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親鸞仏教の正当性を問う
1 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/04(水) 13:04
親鸞仏教の土台を問う批判・反論が交錯することを期待します。これが、宗教宗派の枠を超えた論議となり、結果的には宗教の本質を社会に問う問題提起として各地で新たな飛び火的議論を巻き起こす一石となれば幸いです。
2 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/04(水) 13:05
これまで、親鸞の考えは、特定宗派という枠組みの中だけで語られ、語り手の考えに賛同する人だけが聞くという傾向が強かったと思います。語り手の考えに賛同しない人や無関心な大衆を、大規模に議論に巻き込む機会は、一部の例外を除けばほとんどなかったと考えます。
親鸞が死んで七百四十年が経過しています。生前、親鸞の思想は、法然思想とともに、公式に断罪されています。断罪はその後も法的には有効のまま放置されたままになっています。親鸞の場合、明治天皇から大師称号を送られているという事実はありますが、八百年前の断罪に対する政府の訂正はありません。親鸞死後、「親鸞思想は正しい、間違いない」という前提からの発言は、くり返し行われてきました。しかしその間、親鸞思想の正当性そのものを土台から問う問題提起はなかったと思います。
親鸞の考えは本当に正当なのでしょうか。どこまで正当なのでしょうか。どこは不当なのでしょうか。それ以前に、宗教的正当性とは何か。ここも問題になるでしょう。言葉の定義の問題も含め、インターネットの時代は、民主主義の手続きで衆知を寄せ合い、思想そのものを根幹から大衆レベルで大規模に真正面に検証実験できる時代なのだと私は思います。
八百年昔、親鸞がどう裁かれたのか、具体的なところは私はよく分かりません。私は、八百年も昔に出された議論をここで蒸し返すつもりは全くありません。資料的に不明確な過去の議論は全てご破算にし、私は現代に生きる自分が仮説として主張する親鸞思想を、議論の叩き台として随時提供したいと思います。
俎上に上げる対象は、在俗無名の愚禿親鸞という男が七百四十年も昔に主張した思想です。ただ、俎上に上げるリード役は少なくとも初期の内は事実上、渡海になると思います。俎上に上がる実際の対象は、渡海が親鸞思想として仮説的に主張する思想です。仮説の立て方には批判が寄せられるでしょう。仮説の選択方法にも批判は寄せられるでしょう。親鸞仏教の正当性を問うと言っても、議長はいません。裁判官や審判官がいるわけでもありません。私自身がプレーヤーです。様々な覆面的野次馬プレーヤーが入り乱れて衝突しあうと思います。学問的に意味のある結論が出るかどうかは分かりません。親鸞思想に批判的な人からの批判、親鸞の考えには賛成するが、たたき台とする渡海の考えには反対という人からの批判、様々な反論をインターネット上で交錯させることができれば幸いです。親鸞仏教の土台に向けた批判・反論が、宗派の枠を超え、結果的には宗教の本質についての社会への問題提起となり、各地で新たな飛び火的議論を巻き起こす一石となれば幸いです。
とりあえず、親鸞の主著、教行信証の総序の完結を期限未定の目標とします。私は、ここでは親鸞思想を描写した私の仮説の妥当性を問います。次に、私の仮説の基礎となった親鸞その人の思想の妥当性を問います。私は、私が信じる親鸞思想を実験したいと思います。
3 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/04(水) 13:07
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。<教行信証 総序>
「ひそかにおもんみる」。
親鸞は、事物の表象的現象から離れた背後にこそ、意味あるものがあると思いそれを求めようとするようだ。この姿勢は、私は賛成できる気がしている。
「難思の弘誓(ぐぜい)は難度海を度する大船」
釈迦は、祇園精舎に入学してきた人々に自分を先生と呼ばせた。釈迦は、自分を先生と呼ぶ者に対して自らの認識を伝達することを決意していた。釈迦は、人々を一括して大がかりに真理に導く運搬船として「先生」という呼称を選んでいる。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」
釈尊先生の教育指導は、闇にさまよう多くの人に、自分達が正しく生きていくための道を照らした。
親鸞は、阿弥陀仏という名で釈迦をなぞらえて創作された架空の教育者を、人格的に捉えた真理そのものとして認識し、そこに釈迦の性格をシフトさせている。仏陀つまり先生という呼称に、自らの救済の原理を見つめている。
4 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/04(水) 19:00
ウザイ氏ね。
===============終 了=================
5 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/04(水) 19:03
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
Λ_Λ | 君さぁ こんなスレッド立てるから |
( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ |
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐<
( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて |
/つつ | いないんだからさっさと回線切って首吊れ |
\____________________/
■■□■■どうせならこのスレッドに書き込め■■□■■
http://www.2ch.net/test/read.cgi?bbs=kao&key=963191323
(-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩)
6 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/05(木) 16:13
>4,5
(^^ゞ ぽりぽり。
あのね。これは大変重要なことなんだよ。(@_@)
親鸞の思想に正当性がないとしたら、親鸞聖人がこう言っているとか、ああ主張しているという引用の仕方は、誰がなんて言っても全てナンセンスということになるだろう。
親鸞思想の正当性の検討は、親鸞の言葉を引用する場合、当然その前にしっかり行ってなければならないんだ。先人の語録の引用は、主張の正当性を明確化し、正当性の範囲内でしなければならない。こういうしんどい作業を飛ばして、親鸞聖人はこう言っているとかああ言っているという主張は、全くナンセンスなんだよ。
坊主スレッドで道元を引用している人がいるけど、それだって先に道元の正当性の検討をして欲しいと僕は思う。既成宗教も新興宗教も、こういう作業をしないから、迷走していくんだ。恐い話だよ。
7 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/05(木) 18:07
「しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。」
「しかればすなわち、」
これはおかしい。少なくとも僕の皮膚感覚とは異質だ。〔まあ、僕が間違っているんかも知れん。他人は笑うんだろう。御開山様に間違いがあるわけないだろう、と言って〕
「しかれば」とはしかあればという意味だ。しかあればとは、そうであるならばという意味だ。つまり、先生というものは「先生」いう呼び名を船とする。「先生」いう呼称に乗船してくる者つまり自分を先生と呼ぶ者に真実を開こうと決意しているものなのだ。「先生」いう呼称の船に乗ってくる者に、迷いを晴らす智恵を与えてくる者なのだ。もしこれが正しいとするなら、そこから次の事実が言えてくる。
「しかればすなわち」という言葉は、「もしこれが正しいとするなら、そこから次の事実が言えてくる」ということを意味している。次の事実とは何か。「調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」である。
ここには我々の理解を超えた親鸞一流の論理がいくつもある。
8 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 07:54
――――――――――――――
マスター、氏んでも骨太
__ __ .r――――――――
∨ | ダイエットに良いって?
日 凸 U | ______
≡≡≡≡≡| / .∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
U ∩ [] ∨% (゚Д゚ ;) < じゃ、俺も飲むかなぁ
__ ∧∧___ .∧∧|つ∽)_ \_____
( ,,)日 .( ,,)∇
― / | ――.../ | ―――
\(__.ノ \(__.ノ
━┳━ ━┳━
 ̄ ┻  ̄ ̄ ̄┻ ̄ ̄ ̄ ̄
日 凸 U ∇ U
≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
U ∩ [] ∨ _ _
___ ヘヘ__/ ⌒ \
ノ ,)っ U( )ヽ
― / つ――― ヽ|ヽ|
(__.ノ
━┳━ ━┳━
 ̄ ┻  ̄ ̄ ̄┻ ̄ ̄ ̄ ̄
〜_ __ ∧∧
⊂⊂⌒ ⊃(- -)っ
9 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 07:57
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/な、なかはダメ〜〜
| はにゃ〜〜〜〜ん!!
∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/⌒⌒ヾ\
((ll.l__ll)))
((□-□ |'
| J ノ ヒヒヒヒヒ
, ― ノ) ヽ∀ /
γ γ~ \ /ー' ー―\
| / 从从) ) | ノ )
ヽ | | l l |〃 ヽ 人/ ノ
`从ハ~σノ)/ ∧ / /ノ
|ヽ ` \ /_ y / /
ι | ペ ノ ノソ )/ (
| // /'〃ノ)ー | ノノノ
( ノ ヾ / y ノて/ ノ
‘ / / / // /ピクピクピク
/ イ (/ / /
/ / | ) ( )(
( / / / ヽ \
‘uノ (__/∴∵ \ \
∵∴∵∴∵∴∵ヽ (
∵∴∵∴∵( /∴∵
∴∵∴∵∴∵
∵∴∵
10 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 17:35
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
/ /
/ モナーより /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
∧_∧ / /∧_∧
( ^∀^) / /(^∀^ )
( )つ ⊂( )
| | | | | |
(__)_) (_(__)
11 名前:
目撃ドキュン
投稿日: 2000/10/06(金) 21:57
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/うわっ!。私は名無しの9番よ。8番さん間違えないで。
| はにゃ〜〜〜〜ん!! 中はいやーん。
∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/⌒⌒ヾ\
((ll.l__ll)))
((□-□ |'
| J ノ ヒヒヒヒヒ
, ― ノ) ヽ∀ /
γ γ~ \ /ー' ー―\
| / 从从) ) | ノ )
ヽ | | l l |〃 ヽ 人/ ノ
`从ハ~σノ)/ ∧ / /ノ
|ヽ ` \ /_ y / /
ι | ペ ノ ノソ )/ (
| // /'〃ノ)ー | ノノノ
( ノ ヾ / y ノて/ ノ
‘ / / / // /ピクピクピク
/ イ (/ / /
/ / | ) ( )(
( / / / ヽ \
‘uノ (__/∴∵ \ \
∵∴∵∴∵∴∵ヽ (
∵∴∵∴∵( /∴∵
∴∵∴∵∴∵
∵∴∵
12 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/06(金) 22:04
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは一日休 /
/ みます。御期待感謝 /
/ いたします。 /
/ /
/ モナーより /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
∧_∧ / /∧_∧
( ^∀^) / /(^∀^ )
( )つ ⊂( )
| | | | | |
(__)_) (_(__)
13 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 22:08
>11
sage入れろよ。
14 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 22:11
この公害スレは常時sage入れてください。
15 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/06(金) 22:16
僕の体験を・・・
いけない事なのかもしれないけど、身近と言う事で妹とです・・・
小さい頃は一緒にお風呂に入っていました。
これは結構あることじゃないでしょうか?
一緒に入り体を洗い合う。ただソレだけのことですから。
お風呂の中で遊ぶのも楽しみの一つでした。
ある日アソコを洗ってもらったら得も知れぬ快感が走りました。
その頃はオナニーすら知りませんでしたから、これは一体なんだと思ったのです。
そうして数年が過ぎました。
オナニーも知り、女の子にも興味が出てきました。
そしてあの日の事。妹からアソコを洗ってもらい気持ち良かったことが蘇ったのです。
「また洗ってもらいたいなぁ」と、僕は思ってました。
でも妹も既に12歳だし、もう知っているだろうから・・・
友人から自分でするより、してもらったほうが気持ち良いと言う話を聞いていました。
他にも色々と聞いていたので女の子には興味津々でした。
ある晩僕は決心しました。妹にしてもらおうと・・・
流石に一緒にお風呂に入ろうと言うと、嫌と言われました。
そこで夜中になるまで待ちました。
妹が眠りかてたころを見計らって妹の寝室に侵入しました。
妹は微かに寝息をたてていました。
なんて可愛い寝顔なんだろう。
僕はパジャマのズボンとパンツを脱ぎ,妹に近づきました。
そして妹の手に僕の者を握らせようとしたのですが眠っているので握れません。
仕方ないもで妹の手に勃起した僕の者を乗せ、自分で動かしました。
妹の手は暖かく柔らかく気持ち良かったです。
そうこうしているうちに妹が目を覚ましました。
僕は咄嗟に脱いだ物をはきました。
妹はナニが何だかわからない様子でした。
「どうしたのお兄ちゃん?」
「いや、お前と一緒に寝たいなぁと思って・・・」
適当な事を言って誤魔化そうとしました。
すると妹は「良いよ」と言うではありませんか。。。
16 名前:
笑撃ドキュン
投稿日: 2000/10/06(金) 23:21
>13
お前なんかに命令されたくない。
17 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 09:20
河野美香氏の「17歳の性」(p.67)によれば、
性交を求められたときどうするか、との問いに対し、
CQCQ71990年の高校生の女子は20%が受け入れ・30%強が拒否CQCQ0、
と答えていますが、
CQCQ71993年の高校生の女子は30%強が受け入れ・25%が拒否CQCQ0、
と答え、受け入れと拒否が逆転し、しかも、
CQCQ71996年の高校生女子では40%が受け入れ・20%が拒否CQCQ0、
と、驚くべき回答をしていると発表しています。
18 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 13:25
なんじゃこりゃぁ
下げ の まんまで ええやんけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ
19 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 16:42
┌───────────┐
│ アナウンサー学校 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ ∧_∧ | 「すぐ沈む、駄スレ
│ ( ´∀`) <
└───( )─ | 立てンな!糞厨房。」 ハイ。
| ̄ ̄ ̄ ̄| \___________
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ) ( ) ( )
∧_∧ ) ∧_∧ ).∧_∧ )
( ) ( ) ( )
( ) ( ) ( )
20 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 16:47
/⌒\ マルミーエ
( /⌒\
| (・∀・ )
またアツマッテール /⌒\⊂ .|
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ モウイイヨ (・人・ )(⌒)ノ
__∧_∧∧_∧ __ (・∀・ ;) (-_-) | つ |
| __(*・∀・(・∀・ ;) | ( ∩⊂ ) (∩∩) ヽ(⌒) .|
|\ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒ \ )) (_(__) ∧_∧ | |
| \ \ )) シコシコ (・∀・ ;) (・∀・ )
\ |⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒| ([0)]]⊂ ). ) (
\ |_________| カシャ、カシャ (_(__) (__Y_)
ガンガンイクーゼ イキソー フェーラサイコー
∧_∧ .∧___∧ ∧_∧ モウデソー アソーコカラオトガ
( ;・∀・)( *・∀・) (・∀・ ;) ∧_∧∧_∧ デテハズカシー
( つ/ つ ∧_∧ つ (; ・∀・)∀・*)
. ) )(___⌒) ( ) / Oノ へつ⊂ノ
(__)_).(_) . / / つ(⌒) (_(⌒)へ_ノ
( ( ノ ングング クチュクチュ
(⌒)(⌒)
|こんばんわ、現場のモナーです。
|今、乱交プレイの真っ最中です(ワラ
\__ _____________
|/
∧_∧ Λ_Λ
( ´∀`)Φ ○)∀`; )
( ⊃‖ O□]⊂ )
| | | | | |
(_(__) (_(__)
∧
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄
俺、しーらねっ・・・
