒されないよう先生や生徒が泊まり込んで監視したそうだ。


68 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/14(月) 05:15
戦争末期、四国の山中に関西・中国地区で爆撃したB29が残った爆弾を棄てていったそうだ。
その中に不発弾が結構あって、その信管を取りはずすのを陸軍がやっていたが、見よう見まねで
やった中学生が失敗して数人が死んでしまったんだと。
あと67のような例はしょっちゅうでグラマンを見たら隠れろ、と学校でも教わっていたそうだ。


69 名前: 7誌SUN 投稿日: 2000/08/16(水) 00:27
終戦日揚げ


70 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/16(水) 00:50
俺が小学校の時の先生の兄が海軍の飛行機乗りで、
実家に343空の源田実司令が来て
頭を撫でられたの覚えていると言ってた。
先生の兄と司令が一緒に写っている写真も見せてもらった。

おばさんが、グラマンに機銃掃射されたのは、俺も聞いた事がある。


71 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/16(水) 04:33
やっぱあれだよね、まじめな話人を殺したりした?とか
聞くとずーん、って重くなるんだよね、口が。
うちの爺ちゃんは中国を転戦して食料調達係だったから
人は殺さなかった・・・・ということで落ちついてるんだけど。
後世に伝えてほしい経験なんだけどな。
って2ちゃんねるでこんなまじめな話いいんだっけ?


72 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/16(水) 06:33
中学時代の同級生の祖父が武蔵の艦長だった。当時その事を聞いたときは
軽く聞き流したけど、最後まで船に残り自決して船と一緒に沈んだ話を
知ってショックだった。
^口(猪じゃない)って名でした。
ちなみにうちの父は予科連に行って、いろいろな検査に合格して腕に
ハンコを押してもらったが最後の聴力テストで「チクッチクッ」ていう
音を発するものを耳に近づけられて聞こえたら手を上げるというテスト
で、耳元ギリギリに近づくまで聞こえないフリをして検査に落ちたそう
です。けど、その後すぐに終戦。同じ町から予科連に言って合格した1人
が土産片手に毛布をしょって帰ってきたのを見てうらやましがったそうです。



73 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/16(水) 08:00
うちの父親は、おかずに、ほんのちょっとでもカボチャが出ると、
「カボチャは、もう一生分食べたのに、まだ食わせる気か!」
とカンカンに怒ります。

こんな戦争体験もありですか?



74 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/16(水) 08:57
>71 いいんでしょ?
口が重くなるのは多分当時と現代の価値観(?)の違いを知ってるから。
平和な生活が長く続けば過去を思い出して罪悪感もつ人もいるだろうし。
何より「日本軍は虐殺者」みたいな戦後の教育・報道見て育った人に話すには相当覚悟いるかも。
聴く方もそれなりの心構えがないと失礼だと思うね。

>73 (勝手に)あり。


75 名前: 亀レス小僧 投稿日: 2000/08/16(水) 10:13
亀レスですんません。
このスレッドの存在に全然気付かなかったもので。

さて、東京中野にあった憲兵養成学校は、そのものズバリ「憲兵学校」であります。
他に南京等にも憲兵養成所はあったみたいです。
詳細は光人社刊、山内一生著「憲兵よもやま物語」をご覧下さい。


76 名前: キルロイ 投稿日: 2000/08/16(水) 11:02
75>
やはり中野にあったんですね。
フォローありがとうございます。
本は早速買ってみます。


77 名前: 投稿日: 2000/08/16(水) 19:05
為になる話が多いですね。


78 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/16(水) 21:18
厳密には戦争体験ではないかもしれないけど・・・
戦後処理ということで。

うちのオヤジは戦後の機雷掃海任務についてました。
えと、ペルシャ湾ではなくて、昭和20年代から30年代。
かなり危険な任務だったそうです。
掃海作業中に僚艇が触雷して木っ端微塵に吹き飛んだこともあったとか。
救助に向かったけど文字通り木片しかなかったとか。

これ意外の事故を含む殉職隊員の慰霊碑が金毘羅山にあるそうです。


79 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/18(金) 02:31
それは悲しい


80 名前: 日本一のぬいぐるみ師 投稿日: 2000/08/18(金) 11:48
祖父(故人)は徴兵を受けて海軍に入れられて、南方の島へ送られたと。近く
の島に米軍が上陸とのことで、死を覚悟したそうだけど、いつまでたってもや
ってこないうちに結局終戦を迎えて復員。

後に米軍は飛び石作戦で祖父のいた島を無視して行ったとわかる(藁

一体どの島を守っていたのか興味を持ったが、小学生の時に亡くなったので
結局分からずじまい。ちなみに海軍では泳げない奴を艦から海につき落として、
泳がせたそうで、祖父はそうやって泳ぎを覚えたとか。人間死に物狂いにやれ
ば何でも出来るって?



81 名前: δ 投稿日: 2000/08/18(金) 20:25
WW2中、アメリカ人tって半数以上ヒロポンやってたんでしょ。
それでもって日本に空襲してきたアメリカ人の大多数が黒人だったとか。
民間人で遊ぶわ、赤十字は攻撃するわ世界の警察って言ってる割にはちょっと
道徳無いよね。それ以上に日本軍人の神経の方が分らないけど。
でも結局全部受け売り。教科書とかおじいtゃんとか。
嗚呼!当時にタイムスリップで来たらななんてあは


82 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/18(金) 20:38
>81
どこから持ってきた情報だ?
ネタか?


83 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/18(金) 20:44
>78

海自は実戦しているんだよね。


84 名前: たもん君 投稿日: 2000/08/18(金) 21:18
ageナリ


85 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/18(金) 23:34
俺の祖父は戦艦陸奥の乗ってたらしい。
沈没事故の前に転属になったとのこと。

「運がよかったね。」
と当時10歳の俺がいったら
「・・・知り合いがたくさん乗っていたんだ。」
いつも陽気なじいさんが真顔でそう言った。
子供心に自分の配慮の無い発言が恥ずかしかった。



86 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/18(金) 23:36
千葉で農家やってた爺さんに聞いたんだけど、高射砲で撃たれて
不時着したB29にえらく美人な女が乗ってたそうです。
通信兵だったらしいけど、一目見て惚れたそうな。
その後連行されてどうしたことやら。


87 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 00:15
うちの親父、現在66歳
当時は国民学校に通っていた軍国少年

オニギリを新聞紙でくるんでいったのだが、
御真影が載っていたため、おもいっきりシバかれる。
郡山へ爆撃に行った帰りのB-29編隊を警戒警報最中にも係わらず
追っかけていき、おもいっきりシバかれる。
同じく寝坊して汽車に乗り遅れるが、空襲警報で停止したSLに
飛び乗り、おもいっきりにシバかれる。

これも貴重な戦争体験でしょう(か)


88 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 00:31
あまりにも、爺さん親父の誇張した昔話を
さらに自分で妄想して膨らますヤツが多すぎ
軍ヲタの祖先なんて二等兵で流れ弾に当たり戦死がいいとこ

