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カミカゼ!
1 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:12
あの時日本とモンゴルがガチンコでやりあってたら、日本は


2 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:13
どの程度戦えたのしょうか?あの当時の日本の戦力ってどの程度?


3 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:16
あの時ってどの時? 特定してからまたいらっしゃい。


4 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:16
それでも結構戦えたとニ十八氏の本で読んだ。


5 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 03:54
日本はモンゴル帝国の汗からの手紙に対してもかなり偉そうな返事を
返したり、無視したりしてたらしいから勝つ自信はあったんじゃない?
ただ相手の戦力のことをどこまで把握してたかは謎だけど。


6 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 04:13
連合軍と交戦後の話と仮定して。
蒙古を突つくと、ソが満州に介入するいい口実を作ったでしょうな。
つまりノモンハンの2の舞い。
戦線を展開したところで、それを維持する余力など日本には無かったでしょ。


7 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 04:15
>6
タイトル見ろ。


8 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 04:20
>7
見てるけど?

カミカゼでもなんでも、モンゴル「単独」相手の戦闘で片付く訳が無い。


9 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 04:26
馬鹿発見。


10 名前: エウレカ〜 投稿日: 2000/08/11(金) 04:35
空気が読めないっていうのはこういうことを言うのか!


11 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 04:35
あ、そ。


12 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 05:01
あ、そ。
だって!久々にいいキャラ登場(w


13 名前: 大渦よりの来訪者 投稿日: 2000/08/11(金) 05:02
佐藤大輔に拠れば、結構戦えていたとの事。


14 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 06:16
装備に関してはそう大差なかっただろうと思うけど、兵数はどのくらいの
差があったんでしょうね?
あと、戦術なんかもお互い全然違っただろうし。


15 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 07:58
>6
意味不明、何故に600年前に連合軍が出現するんだ?



16 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 10:28
>6
カミカゼの語源も知らぬまい(藁


17 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 10:47
元寇の話しでしょ?、これ。



18 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 12:58
九州を落とされても瀬戸内で艦隊決戦に持ち込んで逆転を狙います。


19 名前: たぶん6の言う 投稿日: 2000/08/11(金) 14:15
連合軍とはモンゴルとコリアとソ(=宋の略)のことだろう
チョットクルシイ


20 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 14:46
同盟国っつーには立場が違い過ぎる<ネタにマジレス


21 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 20:23
3=6=8=11
久々に見た悲惨なやつ。
いまだに何故ばかにされたか悩んでいるもよう。


22 名前: 井沢元彦 投稿日: 2000/08/11(金) 20:31
さんの本で、当時天皇は反軍事的立場(要するに今と同じ空想平和主義?)で、
鎌倉武士が頑張った(=武力で平和が守られた)のを素直に認められず、
「あれは神(風)のおかげで、武士の力ではない」ことを言いたくて、
神風のコンセプトを言いだした。みたいなことを書かれていて、面白かった。



23 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/08/11(金) 20:47
鎌倉武士萌え。


24 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/12(火) 08:42
軽弓の蒙古有利説


25 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/12(火) 09:26
確か、「シミュレーター」誌にも、
「神風は吹いてない」とかいう記事があったと思う


26 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/12(火) 10:10
真偽は別として22さん紹介の「元寇では実は神風は吹いていなかった」って
説は面白いな。



27 名前: 特命鬼謀 投稿日: 2000/09/12(火) 10:44
私が聞いた「神風は吹かなかった」説は・・・

1.高麗の船大工サボタージュ説
高麗は被占領民であり、元に船を作れといわれたもののやる気がなく、
また、「どうせ元に船なんぞわかりゃあせんだろう」てなことで手抜き
工事かました。
その欠陥船で侵攻したもんだから、玄界灘の荒波でとうとう船が壊れて
しまったと言う話。

2.執権ケチケチ説
「御家人の奮闘で勝った」なんてことになれば恩賞(領地)を与える必要
があるが、防衛戦に勝ったところで元から領地が奪い取れるわけでもなく
元に逆侵攻もできないので、「神風で勝った」ことにしておいて、恩賞なし
の理由づけとしたという話。
(かなり苦しいですな、こっちは。実際不満がかわしきれずに、幕府衰退の
原因になっちゃいましたね)

真偽のほどは不明。あしからず。


28 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/12(火) 10:54
>>6 >>8
永久に銘記すべき迷レスだ!