________________
21 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/07(土) 20:52
たくさんの人が注目してくれているね。張り切んなくちゃ。 ピース (^^)v
「調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。」
親鸞はここで浄土教の起源を語る。浄土教はどのようにして始まったのか。かつてインドにマカダ国という大きな王国があった。釈迦は国王の顧問をしていた。あるとき大事件が起こる。王子<闍世>が父王を殺し、母后<韋提>を牢に幽閉して王位に着く。母后は牢から泣きながら釈迦の名を呼ぶ。釈迦は牢に進入して母后に対面する。悲しみに泣き叫ぶ母后に釈迦は阿弥陀仏国土の素晴らしさを説き、阿弥陀仏国土への行き方を教える。
観無量寿経というお経に書かれている物語である。どこまでが史実で、どこからが脚色かは必ずしもハッキリしないが、親鸞はどうやらこれを浄土教の原点と思っているようである。
観無量寿経に書かれているこの物語をもって浄土教の原点と考えることは、親鸞の思想全体で考えるとぎこちない。何を考えているんだろうと言う不信感も否めない。
親鸞は言う。真実の教を顕さばすなわち『大無量寿経』これなり、と。真実の教は、大無量寿経が明らかにしているのだ。『観経』は化身・化土を顕しているという。化身・化土とは、親鸞の考えでは仮という意味だ。調達・闍世事件は、そのような仮の『観経』を説く契機になった事件である。契機とはいえ、仮の教えに過ぎないものに親鸞は注目している。真実の教えの契機は何か。大無量寿経に如来現瑞という言葉で指定されている。親鸞は、真実の教えが説かれるきっかけについては注目しない。仮の教えを説くきっかけになった事件に注目している。これは奇異ではないか。同じ契機なら、真実の教えが説かれるきっかけにこそ注目すべきではないか。私はそう考えるのだ。
親鸞は、仮の教えを説くきっかけになった事件を引き合いに出す。先生というものは「先生」いう呼び名を船とする。釈迦は、生徒に自分を「先生」と呼びなさいと指示した。「先生」と呼んでくる者、指示に乗って来る者に真実を開こうと決意していた。そしてそのように行動していた。釈迦は、物事に極めて真剣に、しゃにむにぶつかって行った人なのだろう。調達・闍世事件には事態収集に必死に向かっていた釈迦の姿勢が経典の随所に見えている。ものごとに真剣に向かっていくその姿にこそ、自分を先生と呼ぶ者に真実を開こうと決意している教育者としての素晴らしい姿が目撃されてくる。親鸞はそんな釈迦のあり方に、真理そのもののありかたの原点を見つめているのだろう。
そう考えると次の言葉の意味が分かってくる。「逆害を興ぜしむ。…選ばしめたまえり」。親鸞は使役動詞を使っている。釈迦は別に操り人形を操っているのではない。釈迦が調達や闍世を操ったわけではない。釈迦は自分を先生と呼ぶ者にひたすら真実を開こうとしていただけだろう。先生が、自分を先生と呼ぶ者にひたすら真実を開こうとその動きがあるところで、ものごとは遠からず自ずから収まる場所を得ていく。水は方円の器に随うものだ。起きるべき事件は起きるが、収まるべきものは遠からず収まっていく。自然の流れの中で、事件は起き、自然の流れの中で韋提希という母后に浄土教が説かれてくる。自然の流れの中心には、自分を先生と呼ぶ者に真実を開こうと決意し、その一点で動く釈迦の決意と行動が実存する。親鸞にはそう見ているのだろう。
22 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 21:36
>たくさんの人が注目してくれているね。張り切んなくちゃ。
>ピース (^^)v / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ ,――――-ミ
/ / / \ |
| / ,(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < 誰も注目してねえだろ!
/| /\ \__________
23 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 21:39
ゝ‐――――∂――∂――――∂――∂――――ゝ
/ / / /
/ / / /
/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ / < すでに終わってるよな!
/ / \__________
/ / / /
/ / / /
Λ_/Λ / Λ_/Λ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( /∀´)/ (´∀` ) / < 渡海教祖ってどうよ?
(つ つ ⊂/ つ \__________
←λ_ ~) ~)ヽ ←λ_~) ~)ヽ
ヽー(__)_) ゝ ヽー(__)_) ゝ ゝ
24 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/07(土) 22:05
22さん
>誰も注目してねえだろ!
いやいや。22さん。あなたが注目してくださっているんですよ。ほらね。貴方は自分が見えますか?
>23さんへ
>すでに終わってるよな!
終わりが始めの始め。これからが面白くなるんですよ。ピース (^^)v
25 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/07(土) 23:23
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ ,――――-ミ
/ / / \ |
| / ,(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < 22番。てめえが注目してんだろ!
/| /\ \__________
26 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/08(日) 22:38
<急に静かになったね。しばらく静粛にして人の話をしっかり聞こうという気になったのかな。いい傾向かも知れない(笑)。>
「浄業機彰れて、」
親鸞の主張は分かりにくいところがある。浄業機とは何か。何が現れて釈迦は韋提に安養を選ばせたのか。
安養とは、安養浄土つまり極楽浄土だと思う。観無量寿経で韋提希夫人は「我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽(ねが)う」と言っている。それでは浄業機とは何か。ここが問題となる。
機とは器である。入れ物である。器(うつわ)とは法が宿る場所という意味だ。極悪非道の人間にも、殺戮の戦場にも、真実は宿る。ナイフを持ってバスをハイジャックし、乗客を殺す少年の言葉にも真実は宿る。極悪非道の人間そのもの、殺戮の戦場そのもの、バスをハイジャックした少年の言葉そのもの、いずれも真実を人々に見せてくれる器である。真実は器に収まってその姿を示す。
真実は器に収まる。真実はどんな器にも入る。真実は器を離れて抽象的には存在しない。真実は、器に収まって人を真実に導く。浄業とは、器に収まった真実が人々を真実に向けて導く働きを言うものだろう。親鸞が言う浄業機とは結局、浄業が備わったそんな器という意味だろうと僕は思う。
釈迦は、自分を先生と呼ぶ者に向け、様々な器に真実を備える人だったのだろう。起きるべき事件は起きる。我々の世界ではある面でやむを得ないむきがある。釈迦には、起きるべき事件は起きるべくして放置した面があるのかもしれない。親鸞が「逆害を興ぜしむ」と言っているのはそういう意味かも知れない。しかし、釈迦という人は、そんな事件さえ器とする。器にしっかりと真実を備えてくる。真実は、器に収まって仕事する。このとき韋提希は安養浄土に至る道を釈迦に求めた。
では、安養浄土に至る道を韋提希に求めさせるということには、いったいどういう意味があるのか。親鸞の論理はいかにも飛んでいる。私にはそんな感じがしてならない。
27 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/08(日) 23:20
ゝ‐――――∂――∂――――∂――∂――――ゝ
/ / / /
/ / / /
/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ / < 渡海教祖ってどうよ?
/ / \__________
/ / / /
/ / / /
Λ_/Λ / Λ_/Λ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( /∀´)/ (´∀` ) / < めっちゃすごいと思う
(つ つ ⊂/ つ \__________
←λ_ ~) ~)ヽ ←λ_~) ~)ヽ
ヽー(__)_) ゝ ヽー(__)_) ゝ ゝ
28 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/09(月) 17:47
⊂⊂⊂二 \
____ ⊂二\
⊂⊂⊂⊂ \⊂ /
⊂⊂⊂⊂二 二 /⊂ /
⊂二⊂二 / ⊂ /
/⊃ ⊂⊂ 二 ⊂/ ⊂ /
/| ⊂⊂ 二 /ζ_ζ ζ_ζ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( 人 ⊂⊂二 /( ´ー`) ノ ( ゚Д゚)< シラネーヨ!