■■■■■■■■■■■■■■ よって終戦 ■■■■■■■■■■■■■■


89 名前: 自営業 投稿日: 2000/08/19(土) 01:11
俺のオヤジ、B級戦犯。
終戦はシンガッポールで憲兵中尉。

米軍パイロットの首はねの、立会人であったのが罪状。
巣鴨プリズンに2年間服役。同房者はA級戦犯の大臣だったと
ガキの頃に聞いた覚えがある。


90 名前: アルザス 投稿日: 2000/08/19(土) 01:28
 私の祖父(本当は父方の祖父の二番目の弟)は、やたら身長が高い割には
体重が無く(体脂肪率10%)、戦争中は会計課みたいな仕事をしていたが、
戦争末期になるとそんな祖父でも戦地へ送られ、結果。地獄の様な南洋の闘い
を経験したらしい。「計算」と「速記」の能力しか無いと思われた祖父は自分の
意外な能力に驚く「夜間視力」と「射撃」だ、祖父と帰って来た友人に聞くと
夜間での奇襲で驚くほど命中率で米軍兵士を撃ち殺したらしい。
 「私はもう戦争は嫌だ、だが、国民として戦争をする側になったら女や子の為に
殺人をしなければならない」という祖父の言葉が耳に残った


91 名前: 名無し 投稿日: 2000/08/19(土) 01:33
86>
そりゃ、「戦空の魂」に同じ話があったぞ
ネタだろ!


92 名前: >91 投稿日: 2000/08/19(土) 01:42
このスレは全部ネタと妄想なんだよ
「ウチの先祖は武家・公家衆でした」って言うのと同じ

■■■■■■■■■■■■■■ よって敗戦 ■■■■■■■■■■■■■■


93 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 01:45
私の叔父さんは 特攻の生き残り。
昭和20年8月18日に飛行機に乗って逝く予定でしたが
玉音放送で生き残りました。
ちなみに 叔父さん曰く「志願と言っても”いやだ!”と言えなかったし、
 飛行機で離陸するのすら危うい技術だった」と言っていた。



94 名前: 暗黒大魔王 投稿日: 2000/08/19(土) 02:05

俺の母方のおじはミッドウェー海戦にパイロットとして従軍戦死しました。
(何に乗っていたのかは不明)
ミッドウェー海戦からしばらくして、地元の新聞で大々的に報道され軍神の家族
として子供だった母の写真までのりました。
なんでも、勇猛果敢に敵空母に特攻したため新聞でとりあげたみたい。
その新聞は今でも実家にあります。


95 名前: >88,92 投稿日: 2000/08/19(土) 02:09
>88,92
いったい何が都合悪いんですか。



96 名前: 即応予備 投稿日: 2000/08/19(土) 02:13
>94

空母レキシントンに体当たりした、友永丈市大尉機の方では?


97 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 02:46
ジイサン=満蒙をひたすら行軍。ソ連対日宣戦後、満州で捕虜。
     ロシア兵は日朝中かまわず強姦しまくり、胸がむかついた。
     教育の有る若い奴を除けば、ソ連兵は全員カス。
     ナンパしたロシア娘から、こっそりパンや菓子を貰ったりした。
     抑留の一年目と二年目は、餓死者と凍死者が大量に出た・・・・。

その弟 =スマトラに送られたが、昭和19年マラリアにかかり、潜水艦にびびりながら内地送還
    =マラリアさえなければ、ここで百姓やっても良いかな、と思った。
    =なかよくなった現地人の娘さんがいたが、送還される事を伝えて無かった。今でも元気だろうか・・・。

その従兄弟=海軍に入り、海に慣れる。
     =海防艦や迫地で精勤。
     =操船技術を学んだため、戦後船乗りに。


98 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 02:53
俺のジイサン。
一式ライタ−の搭整員。
グラマンによく襲われたとの事。


99 名前: 真・ソニック 投稿日: 2000/08/19(土) 03:06
・父方の祖父
衛兵として上海から南京まで従軍。
怪我人を担架で運ぶ毎日だったらしい。
食料が乏しくなったら、中国人の家から鶏かっぱらって凌いだそうな。
「南京虐殺はあったのか」と中3の頃に聞いたら、
「う〜ん・・・全体的なことは知らんわ。」と一言だった。
(一昨日お盆で会ったけど、かなりボケが進んでて、俺のことが解からなかった。
大丈夫だろうか。かなり心配。)

・母方の祖父
田舎じゃ有名な秀才だったらしく、めでたく(?)近衛兵になった。
だが、何故か台湾で右足を負傷し、内地に帰還。
ピストルで撃たれたらしいが、誰に、何が原因でそうなったか黙して語らず。
家族の誰一人として明かさないまま、7年前にポックリ逝っちゃった。
凄く厳格な人で、遊びに行った時チャンバラしてた僕に向かって
「うるさい!!帰れ!!」と一括。
泣いて帰りました。

ゴメン。
戦争体験というより単なる思い出話ですね。


100 名前: テリ緒 投稿日: 2000/08/19(土) 03:06
うちのジイサン

徴兵されるも、親父(俺の曽祖父)が居なくて兄弟も多い長男だったの
で2週間で帰らされる。

というか、うちの親族でまともに軍務についたのは俺がはじめて。



101 名前: まつなが一等兵 投稿日: 2000/08/19(土) 03:16
父方の爺ちゃんは226事件の時に出動したらしい。
でも東京へ向かって歩いてく途中に事件は集結してしまったとか。
それ以外の戦闘には参加せずに任期を終えて100歳近くまで生きました。


102 名前: 粕谷真人 投稿日: 2000/08/19(土) 03:42
私の父の曾おじいちゃんは、203高地で、味方の死体の下に
隠れて生き残ったそうだ。

私の父は、土手を歩いているとき、グラマンに機銃掃射された。
その時、土手を川の方にころがって逃げた。
グラマンは、黒くずんぐりととしたくまばちみたいな機体だった。
今でも、グラマンの糞野郎と行っている。



103 名前: 伍長止まり 投稿日: 2000/08/19(土) 04:08
実家のジイは75歳で存命中。19年に召集されて船舶工兵になった。
20年になってからの主な任務は小型船舶の擬装(儀装じゃない)。
週に1度山へ木や葉っぱを採りに行って、それで上空からの目を隠してたそうな。
ある日、いつものように艦載機の襲撃があっが、銃撃には降りてこずに紙切れ
だけ捲いて帰ったらしい。その紙切れには「擬装作業ご苦労様」と書いてあった
とさ!「んなもん、あほらしてやってられへんだわ!」とはジジイの言葉。


104 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/19(土) 04:08
父方の祖父は戦前から旧国鉄に勤めており、徴兵された時も
『鉄道連隊』(部隊番号忘れました)に入れられ、中国南部を主として
歩き回らされたそうです。大陸打通作戦には必要な部隊だったと聞かされました。
(一種の工兵だったのでしょう)


105 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 04:59
軍人じゃないけど・・・
うちの母方の家は 神主一家。
母の叔父が 「満州神宮(神社かも)」の神主として満州に派遣されてました。
ソ連参戦後、「神主」という 神國の神官の特権(?)で
家族揃って非常に優遇された状態で帰国しました。

こう言うのもあり?