29 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/12(火) 10:58
合理的解釈も聞いたことがある。
時期的に台風の来るシーズンであり、実際起きたが神風と言えるほどのものでは
なく、また前回と違って、弘安の役では人数的にもほぼ互角だった そうだ。


30 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/14(木) 02:49
文永の役で蒙古高麗軍は3万の軍勢で奇襲した来たのに対して、
日本側は数千人の迎撃体制しか出来てなかった。
後退しながらも善戦したので、元史によれば、矢尽きて船に帰ったという。
高麗の将軍が督戦したが、元主将は肯わなかった。
なぜなら、日本軍の増援が続々と到着しており、内奥部の防備は堅固と見込まれた
からである。
元主将の判断は正しかったといえよう。

後退は予定の行動だったとか、高麗軍に戦意がなかったとか言うのは、
近年のそうあれかしの空想の域を脱しない。
また威力偵察というような概念が当時の軍にあったというのも疑わしい。

カミカゼがなかったとしたら、そう考えるのが妥当である。
高麗将軍の言うことを聞いてなおも進撃していたら、それこそ
全滅の憂き目に遭ったことであろう。
出兵兵士の大半を温存できた高麗軍は元主将に感謝すべきというべきかも
知れない。


31 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/14(木) 02:58
モンゴル繋がりで余談。

歴史の授業でやったのかな。モンゴルの騎馬軍団って、ヨーロッパにも
攻め込んでるけれど、ロシアを進軍するとき、わざと冬を選んだそうだ。
なぜかというと、凍結した川をルートにするため。頭いいわ。


32 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/09/15(金) 18:05
カミカゼってヒロポン打って敵艦に突っ込むやつじゃ
なかったのけ?  ムツカシイなぁ。


33 名前: 名無しさん@ルスキに氏を 投稿日: 2000/09/15(金) 18:12
32>
1をよく読んで、救急病棟にでも逝け


34 名前: のん兵衛 投稿日: 2000/09/16(土) 00:02
元寇時の日本軍(鎌倉武士)の戦いは世界史的にも注目すべきです。
実戦的な戦法をとる元に対し儀典的戦法をとるにもかかわらず、一日の戦闘で
 元軍は「矢が尽きた」ため後退した。
 a.元軍の主力兵装は「短弓」の飽和攻撃により敵兵力の減衰後包囲殲滅。主兵装の
 「弓矢」がなくなるまで戦った。
 b.日本軍は海岸線での攻防は最終ラインではない、内陸の大宰府が最終防衛拠点である。
c.日本軍はその戦法、兵装ともに元軍に劣っていた。
その他ありますが、又書きます。
 


35 名前: のん兵衛 投稿日: 2000/09/16(土) 00:13
モンゴル戦法に対し世界の軍が一方的に敗れ去っているなかで、日本軍
の奮戦はしました。
防戦態勢の整っていない状態での海岸線での防衛の成功。(文久の役)
「神風」によって元軍が自滅(海上侵攻作戦に対する元軍の理解不足
が主因)したのが元軍の敗因といわれるが、2日以降の戦いがあったとしても
海岸線に橋頭堡を築く事さえ難しいと考えられるし、長期戦になれば
日本軍の有利は加速するので、結果は日本軍の勝利で終われます。



36 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/09/16(土) 02:03
戦略面

 南宋を生かしておいたため、日本攻略に全力をそそげなかった(一次)
 日本側が使者を切り殺して挑発したため、充分な準備期間を置けなかった(二次)

戦術面

 起伏が激しく平野部が狭い国土のため、モンゴル騎兵得意の機動戦術が封じられた。
 二次侵攻の時は、さらに防塁まで築かれた。
 結局どの戦線でもモンゴル軍は橋頭堡を確保し切れ無かった。
 予備兵力と地の利に勝る鎌倉武士団は、昼夜を問わず戦いを挑んだ。

兵器面

 モンゴル騎兵の短弓や短槍では、鎌倉武士の鎧を貫いて致命傷を与える事ができなかった。
 一方、日本刀の切れ味は凄まじく、モンゴル騎兵を鎧ごと真っ二つにした。

総合

 結局は、機動力を封じられて補給に難が有る軽騎兵と、地の利および兵器の扱いに長けた、
補給面の不安が無い重装歩兵の戦い。これで後者が有利で無いほうが不思議。


37 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/16(土) 06:38
>36
なるほどねぇ。


38 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/16(土) 11:02
何故防塁が無い所に上陸しなかったのでしょう?
博多だけでなく、長崎の方とかも防塁はあったの?


39 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/16(土) 11:34
>38

モンゴル側に
そこまで正確な地図とか、
水先案内人が居なかったのでは?


40 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/16(土) 12:55
しかし、本当は神風なんてなかったのなら神風幻想を作り出した奴は重罪だな。
20世紀にまで影響を与えるなんて...


41 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/16(土) 13:15
予科練魂


42 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/16(土) 13:23
歴史に詳しい人に質問。
神風のコンセプトは、鎌倉時代からずっと、戦争になる度に登場した
ものなの(例え本当に神風がなかったとしても)?
それとも、二次大戦、あの時だけぽっと出てきたものなの?