( ノ\ ⊂ / \。゚\ / νν \_______
( ゚。ノ\__\ /λλ )λ_λ゚/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( 。ο。(Ο ) ̄ ̄ ( ´∀`)< 神をナメンナー
( Ο 。ο。 ̄/ \_______
( ο゚。 Ο ι υ
人/ /〜〜〜〜〜| |ノ
///./∪∪∪∪∪| |\\
/ / // ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ | | \|
\ Y / | | ||
。 ヽU。 。U。。U。
29 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/10(火) 08:12
age
30 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/10(火) 22:31
「これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」。
何がすなわちなんでしょうね。権化の仁とは、神仏が仮に人間の姿をもって現れてきた方という意味だそうです。権化とは、現代では悪の権化のように悪い意味で使います。仁とは素晴らしい人を御仁とも言いますので、権化の仁とは神々に匹敵するほどの素晴らしい人という意味でしょう。
これすなわちの「これ」は、何を指しているんでしょう。調達・闍世・釈迦・韋提の全体を指しているのか、釈迦・韋提を指しているのか。釈迦・韋提のどちらか一方を指しているのか、はっきりません。後に「世雄の悲」という言葉が出ていますから、権化の仁には釈迦を含まないでしょう。世雄とは、釈迦を指す言葉です。大無量寿経で、「今日、世雄、仏の所住に住したまえり」と出てきます。
親鸞の和讃を参考にします。
釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ。
釈迦韋提方便してとはどういう意味でしょうか。釈迦は韋提に対して手段的手法を使ったという意味ではないでしょう。もしそうなら、「浄土の機縁熟すれば」という言葉が浮く感じです。釈迦韋提方便とは、二人力を合わせて手段的手法を使ったという意味でしょう。浄土教を説く器が出そろったとき、雨行大臣を闍王の見方に付けさせ、手段的手法によってクーデターを起こさせたという意味でしょう。
こう考えると、権化の仁は、韋提だけを指していると考えられます。韋提は、どうして権化の仁なんでしょう。調達・闍世・韋提を含め、もともとは聖者であり、この人達は仮に人間の姿をとって現れてきたに過ぎないという考えが、古い中国にはあったそうです。この考えを否定したのが中国の善導大師です。親鸞は善導流仏教の流れにありますが、ここは思想が先祖返りした雰囲気があります。
韋提は、基本的には斉しく苦悩の群萠を救済しようとしていた素晴らしい人格者だった。これが親鸞の読みでしょう。だからこそ、韋提は生涯、釈迦を求めた。釈迦は逆と謗と闡提とに恵みを与えようとしていた。だからこそ、韋提のリクエストに応えた。親鸞はそう言っているのでしょう。逆とは、反逆者という意味です。社会にとって極めて重要な五つのルールのいずれかを破る人という意味です。謗とは、真理を語る法を謗ることを言います。闡提とは、奴隷的最下層カーストを言います。
親鸞は、当初、浄土教を観無量寿経から学びます。観無量寿経は親鸞にとって浄土教への入門書でした。親鸞は、自らを逆謗闡提という立場に置いて韋提と釈迦に出会い、浄土教を学んできたと言っているのでしょう。
31 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/11(水) 08:15
ξ
__Λ_Λ__ Λ◎Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| __( | ̄ ̄|) | (´Д`; )<渡海難は亡くなりました。
|\ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒\ (\ / ) \____________
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\ |⌒⌒⌒⌒⌒⌒|(_(___)
32 名前:
ニーチェ
投稿日: 2000/10/11(水) 13:32
⊂⊂⊂二 \
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⊂⊂⊂⊂二 二 /⊂ /
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/| ⊂⊂ 二 /ζ_ζ ζ_ζ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( 人 ⊂⊂二 /( ´ー`) ノ ( ゚Д゚)< シラネーヨ!
( ノ\ ⊂ / \。゚\ / νν \_______
( ゚。ノ\__\ /λλ )λ_λ゚/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( 。ο。(Ο ) ̄ ̄ ( ´∀`)< 軍神、高森先生をナメンナヨー
( Ο 。ο。 ̄/ \_______
( ο゚。 Ο ι υ
人/ /〜〜〜〜〜| |ノ
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/ / // ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ | | \|
\ Y / | | ||
。 ヽU。 。U。。U。 ξ
__Λ_Λ__ Λ◎Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| __( | ̄ ̄|) | (´Д`; )<神は死んだ。
|\ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒\ (\ / ) \____________
| \ \ |__Ω____|
\ |⌒⌒⌒⌒⌒⌒|(_(___)
33 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/11(水) 22:59
age
34 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/12(木) 13:14
「かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」
「かるがゆえに知りぬ」とは、「前述のこういう理由から分かってくる」と言う意味だろう。どういう理由から何が分かってくると言うのだろう。親鸞の文章は難しい。
教行信証は、文章を読み飛ばしていくと意味が分からなくなる。一字一字注意深く読まないと真意が分からない仕組みになっている。
難思の弘誓とは、自分を先生と呼ぶ者に真実を教えようという決意、生徒からはほとんど伺い知れない先生の秘めた決意を指す。ここが読めないと、「かるがゆえに」は読めてこないのだ。
「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」
釈尊先生は、先生という名詞を船にし、先生と言う名詞に人々を乗せ、先生の認識界つまり真理の世界に人々を導いていった。これは釈尊先生だけではない。教育者はことごとくそうである。画家は花を先生とし、花に絵画の神髄を学ぶ。科学者は花を先生とし、花に生命の起源を学ぶ。人類学者は猿を先生とし、猿に人間の本質を学ぶ。花に宿る真理、猿に宿る真理、全て同じである。真理は、自らを先生と呼ぶものに向けて真理を明らかにする。
先生という名詞は、迷いの対立をまどかに融和させる最高の徳を含む。悪に宿ってそれを浄業器とし、徳に変える。親鸞はそう言うのだ。
「難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと」
これは一体何を指しているのか。親鸞仏教の原則は釈迦を起点に考える。難信金剛の信楽とは、釈尊先生の心を指す。
自分を先生と呼ぶ者には間違いなく真理を明らかにしよう。先生の決意は、生涯、揺らぐことはなかった。三五歳で十二因縁の法理に気付かれると、先生は八十歳近くで亡くなるまで現役で教育事業に従事された。「自らの愚かさに気付こう。学ぶ大切さを知ろう。実に一切のものが我々に真実を教えてくれている」。釈尊先生は、こうした認識をご自身も喜びをもって抱きつつ、多くの人々との共通の財産として共感的に共有享受しようと生涯を過ごされていく。先生の教育事業に賭けた決意は極めて強固だった。親鸞は、その決意の強固さをダイヤモンドに例える。余人の想像を超え、喜びを抱きつつ認識し、ダイヤモンドのように強固な心、これが難信金剛の信楽である。釈尊先生の行動は、こうした先生の心から発していた。
釈尊先生の心、すなわち難信金剛の信楽心は、先生を先生と呼ぶ人々から疑いを除き、証つまり正しい認識を付与していく。釈尊先生の心は、偽りの無い合理的な真そのものであった。親鸞はそんな認識から、偽り無き合理的な真そのものは、文字通り釈尊先生の心と同体の世界にあると観念する。難信金剛の信楽は、花に宿り、猿に宿る真そのものの心である。真そのものの心こそ、難信金剛の信楽心であって、その心こそ、画家、科学者、人類学者から、疑いを除き証を獲しめる真理である。親鸞はそう言うのだ。
35 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/12(木) 16:17
/⌒ヽ⌒ヽ
Y
八 ヽ
( __//. ヽ,, ,)
丶1 八. !/
ζ, 八. j
i 丿 、 j
| 八 |
| ! i 、 |
| i し " i '|
|ノ ( i i|
( '~ヽ ! ‖
36 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/12(木) 21:22
∧ ∧ カタ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(,,゚Д゚),____カタ__<逝ってよし
/ つ._.|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| \________
(, |\.||PC9800NX/C |
\,,|============|
37 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/13(金) 09:09
>35
三十五 「あ! 痛っ」
O
/
/⌒ヽ⌒ヽ /
/ Y \/
/ 八 ヽ
( __//. ヽ,, ,)
丶1 八. !/
/ ζ, 八. j
/ i 丿 、 j
(>_<,)
痛 j
38 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/13(金) 11:30
衝撃の画像
http://www.gay.co.jp/vj/videocity/my_gorilla.jpg
39 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/13(金) 14:45
閲覧者の方へ
渡海 難に関連するスレッドに書き込まれているURLは、悪戯が仕掛けられている可能性があります。
閲覧者を誘うURLをクリックする場合は、自分のPCが壊れる可能性があることも覚悟してください。
40 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/13(金) 15:40
煩悩坊主親鸞は悪魔です.