106 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 05:04
うちの親父は幼少の時、P38に追いかけられたそーです。


107 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/19(土) 05:05
家族じゃないんですけどね。
13年前に一人旅の途中に席が隣になった滋賀県で乗り合わせたおじいさんなんだけど。

足が悪い人だった。
いろいろ話しかけてくるので 話してみると
支那戦線で 足を撃たれ人だった。
いろいろ話をしてくれるのでずーっと聞いていると
陸軍兵士の苦労話をいっぱいしてくれました。
従軍慰安婦の話とかいろいろ。

なんでも 遠い昔に銀行に預けたお金をおろしに行く途中だったらしいけど
お金おろせたのかな?
それより 今でも元気かな?


108 名前: >82 投稿日: 2000/08/19(土) 14:33
じいさんと教科書からの受け売りって言ってるだろ(ワラ


109 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/20(日) 13:17
私の父は、シベリア抑留9年。露助はバカで、数も、満足にかぞえられない。しかし体格のわりには、粗食だったそうです。医療技術は、最低で傷口お縫う事ができなくて外科手術は、帝国陸軍軍医しかできなかった。時計は、盗られたけど、使い方ぜんまいお巻くことも分刈らないし両腕に肘までつけていたそうです。私の生まれは、北海道o市なので、子供の頃樺太や、大陸から引き揚げた人の、アパートが、有りました。父の、戦友や、同年配の人は露助じやなくてアメリカが、進駐して良かった。露助だけは、もう一度戦争して、ヤキおいれたいと、言ってました。


110 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/21(月) 14:50
age


111 名前: 逝った祖母より 投稿日: 2000/08/21(月) 15:05
子供の頃、毎日聞かされたしりとりを紹介しましょう。

しりとり−リンゴ−ゴリラ−ランプ−プリント−時計−イカ−亀−メジロ−
「ロシヤ」−「野蛮国(ヤバンコク)」−「クロパトキン」/終了

日露戦争時は小学生だった祖母が言ってました。「」内は、今から思い出しても強烈ですね。
国を挙げて国民の敵愾心を煽っていた、良い証左でしょう。

※クロパトキンって、かなりディープだなぁと思う。



112 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/21(月) 15:42
大学のロシア語教師のじいさんは、シベリアに抑留されたらしい
でもロシア語が出来たので楽できたんだって。
そしてロシア語教師いわく

「ロシア語が出来ると、ロシア軍に捕まったとき得するよ
                 だからもっと勉強しろ 」





113 名前: 投稿日: 2000/08/21(月) 15:48
すいません、ここ笑うとこですか?


114 名前: >113 投稿日: 2000/08/21(月) 16:14
あなたのレスに藁ってしまいました(笑

#すいません。ここは謝っておくべきでしょうか?


115 名前: 113 投稿日: 2000/08/21(月) 17:48
>114
いへいへ。

ぢつわ抑留先でロシア人の教師の台詞と勘違いして。(^^;
# あねくどーと


116 名前: ミラギ 投稿日: 2000/08/22(火) 13:51
死んだ私のじいさんは医者だったのですが、徴兵はされたものの、外地には一回も行かなかったそうです。
なんでも4回くらい外地への転属命令が来たんですが、途中でストップされたとか。
陸軍中尉でしたが、石井中将とは大学の同期か少し学年が違うくらいみたいです。
徴兵されていた間何をやっていたのかは教えてもらえませんでした。
内地なんで細菌戦部隊ではないと思うんですけど。


117 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/22(火) 14:19
うちの死んだ祖父は、徴兵されたのち上官と衝突して半殺し
の目にあったそうな。その後遺症で除隊。任地は満州だったから、
そのままだと戦死してたかも。あと、原爆投下の数時間?前に
広島を通過したこともあるそうな。まあ、この世代の人たちは
必ず一回や二回死の危機に瀕してるだろうけど。


118 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/22(火) 16:14
おれが昔勤めていた会社にいた人。
瀬戸内海のどっかの高射砲部隊にいて、B−29を撃墜したら、
翌日休暇をくれたそうな。


119 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/22(火) 16:55
ウチの祖父は「キスカ島からの無血撤退」を経験してます。
撤退が決定してから野砲を分解し、港まで運んだが、救出艦隊が
予定通り来ず、また陣地まで野砲を運んで組み立てて…
ということを何度も繰り返したそうです。


120 名前: 軍服隊長 投稿日: 2000/08/22(火) 17:06
私のおじいさんは戦争が終わり頃に近くなってから徴兵され
爆薬作りに携わっていたそうです。何でもオウショク薬という火薬は
砂糖の代わりになるそうで、それで汁子とか作って食べてたそうです(笑)。



121 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/22(火) 19:01
ウチのじいちゃんの戦歴
ノモンハンで敗走、満期除隊後に再召集でどこに送られるかと
思ったらインパール、また敗走・・・
最後はフィリピンで投降。アメちゃんの食事が口に合ったらしく
従軍前よりも太って復員。我がじいちゃんながら物凄い強運です。


122 名前: 名無しの@平 投稿日: 2000/08/22(火) 19:45
私のおじいさんは松下電器にいて電気関係に詳しくその後軍人になり
工兵隊で障害物除去のため電気発火式の爆破をやっていたそうです。
満州に配属されソ連に攻め込む(関特演)に参加予定でしたが作戦中
止、その後本土決戦に備え本土にきたところ終戦。結局最前線にいて
実戦参加なしだった。


123 名前: ノモンハン 投稿日: 2000/08/22(火) 20:48

>クロパトキンって、かなりディープだなぁと思う。

クロパトキンってどっちのクロパトキンなんでしょうね?
日露戦争当時の将軍の方でしょうか?
それとも夢精府主義者の方?





124 名前: うろぼろす 投稿日: 2000/08/22(火) 20:54
自分のおじさんが終戦後の沖縄で、米軍の情報機関(CICとかいったかな?)で
通訳のバイトをしていた。なんでも、尋問では何回も同じ質問を繰り返して、相手
の反応をうかがうそうだ。
その後、おじさんはホテル業(ラブホじゃないよ)をしていたが、その時のくせ
で、従業員にも同じ質問を繰り返していたそうだ。


125 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/22(火) 21:26
父方のじいさんは専売公社勤めだったから徴兵されなかった。
母方のじいさんは帝国陸軍軍曹。満州→沖縄だったけど、沖縄に到着する直前に終戦。
両方の遺伝子が俺の中にいると思うと不思議な気もする。


126 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/22(火) 21:57
うちのじじ

父方:農家(青森県弘前)のボンボンだったが徴兵されて兵卒満州へ
   その後シベリア送り。無事生還した。

母方:陸軍士官学校卒、その後中国にいたらしが何をしていたか
   語ろうとしない。その後日本にきて大本営にいたらしい
   そこで終戦。親戚によると、月に一度軍服を虫干している
   らしい。机には止まった恩賜の時計がある。