戦国時代に、「神風が吹くから」なんてぼけたこと言っていたら、
戦に勝てるわけはないと思う。
あれは、負けに負けて、現実を認識できなくなった人の言い出すこと
かなあと思うんだけれど。
ギャンブルでもいるでしょ、そういう人。


43 名前: >42 投稿日: 2000/09/16(土) 14:26
別に詳しくはないけど。
明治以降、学校で歴史を教える時に、天皇の神格化の手段の一つとして
元寇の神風説が利用されたのでは。


44 名前: >43 投稿日: 2000/09/16(土) 19:17
天皇というより、
日本そのものの神格化ではないでしょうか。
神州日本って言ってたくらいだし。


45 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 02:09
無恃其不来 恃吾有以待也 無恃其不攻 恃吾有所不可攻也


46 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 03:17
キリスト教においても「奇蹟」が必要です。



47 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 03:29
台湾沖航空戦では日本のヘタレ攻撃機はなんら戦果をあげませんでしたが、
神風が吹いて駆逐艦3隻を沈め、巡洋艦の艦首をぶちきりました。


48 名前: 名無しさん@そうだいっちゃえ 投稿日: 2000/09/18(月) 04:18
台湾沖でヘタレなのは攻撃機のせいではないのでは?



49 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 05:15
奇蹟は常により深い信仰のためのきっかけの為に起きるのです。


50 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 05:19
シドニーオリンピックの客に、日の丸に神風のハチマキ姿のが写っていたな。


51 名前: 名無しさん@おちんちん 投稿日: 2000/09/18(月) 05:59
何年だっけ?
いずれにしろ鎌倉時代のこと、
海上侵攻する側が、相手国土に橋頭堡を
築けなければ、矢玉の補給もできず、
げろっぴーの軍馬もやすませられず、
食糧つきて、壊滅するは、
必定のならい? ではないの?



52 名前: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日: 2000/09/18(月) 06:57
51>
倣いでも食い止める側の決死の組織的抵抗が無ければ駄目
寝返り者が出たり、崩壊したらそこで負けジャン。
まあ、鎌倉武士の健闘が台風を呼び込んだという所では


53 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 09:47
馬を大量に海を越えて運んでくるのは大変困難なことだよ。
玄海灘なら2日くらいでなんとか越えられるが、日本に到着したら、
即刻馬を下船させ、水やカイバを与えなければならない。
幸いに日本は清流の国なので、水は豊富だが、与える牧草は供給するのに
苦労するだろう。
モンゴルが大陸を制覇したような、機動的な騎馬戦を日本国土で展開する
のは不可能といっていい。

江南の軍の渡来では、あそこから馬を運んでくるのは、上記の理由を持って
これまた不可能といってよかった。(馬が途中でへばってしまう)。

モンゴルの日本征服は無謀といってよかった。
玄海灘は、昔の日本は攻めるのに難しい土地柄であったが、
逆に日本からの大陸進出をも阻んだのである。



54 名前: 名無しさん@そうだラブホいこう 投稿日: 2000/09/18(月) 13:35
地理的に、日本は恵まれていたんだね。
それと比較して、朝鮮半島はかわいそうな存在なんだなぁ。



55 名前: >54 投稿日: 2000/09/18(月) 14:58
陸は中国に押さえられ、海は日本に押さえられ。

あれほど地政学的に不利で、
ストレスのたまる土地は無いです。


56 名前: 名無しさん@四等兵 投稿日: 2000/09/18(月) 15:18
韓国人に憎まれるのもしかたのないことかも知れないね。


57 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 00:02
神州思想について、神功皇后の故事のなかの新羅王の言葉に由来し、
「日本書紀」仲哀天皇9年10月の条「吾聞く、東に神国あり、日本という。また聖王
あり、天皇という。必ず其の国の神兵ならむ」
平安期末の末法思想の興隆期には衰退するものの「元寇」の前後に鎌倉新仏教に取り
入れられ、「神皇正統記」の「大日本は神国なり。天祖はじめ其をひらき、日神なが
く統を伝えたまう。我が国のみこの事あり、異朝にはその類なし。この故に神国と言
うなり。」と神州思想は完成し、その後対外緊張の高まるたび強調される事となるの
です。


58 名前: 名無しさん@四等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 01:10
ところで、昔、社会の教科書に書いてあった
てつはう(だったかな?)
っていったい、なーに?
誰か知ってる?