41 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/13(金) 18:26
悪魔には煩悩はありません。悪事に迷う悪魔は小物です。
親鸞は坊主ではありません。歎異抄末尾を確認してくださいな。親鸞が僧籍を復権した事実はありません。
親鸞は無名在俗の凡夫です。歴史を勉強してください。
42 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/14(土) 16:30
重要な論点を忘れていました。議論の順番が前後します。期限もなく、行きつ戻りつしますので、おかしいと思う方がいらっしゃれば、途中で待ったをかけてください。
「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ」
浄邦とは何か。ここが問題になる。縁熟してとは機縁が実ってという意味だろう。浄邦の機縁が実ったとき、調達や闍世にクーデターを起こすことを釈迦は許容されたと親鸞は言う。
浄邦とは極楽浄土という意味だという説がある。浄邦という言葉は愚禿抄でも使っている。そこでは極楽浄土という意味だ。しかし、浄邦を浄土と解釈すると、縁が熟するというのはおかしい。浄土には、縁が熟してないときと熟した後があるというのか。浄土には変化があるということになると、そこは生老病死する世界ということなる。生老病死する世界は迷いの世界である。
我々が住むこの現在の世界は、普通あまり「浄」という表現を使わない。ここは迷いの世界であり、穢土である。しかし親鸞は、いまここではその穢土を敢えて浄なる世界として表したい気持ちでいるのじゃないか。この仮説には愚禿抄と矛盾するという批判があるかもしれない。それでも私はいい。我々が住むこの現在の世界は、多くの生老病死があり、多くの苦しみがある。そんな世界であっても、いま、釈迦が出現してその救済を図っている。この素晴らしさはどう呼べばいいのか。親鸞は、その素晴らしさを極楽浄土に投影させて「浄」という言葉に込めているのだろう。釈迦が出現した素晴らしい世界、まさに浄なる世界、ここにさらに素晴らしい機運が到来した。そんな思いを感じるのである。
釈迦は、調達や闍世にクーデターを起こすことを許容された。釈迦は、クーデター事件を素晴らしい働きを果たす機運とされた。神々に等しい素晴らしさ(権化の仁)で多くの苦しんでいる人々を平等に救おうとしていた韋提希に対し、必死になって窮極の教えである極楽世界への道を質問させた。
親鸞はそんな受け取りをしているのだろう。
43 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/15(日) 21:00
「難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」
「証を獲しむる真理なり」
親鸞仏教の理解の難しさは使役動詞にある。獲しむるとはどういいうことか。使役動詞の主語は信楽である。ちなみに信楽は「しんぎょう」と読む。信楽は真理であるというテーゼと、証を獲しめる主体である。親鸞はこういう主張をしているのだ。使役の客体は何か。これは衆生である。念仏者である。こういう論理は筋を追って丁寧にきちんと考えていかないと、我流の誤解を起こすことになるのである。
親鸞の思想は釈迦に戻って考えなければいけない。信楽心は釈迦の心だ。ここを見落とすと間違いを起こす。釈尊先生は、自分を「先生」と呼ぶ者に真理を明らかにしようと人知れず(人には信じがたく)決意されていた。だからこそ釈尊先生はお弟子さん達に自分を「先生」呼ばせた。「自分を先生と呼びなさいよ」という先生のこの心こそ、真理そのものの普遍的な心なのだ。花は、自分を先生と仰ぐ画家に絵画の神髄を教えてくる。自分を先生と仰ぐ科学者に生命の起源を教えてくる。「自分を先生と呼びなさい」というこの心こそ、画家に絵画の神髄を得させ、科学者に生命の起源の知見を得させる理法そのものと言うべきである。親鸞はそう考えている。
44 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/15(日) 22:22
/⌒\
( )
(⊃ ⊂⌒\
(⊃ |\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
(⊃ |⌒ ________ \ ハァハァ
(⊃ |_/ (´Д` ;)
( ・∀・) < ガシガシしごけ! ( )
) ( | | |
(__Y_) (_(__)
45 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/15(日) 22:38
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46 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/16(月) 12:21
Λ_Λ
( ´∀`) ♪あ〜なた〜が のぞむなら
( つΘ∩ ♪わたし〜 なにを〜 されてもいいわ〜
〉 〉|\ \
.(__)| (__)
┴
| じゃ、のぞみどおりに!
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ Λ_Λ ♪……
( ´∀`) ( ´∀`)‥∵
(つ===つ==∽∽∽∽⊂( つΘ|二二二二
| | | .〉 〉|\ \"∵‥
(__)_) (__)| (__) プシュー
.┴
47 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/16(月) 15:10
カンパのお願い
みなさまへ
渡海 難
平成12年2月
(1) 浄土通信維持のため、経済的な支援をしてくださる方を捜しています。
(2) 最近、浄土通信宛に掲示板、電子メールなどで多くの質問、問い合わせが送られてきます。当方はそれらにできるだけ迅速にお応えしようとしています。
(3) 質問の内容は親鸞仏教の本質に関わる問題が多く、回答に時間をとられています。
(4) 親鸞仏教を将来に向けて正しく語り伝えて行くことは、多少なりともそれを聞きかじってきた者の喜びであり、また責任と考えています。
(5) こちらは自由業とは言え、家族を抱えた生活があります。
(6) 浄土通信を今後も円滑に運営していくには、それなりの経済的なバックボーンが必要になってきました。通信費だけでも相当の額になります。
(7) 目安として、月一回、一口4000円を1口以上あるいは半口、定期的あるいは不定期に、1ヶ月でも2ヶ月でもお送りくださる方がいらしてくださるとまことに幸いです。
(8) もし、今後、ある程度のカンパをいただけるようになると、横浜だけでなく、その他の地方でも浄土通信の「こんにちは会」が開けるようになります。
(9) カンパ金をお送りくださっても、何か特別に特典を差し上げるということはほとんど不可能です。それでも、渡海 難という人物は、インターネットで多少なりとも親鸞仏教を正しく伝えている一人であるとご評価くださる方がいらっしゃると幸いです。渡海 難に今後も発言させてみようとお思いくださって、お心ばかりでも応援くださると誠に幸いです。
(10) 誠に恐縮ですが、浄土通信ライブラリーで平成九年以降の分は、金額の多少に関わらず、カンパ金にご協力いただける旨のご連絡をくださった方にのみパスワードをお知らせします。どなたにも広くお読みいただきたいのですが、経済問題はいかんともしがたく、御了解ください。
(11) 平成九年以前の浄土通信ライブラリー、及び親鸞の思想と教行信証は、一応印刷不能になっております。カンパ金にご協力いただける旨のご連絡をくださった方で御希望の方には、印刷可能のpdfファイルをお送りします。
ご支援をくださった場合、必ず振り込み者名と電子メールアドレスをお知らせください。
48 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/16(月) 17:07
>47
不愉快です。
これは渡海 難が自分のHP浄土通信に掲示しているものです。
渡海 難のHNを使って渡海 難のHPの一部を勝手にコピーしないでください。
文章の内容に変更は無いようですので、これは著作権の侵害です。
渡海 難は2CHでカンパの呼びかけをお願いをするつもりはありません。
全くもって不愉快です。
49 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/16(月) 21:33
最近、大変多くの方々がこのスレッドに注目して見てくださっているので、心強く思っています。その方々には、心から感謝いたします。 m(_ _)m
なお、その一方で「渡海 難」のHNで私以外の方が信じられない書き込みをくり返しています。平成12年10月16日 20時以降の渡海 難の本人の書き込みは、当分の間、随時、自分のHP浄土通信インターネット「渡海 難 発言録」に記録していきます。
渡海 難の本人の書き込みかどうかはそちらでご確認ください。
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
「しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり」。
「しかれば」とは「しかあれば」という意味だろう。そうであるならば、つまり前記のことが正しいならば次のことが言えるというのだ。何が言えるのか。「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり」。ここで親鸞は三段論法を使っている。ところが、よく考えてみると、これは尋常の三段論法ではないようだ。私には、論理が飛んでいるように思えてならない。飛んでいるところは埋めて考えていきたいと思う。
親鸞は言う。凡小にとっては修行しやすい真実の教えであり、愚鈍にとっては往き易い捷径である。凡とは凡夫をいう。常人、普通の人という意味だ。小とは小乗仏教を学ぶ人々をいう。自分個人の能力の向上を目的に学ぶ人々をいう。愚とは愚人つまり愚かな人、鈍とは文字ではにぶい人という意味だが、失敗ばかりしている人々というような意味だろう。
普通の人、自己の能力の向上を目指す人、こういう人にとっては非常に手頃な真実の教えである。愚かな人、失敗ばかりしている人にとっては進んで行くには手頃な近道である。親鸞はそう言う。
凡小には「修」という字を当てている。愚鈍には「往」という字を当てている。凡小には「真教」という字を当てている。愚鈍には「捷径」という字を当てている。さらに、親鸞のこの発言には主語が抜けている。凡小にとっては、何が真教であるというのか。愚鈍には何が捷径であるというのか。親鸞の論理は途中が抜けている。