   士官学校時代の話はするが、大陸では謎。きっと孫に
   は言えないことをしていたのか?
   なお南京大虐殺は無かったと見解している。


127 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/08/22(火) 23:20
親父。旧満州からの引き揚げ者。

ソ連兵が腕時計を幾つも腕に巻いていたという話が上の方にあるが、それは本当。
理由は、当時の腕時計は手巻き式で、農奴出身の兵隊どもは、一度腕時計が止まって
しまうと「壊れた」と勘違いして、バンバン捨ててたそうな。それで幾つも日本人から
腕時計を奪って、腕に巻いていたらしい。 ちなみに、ソ連兵が捨てた腕時計は、ちゃっかり
満人が拾って使っていたそうな。

ソ連兵はキャラメルの食べ方を知らなかったとも言っている。キャラメルを渡すと、きゃつらは
包装紙を取らないまま口に入れようとしてたらしい。親父たちガキどもは、身振り手振りで
キャラメルの食べ方を教えてやったそうだ。

市中で略奪をしていたソ連兵を、同じくソ連の将校が射殺するシーンも見たらしい。軍規違反って
ことだったんだろうな。

ソ連兵による略奪、強姦は日常茶飯事だったらしいが、それでも満人たちによるそれに比べたら、
遙かにマシだったらしい。ソ連兵が親父のいた街に進駐してきてから、かなり治安がよくなった
そうだ。

あと、うちの伯父貴(親父の兄)は米軍の爆撃機が来たというので急いで下校中、今渡ったばかりの
陸橋に爆弾が直撃し、危ういところで死を免れたと言っていた。

親父は「進駐してきたソ連のスターリン戦車のかっこよさに驚いた。日本の戦車は砲身が短くて
かっこ悪かった」と言っている。スターリン戦車という固有名詞をきちっと使っている。ということは、
当時の満州ですでにあの戦車のことを一般人もスターリン戦車と呼んでいたのだろうな。



128 名前: 精兵 投稿日: 2000/08/23(水) 03:37
うちの沖縄の死んだじいちゃん、宮古島にいたから結局何もしなかったらしい。
彼こそ精兵だ。


129 名前: 111 投稿日: 2000/08/23(水) 12:52
>123
 もちろん、日露戦争時の敵将ですよ。

 で、今度は昭和の話を。
 祖母の従妹は、防空壕で泣き叫ぶ乳児をあやしている最中、周囲から「敵に聞かれるから」と
言われ外に出されたそうです。もっともB29は既に彼方へと飛び去った後で無事でした。
 「赤ん坊の泣き声がB29に聞こえる訳ねぇーだろッ!」
と、ツッコミできる雰囲気ではありませんからね〜。



130 名前: 名無し 投稿日: 2000/08/23(水) 13:38
129>
似たような話で、
海軍のエースパイロット進藤三郎氏も防空演習中にタバコを
吸いながら歩いていて警防団員に「タバコの火が敵機に見つ
かったらどうする」と絡まれたはなしを読んだことがある。
「私は夜間もだいぶ飛んでますがタバコの火を見つけたことは
一度もありませんねえ」とやりかえしたそうな。

こういう中途半端な(それもまちがった)知識を振り回す輩は
始末におえない。



131 名前: 名無しさん@5周年 投稿日: 2000/08/23(水) 14:17
(戰爭末期)
 家の母方の祖父は、等學校卒業後、新潟の通信學校にいって、參年
間通信の勉強を主にやった。その學校で特に、優秀だった生徒たちは、
壹年半だけ勉強して、南方に征った。そして南方行きの船はあっけなく
總べて撃沈された。勿論のこと、私の祖父はそれには乘っていなかった。
 祖父は卒業後、中國方面に行った。祖父は、前線では戰わなかったの
で、死ぬことも無く戦争は終わった。そして、日本からの船を待って歸
ったとさ。
 優秀だったら死んでいたよ。


132 名前: クズzzz 投稿日: 2000/08/23(水) 14:30
実際、戦争に勝つんだったら御国の為に命捨てても良いけどさ。
負ける戦争に命掛けるのはいやだね。
日本は敗戦して、否定され、改善?されたから戦争に行かなくて良かった、劣勢で助かった。
なんて云う話を良く聞くけど、もしも勝っててそのままの日本だったら、彼ら一生笑い者にされてたんだろうね。


133 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/23(水) 15:17
余裕で勝った戦争のために命捨てるのも何かいや。
戦争自体に勝つかどうか負けるかより、命懸けの行為によって他人の命を救ったとかの
成果があるかどうかの方が重要だね。少なくとも私にとっては。


134 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/23(水) 20:20
戦争体験とは違うかもしれないけど、うちの親父は自衛隊にいた頃、
輸送船で移動中にソ連の潜水艦にばったり出くわしたことがあり、
マジでびびったという話を聞かせてくれた。


135 名前: 134 投稿日: 2000/08/23(水) 20:47
母方の祖母は従軍看護婦として病院船に乗っていたところ、
グラマンに機銃掃射を受けたそうです。祖母は船に積んであった機関銃で
反撃したそうな。(もちろん当たらなかったけどね)


136 名前: 日本一のぬいぐるみ師 投稿日: 2000/08/24(木) 11:55
もう一人の祖父(←こっちはまだ生存)の話。

そ〜いや、招集されたけど呉にいて結局戦場に行ったことない....で普通だった
らおしまいなんだけど、終戦間近のある日の朝、広島の方向で轟音とともにもの
すごい雲が湧き上がったそうな。よ〜するに原爆のキノコ雲を見たって事らしい
けど、その当時は何が何やら分からず大騒ぎだったとか。

ちなみにその祖父は2・26事件の時に東京にいたらしく、帰る道が軍隊だらけ
で各所が封鎖されており、裏道を通って帰った事があったらしい。どっちにしろ
軍隊が暴走した国家って恐いよね。


137 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/24(木) 13:29
ロシア語教師の話の続きですが

シベリアで、作業場へ移動中にトラックがぬかるみにはまったとき
ロシア兵数人が押してもぬかるみから出られなかった。
そのとき50歳を過ぎていた、ロシア語教師の祖父が、木切れをテコにして
トラックをぬかるみから出す事に成功した。
そのときロシア兵は渋い顔をして ロシア語で
「ずる賢い」  といったそうです。

 ロシア兵がただバカなだけだと思うけど



138 名前: 投稿日: 2000/08/24(木) 13:43
すいません、ここも笑うとこですか?(ぉぃ)


139 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/25(金) 23:18
母方のじーさんは開戦時、榛名に乗っててすんでの所でプリンス・オブ・ウェールズ
と戦うところだった。
陸攻隊に沈められたと聞いて、みんなホッとしていたか、残念がっていたか、と聞いたら
「残念がっていた」
と言ってた。

でももし戦っていたら多分俺は生まれていなかった(ワラ


140 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/26(土) 00:58
母方のジィさんは大陸で警察官(署長)をしていたそうだが、
ラスト エンペラーの個人警護もやっていたと今でも自慢している。
 戦後、自分の命令で沢山の方の命を奪った事を後悔して
庭に小さい慰霊塔を作って 毎日拝んでいる。