59 名前: 大渦よりの来訪者 投稿日: 2000/09/19(火) 01:15
火薬を詰めた陶製or鋳鉄製の手投げ爆弾。
大音響で敵の動揺を誘うだけで、あまり殺傷能力は無かったそうな。
もっとも、その効果も時代が時代だけに絶大だったろうが……。


60 名前: 名無しさん@四等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 01:33
>59
さんきゅー。

鎌倉時代の日本側前線指揮官、びっくりしたろーな。
馬から落っことされただろーし、
名乗りをあげるどころじゃねーなー。


61 名前: 名無しさん@戦術航空士 投稿日: 2000/09/19(火) 01:42
そうか、集団戦闘にはいたっていない時代か。


62 名前: 従軍記者 投稿日: 2000/09/19(火) 06:15
モンゴル軽騎兵?
元寇のとき、モンゴル軍は馬を連れてきたのだろうか??
多分そうじゃなかろう、彼等は徒歩兵として闘ったと思う。
あるエピソードを語源辞典で見たことがある。
元軍兵士は、対馬・壱岐等で捕らえた娘達を獣欲の対象とした。
その両手のひらに穴を開けて縄を通し、船べりから吊り下げておいて、
用を足すときは船上につり上げ、死ねば縄を切って海に落とした。
それを海岸で見ていた日本人達は嘆き悲しんだ、と言う。  それで、
日本語の「むごい」の語源は「モンゴイ」からきているというらしい。
これでみるように
元寇の間、元軍は船上で日常生活?を送っていたと思える。
馬を帯同していたら食餌等の問題で、船上生活は不可能だろう。
したがって、モンゴル軽騎兵ではなく、散開歩兵であったと思われる、
これでは、弓術に秀でた鎌倉武士の騎馬隊に、充分な攻勢を示せず、
橋頭堡を確保するどころか、なれぬ船上生活に押し込められたまま消耗し、
玄界灘の暴風雨で殲滅されてしまった、ぐらいが本当のところだっただろう。
だから
実際に「暴風雨」はあったし、それが勝因であったが、
そのような情況を創り出し得たのは、鎌倉武士の奮戦の成果だろう、と考える。




63 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 11:28
53の繰り返しみたいになりますが…

馬を世話すると分かるが、水は一日も欠かせない。しかも大量に。
カイバもそう。
運動も必要だ。これらを欠かすとすぐに病気になる。
狭い船の中で、しかも熱気のある環境だとすぐにくたばる。
馬は暑いのが苦手だからね。

長途航海に馬を運搬するのが至難だというのは容易に想像がつく。
あのとき、蒙古絵を見ても、馬に乗った蒙古兵は描かれてない。
蒙古兵の力は日本では発揮することができなかった。
つまり、日本侵攻には無理があったということです。


64 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 11:38
なるほど、重装備の揚陸能力が無い訳ね、今の中国軍と一緒か。


65 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 17:49
話はそれるが、現在 台湾と中国が本気で戦争したら中国が負けるそうな。
主力戦闘機と早期索敵機の面で圧倒的に中国が劣るらしいですね。


66 名前: >65 投稿日: 2000/09/19(火) 18:25
このスレしか読んでない?


67 名前: >65 投稿日: 2000/09/19(火) 19:10
んん、でも600万人もいたら100万人くらいは
台湾にいけるんじゃないんの、泳いでいっても



68 名前: >67 投稿日: 2000/09/19(火) 19:21
大陸の下っ端がそんなに真面目に戦争するか?
日清戦争で
北洋艦隊が日本に負けた後、南洋艦隊は中立を宣言してるし。
共産党の上は何を考えてるか知らんが、
全土上げてとは行きそうにも無い。


69 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 19:33
>67
装備をもって?(笑)



70 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 20:27
>その両手のひらに穴を開けて縄を通し、
試しにやってみな。手が裂けるだけで、体重は支えられない。
なんで知ってるかって?まあそういうな。(笑)


71 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 20:45
手の付け根ですね。構造上。
縄って太さがあって、より痛そうだな。

詳細な描写は、無理じゃないか?どこまで近づけたか、わからないけど。


72 名前: 従軍記者 投稿日: 2000/09/19(火) 21:49
>70
なるほど、なんだか説得力ありそうですな(^^;)
小生は、キリストの磔(釘付け?)程度の連想だったのですが、
言われてみるとそうなのかもしれません。
この話自体がヨタなのか、源資料にヨタを書いてあったのか、あるいは
ある状態では可能なのか・・・、よく判かりませんが、
勉強になりました。機会があれば源資料を探してみたいと思います。
まあ
言いたかったのは「モンゴル軍は騎兵として侵攻して来たのではない」
「追い込められて船上生活をしていた」ということです。
たぶん、鎌倉武士団の夜襲に悩まされていたのでしょう、なんせ、
“夜討ち朝駆けはいくさの常道”でしたから。



73 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 22:06
夜襲は日本のお家芸?
弘安の役では各戦場で船に引き上げた元軍に対し夜襲を行い戦果を上げたそうです。
鑑みれば旧日本海軍水雷戦隊も夜襲訓練に励んだのはDNAの所為かな?
もっとも、旧海軍と同様まともな構造船を持たない日本軍は小船での夜襲しか海戦
を行えない(旧海軍は主力艦船の砲撃戦では米に劣る)というべきか?