親鸞にとって真教は修の対象である。親鸞は直前に、「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり」と、言っている。修の対象となりそうなのは嘉号だ。真教とは嘉号を指していると考えられる。円融至徳の嘉号は、凡小にとって修し易き真教であるというのだろう。捷径とはなにか。それは、円融至徳の嘉号と対句となる難信金剛の信楽を言うと考えていい。
円融至徳の嘉号は修し易き真教であるという。果たしてそうだろうか。嘉号を修すとは、何か。南無阿弥陀仏と念じると言うことだ。南無阿弥陀仏を念じるとはどういうことか。「王いま座禅してただ当に念仏すべし」。これは行の巻の言葉だ。念仏は座禅して称えるのが原則だ。座禅して称えるというのは簡単なことじゃない。僕の場合かなり気持ちをそちらに向けないとなかなかその気にならない。易いというのとは、僕の実感とは距離がある。念仏は決して易しいものじゃない。ただ、やろうとすれば出来る範囲であることは間違いない。僕は、やろうと腹に決めて実行する。修し易いとは、「やろうとすれば可能な行である」という意味で言っているような気もする。
真教とは何か。大乗仏教にとって真教とは、大乗の仏になる教えという意味だ。大乗の仏になるとはどういうとか。非常に重要な問題だが、ここでは論点が大きすぎるので扱わない。
愚鈍にとって信楽は捷径であるという。信楽とは釈迦の心だ。心が道であるとはどういうことか。愚鈍は、何が真で何が誤りかは判断できない。愚鈍は示されるまま示されたところを忠実に踏襲していく他はない。「自分を先生と呼びなさい」と説いた釈尊先生のその心をそのまま踏襲していこう。愚鈍にとっては鵜呑みにして進むのが真実に至る早道だ。親鸞はそう説く。
普通の人、自己の能力の向上を目指す人、愚かな人、失敗ばかりしている人、みんな同じだ。「自分を先生と呼びなさい」と説いた釈尊先生のその心に従っていこう。親鸞はそう言っている。
50 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/16(月) 23:59
γ___
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( (( □━□ )
(6 J |)
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.;".;": - ′ Λ
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/ 人 .\‖/ . │) ノ
ΛΛ- ⌒ /| ; ‖;* ′((~ξ) .;".;
(。 。 ))ノ l* . ‖・ ,イ ー
∪∪| |; ‖ | .;".;":
.|;| | *‖ │.;".; .;".;":
ゴオ ォ ォ ォ .|・| l ‖ .;".;": オォ オ
オ ォ ォ ∪∪ l /″: .;".;"″: . オ ォ".;": ".;
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.;″: .;".;": .; ″: .;".;"″: . .;".;": .;".;
.;″: .;".;":
51 名前:
閻魔大王
投稿日: 2000/10/17(火) 09:20
親鸞会員 No50 姓名不肖 首吊り自殺
||
Λ||Λ
( /⌒ヽ
| | |
∪ / ノ
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∪∪
∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(;゚д゚)< ごじゅうばぁーん
(___ノ \__________
Λ_Λ //″: .;".;"″:
( ´∀`) /|五十八番は無間地獄に落とす。!
( モリ つЯ\| 大焦熱地獄を歩かせる!特別刑、千大劫とす。
| | | \\ .;".;": / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ .;".;": | 異議なし!賛成!.;".;": オォ
 ̄| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ヽ |ΛΛ ΛΛ ΛΛ Λ \ チンポも落とせ!。.;".;":
| | | | | |ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ \______.;".;": オォ
\ ̄  ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ゚Д゚(゚Д゚)゚Д゚(゚Д゚)゚Д゚(゚Д゚) ) .;".;": オォ
.;".;": .;".;": .;".;": .;".;":
.;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;":
52 名前:
閻魔大王
投稿日: 2000/10/17(火) 09:25
||
Λ||Λ
( /⌒ヽ
| | |
∪ / ノ
| ||
∪∪
∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(;゚д゚)< ごじゅうばぁーん
(___ノ \__________
Λ_Λ //″: .;".;"″:
( ´∀`) /|五十番は無間地獄に落とす。!
( モリ つЯ\| 大焦熱地獄を歩かせる!特別刑、千大劫とす。
| | | \\ .;".;": / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ .;".;": | 異議なし!賛成!.;".;": オォ
 ̄| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ヽ |ΛΛ ΛΛ ΛΛ Λ \ チンポも落とせ!。.;".;":
| | | | | |ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ \______.;".;": オォ
\ ̄  ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ゚Д゚(゚Д゚)゚Д゚(゚Д゚)゚Д゚(゚Д゚) ) .;".;": オォ
.;".;": .;".;": .;".;": .;".;":
.;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;": .;".;":
53 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/17(火) 12:29
一通り読ませていただきましたが、親鸞さんの教えというのは難しいですね。
とても当時の庶民に理解できたとは思えない。一般信者には文盲の人もずいぶん
含まれていたでしょう。そういう人々が親鸞さんに惹かれたというのは、多分
教学の立派さではなくて、親鸞さんの行動からにじみ出るものを感じたからと
いう気がします。
妙好人のように、教学など知らなくても「南無阿弥陀仏」を実践して見せた人は
いるように思います。もともと、釈尊の説いた教えは簡単明瞭、「悪いことをなす
な」(法句経)だけでした。本当の仏道とは、字を知らなくても実践できる道の
はずです。もし親鸞さんの教えに釈尊が説き忘れたような真理があるとすれば、
それを難しい用語を使わずに説明するべきだと思います(ちょうど釈尊が弟子に
対して説教したように)。もし、釈尊の教えを反復するだけなのなら、余計に
釈尊の教えをわかりにくくするだけですから、即刻やめるべきだと思います。
私には、ちょうどパウロが自分の教団を拡大する場面に都合のよい神学を作り
あげ、結果的に師匠の教えを排除してしまったように、親鸞さんも道を踏み間違
えた点が否定できないと思います(もちろん、本人の厚意による逸脱ではあります
が)。
54 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/17(火) 15:17
現在、浄土真宗の教義は非常に混乱しています。蓮如以来数百年、一向宗・浄土真宗は恐ろしいばかりに惰眠を貪ってきました。インターネットの時代は待ったなしです。ここに反省がなければ、だれかの安易な言葉で、明日は浄土通信が命取りになっているでしょう。
55 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/17(火) 16:26
ホームページ浄土通信を、<b>無料</b>で外国語に翻訳して下さる方を探しています。
英語、フランス語、ドイツ語、ロシヤ語、あるいは中国語、韓国語、東欧語などに翻訳していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせ下さい。
「4000円くらい安いもんだ」とか言っておきながら「無料で」ね…
「通信費がかさむ」とか言いながらこんなところに入り浸っているし
56 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/17(火) 17:33
ちょっとここのスレとは話題がずれてしまいますが、善導上人にまつわる
逸話として、こういうのを目にしました。ある人が善導上人に「私は悪人
だが、私でも成仏できるか」と尋ね、上人は「阿弥陀如来が保証している
んだから間違いない」と答えると、その人は「それでは」とにこりと笑って
目の前で自殺したそうです。
その人は善導上人の教学を一字一句吟味したわけでなく、人間としての
上人を絶対的に信頼して、自ら命を賭して浄土へ旅立ったのです。私はこれに
複雑な感想を持ちました。宗教における「信」とは、あらゆる種類の疑いを
否定するものです。しかし、それは「盲信」とどこが違うのか。逸話の信者の
ように、一般信者は教義を納得しているわけではない。あるのは上人への信頼
だけです。たぶん、わかろうとしても自分の頭では永遠に理解できない、
だからすべてを投げ出して上人の言うとおりにしよう、という決意だけ
です。
その時に、仮に上人に過誤があって、その結果として多くの一般信者が
浄土に行き損ねたら、その責任はすべて上人に肩にのしかかることにな
るのではないでしょうか。こういった「覚悟」が今の宗教家にあるだろう
か?手にナイフを持った信者が「私は悪人ですが、成仏できますか」と
問うたとき、目をそらすことなく善導上人の答えを繰り返せる人はいるの
だろうか?