141 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/26(土) 22:16
戦争体験じゃないが、うちの母が勤めてた頃、職場の先輩に「北」の人がいた。
その後、在日朝鮮人を帰国させる運動があって、その人も「北」へ行く事になった。
母曰く「物凄く嫌がって泣いてた」そうだ。
その人は、今生きていれば60歳。「テポドン」だの「金正日」だの
の話題が出る度、その人の事を思い出すそうだ。


142 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/29(火) 17:52
age


143 名前: 名無し 投稿日: 2000/08/30(水) 09:12
親父の姉は勤労動員で航空機工場で働いていたところ被爆した。
建物の下敷きになりもうだめかと思ったら友人に助けてもらい
足が折れていたので荷車で家まで運んでもらった。
2日間熱を出して寝込み、気が付くと部屋の窓から
「これが戦争だ!」というスローガンの書かれた看板が見えて
呆然とした・・・という。
ネタじゃないよ。



144 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/01(金) 03:07
貴重なスレなのでage


145 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/03(日) 13:47
うちの祖父は旭川の第7師団所属で、
日露戦争の時、203高地に登ったと言っていた。
でも、いくら聞いても当時の戦闘の事とか絶対に話してくれなかった。
明治の人は頑固だから、話さないと決めたら絶対に話さないんだよなぁ。



146 名前: >145 投稿日: 2000/09/03(日) 14:38
オマエのジジィは
徴兵されたくないから北海道あたりに籍移したんだろ
んで、もちろん作り話ね
話さないんじゃなくて話せないだけ


147 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/03(日) 15:52
今は亡きうちのひいじいさんは戦記にも載ってたよ
蔵の中には野戦教本やら式刀があった
あんまり話もしてくれなかったな


148 名前: 雲J 投稿日: 2000/09/03(日) 17:08
オレのひいひい爺さんは第1次長州戦争に参加したよ。
本家に行くと、その爺さんが足軽フル装備で写ってる写真がある。


149 名前: >146 投稿日: 2000/09/03(日) 17:14
おまえばかじゃねーの、北海道も日本なんだよ、
徴兵はちゃんとあるんだよ、少しは歴史勉強しな。


150 名前: 竹田丹後守 投稿日: 2000/09/05(火) 07:37
昭和の末期、高校の物理の先生が「戦艦比叡(か何か)に乗り組んでいた」と
授業中に我々生徒に語って、教室中が大爆笑になった(「昭和軽薄時代」だった
ので古い話・重い話は当時嫌われた)
オタな俺は戦艦に乗る兵隊は優秀ということを知っていたということと、貴重な
戦争体験談が聞けなくなったのでマジで腹が立った(大爆笑のせいで続きが聞け
なかった) まったく80年代・昭和軽薄時代つーのは今思い出してもムカツクな



151 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/05(火) 09:09
父方の祖父(既没)は海軍兵学校の数学教諭でした。
当時のアルバムには、水兵時代の甲板清掃や、演習の風景が。
短刀も残ってます。



152 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/05(火) 11:15
>146
最低・・


153 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/05(火) 11:31
>150
本当に比叡なら、戦艦(巡洋戦艦だけど)の中でも一番戦歴の多い
やつですな。貴重な話が聞けたかも。


154 名前: タンテ 投稿日: 2000/09/05(火) 11:39
もうだいぶ前の事だけど、
友人の親父が満鉄の調査部に居たと語っていたので、勤務地を聞いた。

友人「たしか大連とかいってたな」
俺 「それって特務機関じゃないのか?」
友人「え?」
俺 「こんど帰ったときに聞いてみ」

友人が尋ねたところ、親父さんは驚いた顔をして手を震わせていたそうだ。
親父「どっ、どこでそれを聞いた」
友人「今は一般の資料に乗っているから心配しなくて良いらしいよ。
   知り合いがそう言ってた」
親父「そうか…もう…(聞こえなかったらしい)」
 そう言って茶を飲みながら、外を見続けていたそうだ。
 心の奥に秘めて語れぬまま、人生を終えた人も多そう。


155 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/02(月) 13:55
父方のお爺さんは南方で撃墜死した。
陸大卒の大佐でしたので、1階級昇進で少将です。
陸軍省勤務で最前線にいかなくてもいいものを視察で出てやられてしまったそうです。
我が家は元来士族で維新以後も職業軍人の家系でした、祖父はその中でも出世頭でした。
今は普通のサラリーマン家庭ですがどことなく軍人ちっくな行動パターンがあります。
父は釜山生まれの満州育ちでした、これも転勤のせいですね。
別冊歴史読本の陸軍将官名一覧に祖父の名を見つけた時は、あって当然なんですけど歴史を感じて感動しました。
でも歴史に翻弄された戦後だったらしいので、誰も自衛官にはなりません。



156 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/02(月) 15:49
うちの爺さんは「姿勢がいい」という理由で連隊旗を持つ役目を仰せつかっていたそうな。
日中戦争が始まる前に除隊。
未だに背筋がピンと張っててかっこのいい爺さんです。


157 名前: 名無し@三等兵 投稿日: 2000/10/02(月) 18:45
うちの祖父は理科大卒なのに第101師団の補充兵で
南京攻略直後の南京に赴任してました。
その話を聞いて祖父に南京大虐殺はあったのかと聞くと
「戦争に負けたからには何を言われても仕方ない。」
と呟いて何も答えてくれませんでした。
祖父の古いアルバムには、南京攻略1ヵ月後の大学の
恩師との南京城門での集合写真がありました。



158 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/02(月) 18:56
うちの祖母は東京のある工場で働いていたのだが
別の部署に山本五十六の娘さんがいたんだと。もちろん見たこともあるって。
職員はみんな彼女に気を使っていたという。


159 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/10/02(月) 20:36
 爺さんは満州のハルビンで衛生兵をやってた。
 丙種合格の補欠の補欠。

 抑留経験者だが、抑留経験は涙無しでは語れないそうだ。
 


160 名前: 名無し二等兵 投稿日: 2000/10/02(月) 21:36
うちの死んだ婆さん、満州の開拓団で看護婦やってたそうだが逃げそこね、
看護婦ということで国府軍に引っ張られるところを知り合いの士官に助けてもらって
最後の引揚船で逃げてきたと言っていた。
実際、婆さんと同じ開拓団の人が何人も残留してる。


161 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/03(火) 00:40
うちの爺さんは戦前、満鉄の奉天獣疫研究所にいたそうで、
ドイツ留学もしていたのだが、鼻疽菌の研究をしていたせいで
731の石井と北野が直々に勧誘に来たらしい。結局断ったのだが、
そのせいで爺さんは終戦間際に45過ぎで徴兵されたとか
ちなみに爺さんは全くその事に付いては語りたがらなかったので
すべて同僚からの伝聞だそうだ。