74 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/19(火) 23:18
>>70
一番いいのはデストの空間ですね(苦笑


75 名前: >73 投稿日: 2000/09/19(火) 23:22
潮の荒い玄海灘では小船のほうが有効でしょ。
それに、どうやら着いてから余り大船に乗って移動していないようだし
敵は要塞のつもりで立て篭もっているだけでは?


76 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/19(火) 23:33
船の漕ぎ手は朝鮮人だったらしいけど、陸戦部隊も実は朝鮮だったのかな?
当時の朝鮮の戦闘スタイルってどんな感じ?



77 名前: >75 投稿日: 2000/09/19(火) 23:47
会戦は博多湾内。



78 名前: 名無しさん@おそるおそる 投稿日: 2000/09/19(火) 23:59
小船では玄海灘では突撃できないあるよ。

ところで

朝鮮人参めー。きゃつらは変わり身はやい人種だなっ
最近の報道によればあ。
みづからのアイデンティティはないのかあぁっ。
という
連中ごときが
元軍にサボタージュができたはずがないぃいぃいぃ

●冷静モード
痛い話しはやめよー。

日本と中国が戦争しても、ちゅうがく
もとい中国は負ける。




79 名前: >62 投稿日: 2000/09/20(水) 00:06
>>62

>あるエピソードを語源辞典で見たことがある。
>日本語の「むごい」の語源は「モンゴイ」からきているというらしい。

 その本って「明名書房」の本ですか?
 (この意味わかる人いるかな〜〜?) ヒント「魁 男塾」



80 名前: ペンネームC 投稿日: 2000/09/20(水) 00:15
正しくは「民明」です。


81 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/20(水) 00:27
数量は異説がありますがおおよそ、
蒙古、漢軍2万人
高麗軍5千6百人
梢工、水手1万5千人(高麗人6千7百)
総勢4万6百人
艦船900隻(高麗提供)
兵力構成としてはこんなもので、蒙古軍は督戦部隊のようです。その他
女真族もいますが蒙古漢軍は旧南宋攻略軍として編成された軍なので、
蒙古風の装備、戦術を使用したと思います。



82 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/20(水) 00:41
戦闘において敵を上陸まえに叩くのは常道です。大型構造船を持たず、
水軍を持たない当時の日本はその戦術的選択肢を狭められる事になります
結果論ですが、海戦に不慣れな元軍ならば上陸前に打ち破れたのではない
でしょうか?玄海灘での海戦は小船では不可能でしょう。



83 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/20(水) 01:10
>79
りばしぶる  か?


84 名前: >82 投稿日: 2000/09/20(水) 01:18
元の南宋攻略後はその手だと負けるよ!


85 名前: >84 投稿日: 2000/09/20(水) 22:18
1284年宋の海将阿塔海(アタハイ、「あとうかい」ではない。)にフビライは、東南アジア
諸国への遠征を命じるがやはり暴風雨の為失敗している。元軍のトップが海戦を理解してな
いからなのだ。1279年に宋滅亡後公降将をもって海戦のノウハウを導入しても結果は失敗して
いる。この前に、文久、弘安の役で失敗しての都合3回目の戦いである。3度目の日本侵攻も計画
していたと言う事なので、とことん海戦を理解していなかったのだろう。


86 名前: 名無しさん@ 投稿日: 2000/09/20(水) 22:27
モンゴル人海見たことないしー。


87 名前: 名無しさん@か"ゆい"なあおれのちんちん、あ、イボできてる 投稿日: 2000/09/20(水) 22:45
池だって見たことないだろ。


88 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/09/20(水) 23:15
でかい川はあります。
すごくでかい魚が釣れるんで、
世界中の釣りキチの憧れのマトらしいです。
モンゴル人には魚を食べる習慣がないので
環境的にとことん巨大化するそうな。

魚すら食べたことない人々が海戦できるわけなかとね。


89 名前: 従軍記者 投稿日: 2000/09/21(木) 00:34
>79
そんな出版社名ではなかったような・・
>83
(笑)座布団一枚!

来寇する元軍船団を海上で迎撃するのは、まず無理。
それだけの組織力が当時の日本にはなかった。
それに
元軍は博多以外にも、長崎県の平戸、山口県の西海岸へ上陸来寇している、
敵の進撃航路を予想することは困難、当時の情報水準では海上会敵する事自体が
不可能だろう。
また
来寇軍の中の高麗軍は、玄界灘周辺海域に詳しく、海上戦闘にも慣れ、
待ち伏せ奇襲も無理。



90 名前: 名無し@武器商人 投稿日: 2000/09/21(木) 00:43
>83
当時の北条政権に水軍衆を組織化する能力と意志があったか疑問
平家の平清盛は日宋貿易で瀬戸内の水軍衆を味方に出来たが
防衛側の北条政権には彼らへの恩賞が無い
そういった意味では海上輸送以外で使う事は難しかったのでは?