一方で、一般人が「盲信」をせまれらるような教義にも問題があると
思います。一般人が理解できないのは、一般人の頭脳に問題があるので
は決してなく、むしろ難解な教義の方に非があります。釈尊の教えは、
どれもこれもわかりやすい比喩で説かれています。また、むつかしい
教義を知らなくても妙好人にはなれますが、教義を理解した人がすべて
妙好人にはなるわけではありません。
57 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/17(火) 19:08
53 ゲストさんへ
こんにちは。スケベな書き込みばかりで多少辟易していました(笑)。こういう書き込みをしていただけるとホットします。
>親鸞さんの教えというのは難しいですね。
教行信証は難しいんです。親鸞は、作為的に難解化しているようですね。当時、この思想は御禁制の思想でしたから、役人に捕まっても言い逃れができるようなたくさんの仕掛けを忍ばせているんです。仕掛けに騙されないで本意を探っていくということは、僕らが教行信証を読むときの知的な面白さになっています。
>とても当時の庶民に理解できたとは思えない。
教行信証は当時の庶民を読み手の対象にしてものではありません。承元の法難でちりぢりになった法然門下の再結集を画策した書物で、関東帰りの無名の親鸞などは口も利けないハイランクの旧法然門下に向かって呼びかけています。
会ったこともない人に読ませるのですから、ものすごい気を遣っています。
>一般信者には文盲の人もずいぶん含まれていたでしょう。
そういう人々に呼びかけたものとしては和讃と手紙があります。
>親鸞さんの行動からにじみ出るものを感じたからという気がします。
親鸞は、関東で布教活動にある程度成功しています。京都に対向していた関東で、親鸞は高僧同様に扱われたようです。京都ではほとんど失敗しています。僧籍を剥奪された無名無冠の流浪人の呼びかけに応じる都会人はいなかったでしょう。関東と往来を重ねている商人などには少し支持者もいたようですね。
親鸞には子供がたくさんいます。親鸞の実子と多すぎるようです。かつて寺は親無し子を育てることも重要な仕事だったようです。関東は法然門下の熊谷直実の地元です。熊谷直実の信用力の元で親鸞は孤児院のような事業をしていたのではないかというのが私の仮説です。
>妙好人のように、教学など知らなくても「南無阿弥陀仏」を実践して見せた人はいるように思います。
「南無阿弥陀仏」を実践して見せるというような人は妙好人でも二流でしょう。
>もともと、釈尊の説いた教えは簡単明瞭、「悪いことをなすな」(法句経)だけでした。本当の仏道とは、字を知らなくても実践できる道のはずです。
善悪の判断がつかない場合、「悪いことをなすな」は悪魔の教えになりませんか。
>もし親鸞さんの教えに釈尊が説き忘れたような真理があるとすれば、それを難しい用語を使わずに説明するべきだと思います
釈尊が説き忘れたような真理はないと思いますよ。釈尊は最後に無余涅槃に入られました。やり残しのない、余すことの無い涅槃という意味です。説き忘れたような真理はないでしょう(笑)。
>もし、釈尊の教えを反復するだけなのなら、余計に釈尊の教えをわかりにくくするだけですから、即刻やめるべきだと思います。
釈迦の原理に忠実に従いながら(原理主義)、時代という時間ファクターを加えて修正する(修正主義)ことは、釈迦教の承継者として当然のことではないでしょうか。
>私には、ちょうどパウロが自分の教団を拡大する場面に都合のよい神学を作りあげ、結果的に師匠の教えを排除してしまった
???
>親鸞さんも道を踏み間違えた点が否定できないと思います。
親鸞がどこかで踏み間違えていますか?。
58 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/17(火) 19:10
54さんへ
>浄土通信が命取りになっているでしょう。
−爆笑−
59 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/17(火) 19:12
55君へ
>「無料で」ね…「通信費がかさむ」とか言いながらこんなところに入り浸っているし
55君はいくつの坊やかなー?。大人の世界に参加するのは、ちょっと早すぎるみたいね。
もう、寝ションベンはしなくなったかなー?
60 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/17(火) 19:14
56ゲストさん
>「私は悪人ですが、成仏できますか」と問うたとき、目をそらすことなく善導上人の答えを繰り返せる人はいるのだろうか?
目なんかそらさないでも成仏できるんじゃないですか。どこか問題ですか?。
ゲストさんは「仏になる」とはどういうことだと思っていらっしゃいますか?
>むしろ難解な教義の方に非があります。
どこが難解ですか?。教行信証は作為的に難解になっていますが、原理は極めて分かりやすいでしょう。
>むつかしい教義を知らなくても妙好人にはなれますが、
そうですか。妙好人になれる。そうですか、そうですか。それは良かったですね。
>教義を理解した人がすべて妙好人にはなるわけではありません。
そうですか。そうですか。教義を理解した人がすべて妙好人にはなるわけではないんですね。妙好人なんかに僕は興味ありませんけどね。貴方は妙好人になりたいと思っている人なんですか。
61 名前:
KONY
投稿日: 2000/10/17(火) 19:21
本についてですが、現在執筆中途だけ言わせてください。2ちゃんねるでのやり取りも参考にして取り入れたいと思います。
62 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/17(火) 21:16
砲 砲
\\ \\
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/ ̄ ̄ ̄ ̄\ \\_\\
/● ● \ ⊆‐‐‐‐‐‐⊇
/ Y Y \ ⊆△△△ゞ⊇
| ▼ | | \ ∋刧凵ケ
|_人_ \/Θ \∩ ___刧凵@ ▽▽▽▽▽▽
\___ | ニ\ / / IIIII---+ □□□―IIII
ーーー\__\__// / III II// //_ III II
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■ \ _\ ■■■ Θ\IIIII П 亅亅 IIII \
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∈∈ Θ ∋∋∋Θ 【【【 ∋∋∋Θ
【 【 【 へ 』 【 【 【 ヘ 』 【 【 【 へ』
63 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/18(水) 09:28
>善悪の判断がつかない場合、「悪いことをなすな」は悪魔の教えになりませんか。
法句経は釈尊の言葉を収録したもので、すべてが本物とは断言できないものの、初期
の釈尊の教義を知る唯一の手がかりです。その法句経の中に「善」と「悪」は何度も
登場します。法句経は釈尊の口癖を記録したものだということなのですが、釈尊が
この「善」、「悪」を言っていたとき、果たして「悪人正機」的な意味で言っていた
とは思えません。もしそうだとしたら、当時の弟子達は皆「善悪」を曲解していた
ことになります。「悪人正機」の教えはそれから千年以上も後の時代に出てきた概念
ですから。
教義を時代の要請に合わせて「改良」していくことは重要なことだと思います。
しかし、新しい教義を打ち立てる場合には、それまでの釈尊の教えとは矛盾しない
ことを示す必要があります。私が指摘する法句経の「善悪」との問題などです。
あるいは、親鸞さんが自ら責任をもって、「確かに浄土には悪人がたくさん成仏
していたぞ」と霊界通信でもって(笑)証言する必要があります。それができない
限り、神ならぬ「人間親鸞」を無批判に受け入れる(それが「盲信」とどう違うの
か、私にはわかりません)しかない。親鸞さんが切った手形が、あの世で不渡りに
なっている可能性は誰にも否定できません。
宗教が競馬のような「当て物」ということなら、仕方がありませんが。
64 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/18(水) 10:08
私としては、「〇〇にさえ帰依すれば、無条件に救われる」という類の宗教は
すべて五十歩百歩、たんなる方便の教えだと思っています。〇〇には、阿弥陀如来、
パウロ的な「贖罪のキリスト」が当てはまるでしょう。その時に、〇〇=阿弥陀如来
で、他にはありえない、と断言するだけの証拠が見当たらないのです。残っている
のはすべて「手形の控え」です。阿弥陀如来が実在して、その手形でも残してくれ
ればよかったですが。どこかの空想力溢れた作家が書いた「阿弥陀物語」にすぎない
かもしれない。それは、誰にも否定できない。
本物の宗教とは、「何を崇拝すればよいか」ではなく、「人間はどのように行動すれ
ばよいか」を指し示すものです。この場合、「何を」の部分は意味を失い、〇〇など
どれでも同じだ、という結論に至るでしょう。釈尊の言葉で言えば、「善いことを
し、悪いことをしない」人ならば、何を拝もうと同じ涅槃の仲間でしょうし、イエス
の言葉を借りれば、他人の難儀に手を貸す者が「隣人」で、サマリヤ人もユダヤ人も
関係ないのです。
この問題は、宗教の普遍性という観点から避けて通れないと私は思います。
65 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/18(水) 14:26
__________________
/
|渡海難教祖に帰依しましょう。
|
\___________ _____
V
三三―― \
/ \ |
/ ー ー | |
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ | (・) (・) | |
/ ,――――-ミ | L つ
/ / / \ | | __ |
| / ,(・) (・) | /_ \ 》 / \
(6 つ | \  ̄ \
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < うるせぇよ!