162 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/03(火) 02:50
母方の祖父は戦前から警官で戦争中は憲兵だった。
英語が出来たので捕虜の尋問をやってたそうだ。
戦後再び警察官になり、最後は通院中の警察病院の玄関で脳溢血のため
たおれ亡くなった。


163 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/10/03(火) 03:02
オレのじーさん第九師団なんで戦闘体験が全くない。
ちょっとつまらない。


164 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/03(火) 03:14
一人は郵船の船員でマニラに陸軍増援中にボカチン食らって戦死した。
ヒ71だったかなんだか、一緒に護衛空母大鷹も食われた船団だったかな。

後は海軍予備少尉で三沢基地勤務。七月の敵機動部隊空襲で負傷したくらい。


165 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/10/03(火) 03:20
親父は陸軍少飛出身(ただし、通信兵)
朝鮮半島の小さな飛行場におったらしい。
戦闘もなにもありゃせん。
存命。


166 名前: 164 投稿日: 2000/10/03(火) 03:36
ちなみに昭和19年に入ると敵潜水艦の通商破壊が激化して郵船の船も
軒並み撃沈。
じいさんは横浜港から船団集結地に出港する前に
「もう戻れんだろうから後はよろしく頼む」とか言ってたそうだ。


167 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/10/03(火) 04:28
>166
おおっ!俺の叔父さん輸送船、撃沈されても二回泳いで帰ってきたよ。
根性ある人だったらしいが、三度目は帰ってこなかった。


168 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/03(火) 10:03
私の叔父はシベリヤ抑留体験者です。健在ですが当時のことは
話したがりません。よほど過酷だったのでしょう。


169 名前: 名無し@讀賣 投稿日: 2000/10/03(火) 10:45
近所の88歳の医者は元軍医です。
今でも現役で、注射を打つ手が震えてる
特に野郎には客ではなく、下士官に接する態度で診察してくれます
外科医でもあるので入院したい人どうぞ


170 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/03(火) 13:20
しかし徴兵制の恐ろしさだね。
ここに職業軍人はわずかしかでてこないのだから。



171 名前: 大渦よりの来訪者 投稿日: 2000/10/03(火) 13:52
うちの父方のじいさんは海軍の軍医でした。
乗った艦が瀬戸内海で漁船の衝角攻撃(笑)をうけ沈んじゃった事があったそうなのですが、
艦長が人生諦めきった海軍士官だったので座礁させていきなり総員退艦を発令、
一隻船が沈んだにもかかわらず、軽傷者しかいなかったそうです。
そのまま、隊列を組んで濡れ鼠で嵐の中何処とかまで行進していったと言ってました。

・・・・・・それにしてもなんて名前の艦なんだろう。


172 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/10/03(火) 17:50
昔聞いた話なのでうろ覚えですが
親類の方が戦争中飛行機の搭乗員をやっていたらしくて
沖縄方面に出撃して磁気探知装置を用いて潜水艦を探知し、
爆雷を投下して見事撃沈したそうです。
しかし成功したのはこれが最初で最後だったらしいです。

記憶が曖昧なので間違っていたらすいません。




173 名前: 名無しの役者 投稿日: 2000/10/03(火) 20:08
母方の祖父・・・
昭和20年海軍に徴兵。呉の陸戦隊に配属。
戦中は呉にずっといた為、広島に原爆落ちたとき救助活動のため
数日滞在したとか…
戦前、中島町の歓楽街で遊んだり、産業陳列館(現原爆ドーム)を
眺めたことがあったので壊滅した広島を見るのはショックだったとか…
父方の祖父・・・
陸軍に徴兵。海南島に駐留
フルーツが美味かったと感想
嫌だったことは慰安所みたいなところがあったが
行きたくなかったけど行かないと根性なし、女嫌いに思われるため
上官、同僚の目を気にして女抱かずに金だけ払ってそこで時間潰してたんだって…





174 名前: BAN 投稿日: 2000/10/04(水) 01:57
うちの大学の教授は、中国大陸で人体実験してたと言ってた。
731かな?


175 名前: 名無し@三等兵 投稿日: 2000/10/04(水) 02:11
>170
職業軍人は祖父の兄弟にいたけど
ほとんど戦死。男5人兄弟で3人が軍人
後に徴兵で残り2人(一人は満蒙開拓団)
も軍人に
生き残りは内地で終戦だった祖父と乗船を沈められ
片足と引き換えに生きて帰った一人だけでした。
軍人の2人は中国戦線とビルマで戦死したそうです。


176 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/10/04(水) 05:37
じーちゃんは丙種合格の単なる二等兵だったけど、同級生で信濃に軍医として乗りこんで
沈んで、持ちこんだ論文や研究資料がすべてなくなって、学位をとるのが大幅に遅れた人が
いたみたい。



177 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/13(金) 21:20
age


178 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/13(金) 22:23
父方の祖父祖母は満州からの引き揚げ者。
まだ赤ん坊の叔父を抱いて、
貨物列車にギュウギュウ詰めになって運ばれた。
と、そこへ馬賊が襲来。
貨物車の扉をガンガン叩いて、人が乗っていないか調べて回った。
一言でも喋ったら最後、全員引き出されて略奪され、殺されるのは必定。
祖母は叔父が泣き出さないように、必死で口を塞いだ。
もしそこでバレてたら…俺はこの世に存在しなかっただろう。
それとも中国語でも喋っていたか?


179 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/13(金) 22:30
うちは特別高等警察。


180 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/10/14(土) 00:51
小学校の時の校長、転勤してきて朝礼で俺は戦艦大和の乗組員だったと
言っていた。
 今思えば、組合活動が活発な学校だったら大騒ぎだったかも。


181 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/14(土) 18:11
うちの祖父。
仏領インドシナで偵察中に負傷。
フランス陸軍の軍医に腎臓の手術をしてもらって助かった。

戦後は自衛隊で教官をしていた。脳出血で倒れて長患いの後去年亡くなった。


182 名前: ミロシェビッチ 投稿日: 2000/10/14(土) 18:27
うちの爺さん、中国戦線でなんかやってたらしい。
曰く「国民党と共産党が戦闘してたから攻撃したら、一緒になって反撃してきた」
んでその後日本軍が後退すると、また戦闘してたらしい。

この話本当?教えてPLZ


183 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/14(土) 19:07
>174
それって、実際どういうふうにその話をされたんですか?
自慢げに?あるいは暗めに?
前者だったら、阿部○なみに最悪ではあるが・・・。 


184 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/14(土) 20:04
>180
ひょっとして三重県の人
本書いてる人にそういう人がいたような


185 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 00:19
>>182
私はこんな話を聞きました。
 討伐に行ったら、国府軍と八路軍が、どんぱちやっていたので、しばらく
見ていて帰ったそうです。


186 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 01:33
うちのじいちゃんは
ビルマに行ってたらしい。
線路敷いてたそうだ。
その部隊の戦友会資料みたいなもんに当時の写真とかがあった。
ワニ食ったら行方不明になった仲間の服が出てきた話がインパクトあった。
すさまじいな戦争って。