91 名前: >89 投稿日: 2000/09/21(木) 22:24
元軍の進撃路の予測は不可能か?
文久、弘安の役両方とも予測されていました。元軍の攻略目標は「大宰府」。
文久の役で壱岐、対馬占領の報はすかさず少弐氏に連絡されていたので、
予てからの手はずどうり大友、島津らの有力御家人は博多防衛戦を展開す
べく終結しました。これは、元の対日侵攻が予測されたものであり、元軍の
目標、日本側の重要拠点が一致していたからです。(元の使者は偵察隊)
事実海岸線での防衛戦後、日本軍は後方の水城に後退。最終防衛ラインと
したのです。この、水城は隋、唐の侵略に備えて構築された城であり、日本
の最重要戦略拠点大宰府を博多湾からの侵攻から防衛するためのものです。
また、博多以外の上陸は文久の役では陽動、威力偵察(敗北した日本軍を
追撃していない。すぐに、船に戻り博多へ向かう)であり、弘安の役では
博多湾の防塁の為、上陸ちてんを変更したものである。(当然、日本軍は
待ち伏せている)
元軍に対抗できる水軍を保持できたのなら、壱岐、対馬から博多の航路上
にて敵艦隊を迎え撃つという戦術も可能である。
元軍の指揮を高麗軍の金方慶が執っていれば、或はとも言えるが元軍の副
司令官洪茶丘も高麗人(高麗の裏切り者、国賊です。)だが、結局は元軍
自身の海戦の無理解から海戦が実現した場合、元軍の敗北は濃厚かと思います。



92 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 09:45
もし、海戦をする場合ですが、
当時は海戦と言っても、こちらの船を相手の船に着けての切り込みが主力だから
最低限相手と同じぐらいの兵力を集中的に運用しないとまずいような気がしますが、
当時の日本に元軍と同じぐらいの数の船はあったんでしょうか?


93 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 12:16
いやーひさびさに面白いスレを読んだよ。


94 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 15:00
 松浦水軍などが、奇襲で元軍を悩ませたそうだよ。
 大きな船だと座礁が恐くて狭い水路まで追撃できないから、油断している所を襲って矢をいかけたり錨を繋いでるロープを切ったりと、やりたい放題。

 後の秀吉の朝鮮征伐で、李舜臣も小型鉄甲船で似たような戦い方をした。でも、ゲリラ的な奇襲攻撃では、制海権奪取は不可能なんだよね・・・・。
<李舜臣の戦い方は、入り江に誘い込んで動けなくさせ、焼き打ちするのがパターン。これだと、サムライ相手に切りこみ戦をするより犠牲が少ない。しかし、大型航洋船が主体だった水軍衆は、その誘いになかなかのらなかったため、海戦を知らない武将は水軍衆を臆病者と罵った。もっとも、小回りが効く小型舟艇で守られる陸揚げ地点まで襲う事は不可能だったため、李の戦いは非常に限定されたモノだった。日本側のシーレーン全体を崩壊させたような評価は、誇大妄想も度が過ぎる。



95 名前: 日本書紀 投稿日: 2000/09/22(金) 16:01
神風>42について。
(レスのタイミングを外して申し訳ない。)

「神風」という概念は、元寇より500年前の壬申の乱(672年)まで遡れるでしょう。
天文・遁甲(まあ一言でいえば魔法)ずきの大海人皇子(後の天武天皇)は、
伊勢、度会の神(後の伊勢神宮)らしき神に祈って、
天候のコントロールと戦勝を求め、そしてその通り勝ちました。
そのためか、万葉集以来「神風」は、伊勢の国の枕詞(「神風の伊勢」)になっています。
だからこそ、天皇やら天台座主やら日蓮やら、
ありとあらゆる連中が怨敵退散の祈祷をした元寇の時に、
大風(あるいはちょっとした風)が吹けば、
伊勢神宮の神風だったという結論がすぐに受け入れられたのだと思います。