187 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 01:54
もう逝ってしまった親父の話。
親父は電気工学科にいたのでNHK愛宕山放送局に学徒動員された。
終戦前夜、玉音放送が録音されたレコード盤のお守りをしていた。
朝方、将校がやってきて開けろ開けろと激しく鉄扉を叩いたそうだ。
結局扉を開けずに息を潜めていると将校はそのまま帰ったそうだが
生きた心地がしなかったそうだ。


188 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 02:49
ぼくのおじいちゃんの話では、むかし、ちゅうごく
にいったとき、たくさんのちゅうごくじんをころしたと
いうことです。
とくに、なんきんというところでは、なんじゅうまんにん、
というひとをころしたのをみたそうです。
ぼくは、こわいなあと、おもいました。
がっこうのせんせいも、おなじようなことをいいました。


189 名前: 名無しより愛をこめて 投稿日: 2000/10/15(日) 03:03
以前、汽車にのっていたら隣りの席に座った老人が話しかけてきた。
商船に乗り、何度か沈没を経験したそうな。
何でも、魚雷攻撃を受けた輸送船が沈没した際、頭を打って目が悪くなったとか。
ところが、それを証明してくれる人がいないので傷痍軍人にはなれなかったらしい。
その人は、浜松の商船会社(だったかな?)にいて、海軍に徴用。
「出征」扱いではなく、「出張」扱いだったそうな。
その老人の話。
「商船は一度機銃掃射を受けると、被弾した穴から浸水し、すぐに沈んでしまう。
穴は船内からではどうすることもできなかった。外からなら、簡単に塞げたのに。」
船って、意外と脆いんだなと思った。

私の祖父(故人)は何故か知らないが、陸軍と海軍の両方に徴兵された。
海軍では、横須賀工廠で艦船の修理に従事。駆逐艦なんかは頻繁に来たってさ。
時には砲塔を完全に吹き飛ばされた艦もあったとか。
「長門」や「雲龍」にも乗ったことがあるらしい。
曰く「長門はとても大きかったが、雲龍はそれほどでもなかった」

陸軍には通信兵として従軍。二等兵なのに何故か上官と勘違いされ、敬礼を受けて
困ることがよくあったらしい。本物の上官にみつかったら、殴られたんだろうなあ。
青森に移動中、列車が空襲を受けて仲間が数人戦死。で、青森で終戦。
8月15日、将校が号令台に立ち、我々はまだ負けてない、最後まで戦う!!
と号令したらしい。

祖父は、かなり幸運な人だろうな。
もっと話を聞いておけばよかった。後悔後悔。


190 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 06:06
俺の祖母の兄弟に陸軍中尉がいたのだが、復員してきて開口一番、
「俺一人でも戦う、進駐米兵を片っ端からぶった斬ってやる!」
その並々ならぬ剣幕に、親戚一同は大慌て。必死で思いとど
まらせたらしい。
そんな彼も、比較的食糧事情の良かった田舎で過ごしていると、
だんだん命が惜しくなってきたらしく、ほどなく正気に戻って
いった。数年もたつと、親戚から当時のことで散々からかわれて
いたらしい。
「○○さんよ、あの時はワシら往生させられたで(笑)」
「(赤面して)いやホンマにすんませんでした。若気の至りですわ」

……微笑ましい話ですな。


191 名前: 石やくざ 投稿日: 2000/10/15(日) 06:42
ちょっと毛色の変わった話を2つほど。

俺ドラッグストアで働いてたんだけど、そのときに客のじーさんから
「ワシは若い頃米軍に機関銃で撃たれてな、ここ(顎)から弾が入って
 こっち(脳天)に抜けたんだよ。」
(顎のところに射入口の痕がありましたワ。)
っていう話を聞いてビビった。すげえなぁ。

高校の歴史の先生が高校生の頃、仲間と共謀してモールス通信を利用した
カンニングをやったそうな。そしたら前の方からトトトントトトンと
すげえ高速なモールスが聞こえてきたそうな。
解読してみると「 フセイコウイハ ヤメロ 」
その時の試験監督は大日本帝国陸軍の通信兵あがりだったんだってさ。



192 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 06:42
昭和二十年当時に国民学校一年生だった父から聞いた話。
隣組で連日防空演習をやっていたのだが、その内容が面白い。
隣組の当番がいきなり各家庭に押し掛け、焼夷弾を模した
木片を玄関先に放り投げて、「焼夷弾落下!」と絶叫。
家人は用意していた毛布やら砂袋を急いでその上に覆い被せる、
てなことをしていたとか。
父は子供心に、「焼夷弾って、玄関から入って来るのか?」と
思っていたらしい。父の実家は山奥の田舎だったので、結局
空襲は無かったそうだが。


193 名前: アルザス 投稿日: 2000/10/15(日) 14:09
 ついこの間、親戚の人と上野動物園に行った帰り、疲れてうつらうつらしていた
ころ、初老の老人が杖を突きつつ隣の車両から移って来た。夏休みなので車両の隻
は満席。しばらく老人は辺りを見回しおもむろに親戚の前に立ちイキナリ親戚の
脚に杖で一閃!「バシッ!!」と音がする程の打撃・・・そして老人一言
「ワシは若い頃に神風特攻隊で御国の為に頑張ってきたのに誰一人として席を
譲らんで・・・貴様ら全員親の教育が成っておらん!!」と大激怒。私は席を譲ろうと
隻をったたが、親戚の大叔父さんは足をさすりながら、立ち上がり、老人にケリ
帽子を投げ捨て
「ほーう、教育がなってねーか、この餓鬼が(大叔父は82歳)私はお前が内地で
メシ食って死ぬのが怖くて奮えあがっている頃、南洋でアメリカさんと戦争やって
たんだ!!。戦争やってたのを自慢してんじゃない!!ボケ!!」
 と行って、再び野球帽を被りなおし眠りに入った。
(その時の祖父の格好:野球帽・ギンガムの長袖シャツ・股下86inのGパン。
はたから見ると二十代に見えてもおかしくない。身長185だし)
 ちなみに、祖父に怒られた老人はすごすごと隣の車両に逃げて行った。
神風特攻隊に入って生残ってしまった老人と南洋で戦後引き上げて帰って来た
大叔父さんとどちらが正しいのかは解からなかった。



194 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/10/15(日) 14:13
>193
強者だ。その人、しかし、兵隊に行って来た人未だに元気な人多いね。
体の鍛え方が違う


195 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/15(日) 14:57
俺の祖父は京大を出て民間で働いてるところを召集された。
南方に行ったらしいが前線には行ってない。
将校だったので終戦になってもすぐには帰してもらえず
シンガポールあたりで2年くらい拘束されていた。
ようやく引き揚げてきた祖父が持って荷物の中から
カンボジアのアンコールワットの前や
どこかの巨大な涅槃仏の前で撮った記念写真が大量に出てきて
子供3人抱えて苦労&心配していた祖母は
「人の気も知らないで呑気に過ごしてたのね」と詰ったとのこと。


196 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/16(月) 06:00
一部に煽り野郎がいるが、これは大変良いスレッドだ。


197 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 00:10
父の友人は元軍医でガダルカナル島に派遣されていた。
撤退時傷病兵は「武士道精神に基づき」処分せよとの命令で
毒殺されたそうだ。
残留部隊(もちろん死を意味する)の軍医はじゃんけんで決めた。
帰還組に入っても離岸する船に飛び乗れず海の藻屑となった兵士は
数多かったが、父の友人はかつて仮病をめこぼしした下士官に
背負われて船に乗せてもらい命拾いをしたとか。



198 名前: さる 投稿日: 2000/10/17(火) 00:21
祖父が武蔵に乗っていたが、撃沈された後数名の仲間と
角材につかまり漂流。疲労と渇きで拳銃自殺したものもいたそうだ。
その後フィリピンに漂着→捕虜→帰国。


199 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 00:23
それから、これは又聞きなので真偽は不明ですが・・・

敗戦後、進駐軍が村にやってきてまず行ったのは刀狩り。
米兵は日本刀や木刀・竹刀をたいそう恐れて処分を命じた。
で、誰かが教練用の38式歩兵銃を米兵に差し出したところ、
それは後で処分すればいいと追い返されたそうだ。


200 名前: zeke 投稿日: 2000/10/17(火) 00:41
所沢に住む、知り合いのおばあちゃん(68)の話です。

昔、八丈島に住んでいたその方の一家は、山を持つ地主でした。
戦争が始まると、島に飛行場を造るとかで兵士がやって来ました。
最初は渋った一家の父でしたが、スコップを持つ兵士に囲まれたうえ、
家族を盾に脅されて、山を10円(当時)というタダ同然の値段で、
脅しとられてしまいました。
その後、山は削られ、ならされ、現在の八丈島空港になっています。

そのほかにも、陣地を造るとかで皆が狩り出され、いまでも島は穴だらけで、
大事な水源まで止まってしまったこととか、
おばあちゃんが当時通っていた保育園の先生はハーフだったが、
戦争が始まると、スパイの冤罪を着せられて殺されたとか、
聞くだに兵士の所業には生々しいものがあります。


201 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 00:44
そういやうちの田舎って、チョット山に入ると防空豪だらけだったなぁ。
昭和50年代でもかなり残ってて、よくゲジゲジ潰したり燃やしたりしに行ったよ。


202 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/10/17(火) 03:26

何故か将校の子・孫が多くないか?



203 名前: 戦後にあったかもしれない夫婦喧嘩 投稿日: 2000/10/17(火) 03:56
ウチのじいちゃん元伍長。大陸行って、八丈島で
穴掘ってる所で終戦、無事復員。それは置いといて・・・・

戦後間もないある日。じいさんが働かないのをばあちゃんが
怒る。夫婦喧嘩突入。うちの母親曰く、ばあさんには口癖があった。

「あんたなんか、撃たれて死んだらよかったんよー。
 隣りの○○さんの家なんか見てみい、遺族年金
 でうまいメシ食うてはるんやで」

働かないじいさんが悪いのか、けなすばあさんが悪いのか。
どっちにしてもひでえ。ところで遺族年金っていくらくらいなの?


204 名前: 203です 投稿日: 2000/10/17(火) 03:58
>200
マジすか? ウチのじいさんはのんきにしゃべってましたが。


205 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 05:50
それなりに高いぞ<遺族年金
とはいえ二人の子供を抱えてた俺のばーさんは
育てるのに苦労しまくったらしいがな。

要するに無職よりマシって程度だよ。
年金だけじゃ食っていけんて。一人ならともかく。


206 名前: 205 投稿日: 2000/10/17(火) 06:06
だが当時の額で幾ら貰ってたかはわからん。
昭和27年か28年に始まったものだし。


207 名前: バトルドロイド 投稿日: 2000/10/17(火) 08:16
>202
ミンナ
モウソウズキノ
ひきこもりダカラナ


208 名前: 日本一の無責任男 投稿日: 2000/10/17(火) 08:27
爺ぃどもはどうしてそろいもそろって法螺吹きですか?


209 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 20:33
>208
そうでもあるまい。
日々辛いことが多かったから、楽しかったことが思い出に残るのさ。
俺の本家の叔父さん(バリバリの百姓だった)は現役で引っ張られて、
てっきり歩兵だと思ったら、高射砲隊へ配属され雲南方面で従軍。
が、食い物がなく病気。運良く軍医が診てくれて本部勤務になって
死なずに済んだ。酒が入ると未だに楽しそうにいうよ。
「本部へ行ったらオメェ、このワシが暗号兵にゃ。陸軍もあほじゃてーぇ。
んでー、肉も野菜も食い放ー題じゃが。ぷーっと太ってもーてのーぉ。」
ちなみに新兵はやはり古参兵連中にあほほど殴られたそうだ。
歩兵や軍艦の高射砲とは趣が違うから、戦闘の前後でもやられたそうだ。
「タマなんか届くわけにゃー。ぜーんぶスカじゃ。敵サンも相手にせなんだ」
そうだ。



210 名前: zeke 投稿日: 2000/10/17(火) 20:43
>>204
全部マジです。細部まで説明してくれました>おばあちゃん
また思考もしっかりしており、法螺吹いているとも思えません。
203さんのおじいちゃんは、幸運にもそういった場面に出くわすことが、
なかったのでしょうね。



211 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/17(火) 20:59
うちの爺さんは、今年92歳だが、徴兵検査の時、ちょうど軍縮の時代だった
そうで、徴兵されなかったらしい。戦前の人は、皆兵隊に行ったと思っていた
ので驚いた。もちろん健康体だったんだけど。

しかし、その弟は、習志野の戦車2連隊に入り、徐州戦で戦死した。



212 名前: zeke 投稿日: 2000/10/17(火) 21:07
>>200 に追記。
その他にも、兵士に畑の作物を全部刈り取られ、徴発されたり、
田の稲も徴発されたあげく、労役に狩り出された為、手入れできずに田が枯れたり、
また酒場では兵士がひたすら酒を呑み、暴れていたそうです。当然、金なんか払わない。
私は左翼でもなんでもないですが、こういった話を聞くと、
軍隊ってなんだと思うときもあります。


213 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/18(水) 23:05
age


214 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/20(金) 23:53
>212
 司馬遼太郎がこんな内容のことをどこかに書いていましたね。
千葉の戦車部隊に配属されていた頃の上官との問答です。

上官「敵は九十九里浜から上陸する可能性がある。」
「避難民が殺到して道が塞がった場合どうするのですか。」
上官「ひき殺してでも出撃しろ!」


215 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/10/22(日) 03:20
陸大卒のお祖父さんの妻(祖母)の遺族年金はすごかったよ!
質素に生活してたけど、俺の今の月給より上だ。
2年前に亡くなったけど。
額はここで言えない。
きっと俺の給料が安いというコメントでるだろうが。。。
ボーナスは当然ないわけだけど、月の手取り分は俺より上だった。
だから年収でいえば、大卒の平均より上だね。




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