96 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 20:56
元寇の海戦について
文久、弘安の役において海戦が行われたのは弘安の役になります。文久
時と異なり博多湾には20キロにもなる防塁が築かれていたため、元軍は
上陸予定地点を変更し志賀島に上陸(別働隊300余隻が長門方面に迂回
上陸し本州からの援軍の阻止、日本軍の分断を図るがそれは日本軍の予
測どうりの行動であり元軍は全滅する。)し内陸部へ侵攻することにし
た。ここで、「志賀島沖の海戦」が行われた。といっても日本側にはま
ともな船もなく元軍船からの「石弓」により日本軍船(ただの小船)は
なすすべもなく沈められてしまった。そのなかで、伊予水軍河野通有、
村上水軍村上頼久らが多大な戦死者(村上は戦死、河野は毒矢により
瀕死)を出しながらも奮戦した。この戦いの後、日本軍は昼間の海戦は
やめて夜戦に切り替えたのである。元軍は度重なる夜襲により志賀島上
陸を断念し壱岐島に後退したのである。元軍はこの壱岐で中国の江南か
ら進発した江南軍(朝鮮の合浦進発軍は東路軍)と合流する予定であっ
たための後退であった。この元軍を追撃した際に壱岐島瀬戸浦で海戦が
行われた。これは、瀬戸浦を占拠停泊中の元艦隊に日本軍が挑むといっ
たもので約4日間に渡って海戦が行われるも戦果はなかった。ここで、
元軍は江南軍と合流する予定であったが、江南軍は壱岐には来ずに平戸
に上陸してしまった為、東路軍は平戸に向かい江南軍と合流したのであ
る。ここで一旦両軍は軍を引き合う事になった。元軍は平戸で軍を編成
しなおし北松浦郡沿岸から侵攻を図るが松浦党の活躍で失敗。肥前鷹島
で再集結したところを日本水軍による夜襲を受ける。日本軍は翌朝引き
上げるがその後博多湾への突入作戦の準備中「神風」のため壊滅。
海戦といえるのは、「志賀島」「壱岐瀬戸浦」「鷹島」の3つがあるが
夜戦以外では殆んど効果はなく逆に元軍になすすべもなく撃破されてい
る。正面きっての大会戦は望むべくもないが「壱岐瀬戸浦」での攻防は
問題のある戦いと言える。夜襲及びゲリラ戦に徹するべきであろう。ま
た、まともな水軍があれば平戸へ向かう東路軍に対し追撃戦のひとつもやれただろうに。


97 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 22:01

その前に、「文永・弘安の役」という熟語を頭に叩き込むべし。


98 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/22(金) 23:01
そうでした。


99 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/09/22(金) 23:20
北部九州の水軍って松浦のほかに宗像がありましたでしょ?
あと、青森から安東水軍がきていたよね。


100 名前: 従軍記者 投稿日: 2000/09/23(土) 06:08
>91
小生は89で
『来寇する元軍船団を海上で迎撃するのは、まず無理』、その理由として
1)水軍組織力がなかった。
2)進撃航路を予想することは困難、当時の情報水準では海上会敵する事自体が
  不可能。
3)高麗軍は海域を知悉し、海上戦にたけており、待ち伏せ奇襲は無理。
と、言いましたが、その考えは変わりません。
そのうえ、貴殿の言う『元軍に対抗できる水軍を保持』していたとしても、
洋上での迎撃戦は難しい、そう思われます。
たしかに
元軍の来寇航路は、ある程度の予想ならつくでしょう。
当時の技術的限界から、最短距離で、かつ比較的安全な、対馬・壱岐づたいの航路を
主選択する以外に考えられません。
しかしそれでも、敵船団を捕捉し、予想海域で会敵する事が、可能とは思いません。
機動船の無い当時では、対馬(東)水道全域を監視するのは、ほぼ不可能だし、
発見情報の伝達手段もありません。
それに何より、発見後、会敵予想海域へ急行する「船速度」をどうやって得るのでしょう。
偶然の遭遇を期待するわけにはいきません。
それと
当時の技術水準では、“玄界灘”洋上で船団同士の遭遇戦を行えるほど、自由に
船が動き回れるとは思えません。また、武装も貧弱でしょう。
(サラミス海戦を連想するのは無理があります。)
まあ、
せいぜい、島陰か内湾の先で「待ち伏せ奇襲」をする程度しか考えられませんが、
(史実でもそうですが)数百隻の大軍相手に、それほどの戦果は期待できません。
また、高麗軍は、
元寇以前の「刀尹の入寇」等、数次の海上侵略の主力水軍で、仮に元軍指導部が
海戦に無理解だったとしても、そう侮れる相手ではありません。
結局、
洋上で、敵大船団を捕捉殲滅する構想は、あの時代では不可能だった、と考えます。

>95
へ〜え、なるほど。





101 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/09/23(土) 17:31
水軍=時の政府に認められた海賊です。
どちらかというと船隊組んで艦隊決戦をするよりは夜戦、ゲリラ戦が得意でしょうね。
水軍の兵士(おそらく指揮官を除けば)=漁師です。漁のある日は毎日櫓を漕いでいるので一般の武士よりはるかに体力があります。気も荒いので白兵戦でも負けないと思います。


102 名前: 91 投稿日: 2000/09/23(土) 19:13
>100
91につき御指摘、御教授いただきましてありがとうございます。補足した
いと思います。私の考えているのは、航路上の島影や内湾入り口周辺での
「待ち伏せ」のことです。外洋での遭遇戦が可能とは考えていません。こ
れは、敵の航路、上陸地点、攻略目標が高い確度で予測されていても、情
報伝達(伝令船)、索敵(目視)、自軍船舶の行動力の技術的限界、気象
条件等による制約が大きからです。当然、作戦を立てるにあたりこれらの
事を前提に立案されるわけなので外洋での遭遇戦は考えないでしょう。そ
れより、湾入り口近辺の海域の監視網を強化し待ち伏せした方が確実とな
るでしょう。または、壱岐対馬周辺海域での迎撃、停泊地の強襲。貴殿は
「待ち伏せ奇襲」では戦果を期待できないとされていますが、これは日本
軍の装備、戦力が元軍に対して大きく劣っている為の事で戦術、軍事技術
の問題ではないと思います。史実の海戦における夜襲等のゲリラ戦は、昼
間の正面攻撃ではまったく太刀打ちできなかったため執られたものです。
史実では「志賀島の上陸作戦」を阻止し、「鷹島の夜襲」は博多湾突入を
妨害しています。一応の戦果は上げており、これに装備、戦力がそろって
おれば戦術の選択肢は多くなりより大きな戦果を上げることは可能と思い
ます。(例えば、湾内に敵を追い込み、陸海から殲滅するとか、江南軍と
の合流前に東路軍を各個撃破するとか)私としては、日本にまともな水軍
があれば、選択肢に幅ができたであろうと言う事をいいたかったわけです。




103 名前: 名無し@武器商人 投稿日: 2000/09/23(土) 20:10
 102>
海上戦について水軍衆の組織化ができれば不可能ではないと思う。
しかし、鎌倉幕府が農民出身の武士主体である以上、彼らの思考に
陸上決戦があるのは仕方ないかと。
しかし、水軍衆の使い方は当時としては十分なものだと考えます。
また、元に内通する水軍衆が居なかった事は幸いであったと思います。
まだ、愛国心が無かった時代少なくとも水軍衆が幕府に協力的だった
事で充分だと自分は思います。
また、大規模船団を作るには相当な予算と人材が必要であり。
地方分権の鎌倉幕府にその力があったかどうかは不明です。


104 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/23(土) 20:55
鎌倉幕府が海外を指向していなかった以上、水軍力の整備に力を
注ごうとする土壌があったとは思えないなぁ。


105 名前: 従軍記者 投稿日: 2000/09/25(月) 01:56
>102
ていねいなレスいたみいります。
>私としては、日本にまともな水軍があれば、選択肢に幅ができたであろうと
>言う事をいいたかったわけです。
その件については、小生も同意します。
ただ、連想する水軍像は貴殿と異なるかもしれません。
やはり構築可能な水軍は
西海・瀬戸内等の水軍衆集合部隊になります、常設部隊は望むべくもありません。
小部隊の襲撃には秀でても、統制のとれた艦隊行動は不慣れな部隊です。
また
元軍は支隊でも渡洋船が数百隻単位の船団です。島陰に対抗船隊を隠すにしても、
それほど大部隊を隠せるものではありません、やはり、小部隊のゲリラ戦になって
しまわざるを得ないのです。
有効な策として
元軍上陸まで、水軍主力を(周防灘に?)待避させておき、陸上戦闘が生起してから、
昼間、一挙に、沖合停錨中の空船団を奇襲し、火攻めする。
これで敵の糧秣船を沈没させる事に成功すれば、勝敗はつきます。(事実、元軍が夜間
船に戻っていたのは、夜襲で糧秣船を焼かれるのを恐れていたのかも知れません。)
さらに
元軍が上陸戦闘中に、水軍を壱岐島に派遣し奪還する。元軍にとって対馬・壱岐は、
後背地であり補給兵站基地でもあります。
退路を断ち、兵站線を切る、一石二鳥の上策で、元軍を窮地に追い込めそうですが、
直ちに元軍主力が逆襲してくるでしょう。
(場合によっては壱岐の水軍部隊が「孤軍」になってしまうおそれもあります。)
まあいずれにせよ、
まともな水軍を組織していたとしても、陸海共同での挟撃戦とか、撤退敵軍の追撃戦とか、
はなばなしい水上戦は、当時としては無理ではなかったかと、そう思います。

でも、いい頭の体操になりました。(^_^)v




106 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/09/25(月) 02:56
↑長いわ!!!



107 名前: 名無しさん@ 投稿日: 2000/09/25(月) 02:58
長い。


108 名前: 名無し@武器商人 投稿日: 2000/09/30(土) 14:20
あんまり責めずにいいスレなんだから・・・



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