/| /\ \________
66 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/18(水) 15:24
>55君はいくつの坊やかなー?。大人の世界に参加するのは、
>ちょっと早すぎるみたいね。もう、寝ションベンはしなくなったかなー?
いい大人が匿名掲示板の煽りにいちいちカッと来てこんなこと書いているから
ますます荒れるんだろ
坊主よりひどいだろこういう手合いは
67 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/18(水) 15:32
こんにちは。渡海難の書き込みばかりで辟易していました(笑)。こういう書き込みをしていただけるとホットします。
68 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/18(水) 15:37
このスレにはsageを忘れずに、ご利用は計画的に。
69 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/18(水) 22:21
63ゲストさんへ
>その法句経の中に「善」と「悪」は何度も登場します。
そうですか。私も法句経は好きですよ。軽妙な言い回し、簡潔な表現。素晴らしい本ですよね。中村元さんなんかは、法句経が釈迦の肉声だろうというような意味のことを言ってたと思いますね。
「いいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」は、現代でも宗教という立場でも改めて言うべき事でしょうか。宗教が改めて言わなくても、社会的には人間として常識化していませんか。既に常識化していることまで、果たして宗教は取り扱わなければならないんでしょうか。
昔は、病人の治療も、読み書きそろばん教育も宗教の範疇でした。例えば、ギリシャでは幾何学も宗教の一部だったそうですね。日本でも、古い神社仏閣に行くと、自分が編み出した和算の方法を解いた木板が奉納されているそうです。病人の治療も宗教行為だったですね。それは薬師如来像を見ると分かります。奈良薬師寺の本尊は例外ですが、薬師如来は薬壺を持っています。光明皇后は施療院という病院寺院を建てていますよね。潅漑事業、治水事業も宗教行為でした。弘法大師や行基菩薩は、全国に多くの土木事業を残しています。今では常識になっていることも、お釈迦様の時代に常識ではなかったなら、そういうこともたくさん言わなければいけなかたでしょう。
「いいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」これは当たり前のことだと思いますよ。当たり前のことなら、それはもうそれぞれの当たり前の社会でそれぞれ律していけばいいんじゃないですか。宗教がしゃしゃり出て行って重ねて言うべき問題でしょうか。もし現代でも宗教が重ねて言うべき問題であるなら、それは社会そのものが病んでいるからでしょう。それは宗教どうこうでなく、社会そのものを改革していく必要があると思います。
仏教は、悪いことをしてもいいとは言っていませんよ。いいことをすべきか、悪いことをすべきか、そんなことは宗教を持ち出さないで、常識で考えれば十分じゃないですか。ただ、我々の社会は、蒸留水の世界じゃない。現実には悪いこともしなければならないこともある。してはいけないことを思わずしてしまった場合、あるいはしないではいられないこともある。その場合どうするのか。「いいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」という基準だけでは、動きの取れない場合がある。そのときどうしますか。仏教は、この問題に取り組んでいるんだと思いますよ。
70 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/18(水) 22:24
63ゲストさんへ
>果たして「悪人正機」的な意味で言っていたとは思えません。
あなたは悪人正機説をどのように考えていますか。
釈尊先生は、悪ことをしないで済む人間、いいことをだけを一生続けられるような絵に描いたような幸せな人、そういう人の味方になるために登場したと思いますか。それとも、時には嘘もつく、思わず人の物も盗んでしまうかも知れない、様々な弱さを引きずった生身の人のために登場してきたと思いますか。
歎異抄の悪人正機説は、親鸞思想の全体で見るといささか突飛で、議論の余地もあると思っていますが、大筋では大きな間違いはないと思いますよ。
>「悪人正機」の教えはそれから千年以上も後の時代に出てきた概念ですから。
釈迦は教育者でした。釈迦は多くの哲人賢人を育てました。優れた人は、ほっといても自分だけで進歩していきます。教育が必要なのは、様々な弱さを持った人です。悪人正機は法然が使った言葉だと思いますが、悪人正機の考えは釈迦の思想の中核に既にあったと私は思いますよ。
>新しい教義を打ち立てる場合には、それまでの釈尊の教えとは矛盾しないことを示す必要があります。私が指摘する法句経の「善悪」との問題などです。
釈尊の教えと矛盾することはいいことか悪いことか、そんなことは私は知りません。たまたまか、作為的かは知りませんが、親鸞の主張は釈尊の教えといささかも矛盾ないと私は思いますよ。
>親鸞さんが自ら責任をもって、「確かに浄土には悪人がたくさん成仏していたぞ」と霊界通信でもって(笑)証言する必要があります。
貴方の場合、浄土に行くと言うことはどういうことだと思っていますか。
71 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/18(水) 22:26
64 ゲストさん
「〇〇にさえ帰依すれば、無条件に救われる」という類の宗教はすべて五十歩百歩、たんなる方便の教えだと思っています。
なるほど。
>〇〇には、阿弥陀如来、パウロ的な「贖罪のキリスト」が当てはまるでしょう。
なるほど
>その時に、〇〇=阿弥陀如来で、他にはありえない、と断言するだけの証拠が見当たらないのです。
なるほど。私にも見あたりませんね。
>残っているのはすべて「手形の控え」です。
手形って?
>阿弥陀如来が実在して、その手形でも残してくれればよかったですが。
残念でしたね (笑)。
>どこかの空想力溢れた作家が書いた「阿弥陀物語」にすぎないかもしれない。
インド浄土教団の恐らく数人の英知が集い、釈迦をモデルに創作した物語でしょう。
>それは、誰にも否定できない。
誰かが否定していますか?
72 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/18(水) 22:27
>64 ゲストさん
>本物の宗教とは、「何を崇拝すればよいか」ではなく、「人間はどのように行動すればよいか」を指し示すものです。
私もそうだと思います。燃えさかる火事の建物中では、どこに向かって逃げるかどっちに行くかということが大事なんでしょう。誰を信じるか、何を信じるかなどということは、二の次の問題でしょうね。
>釈尊の言葉で言えば、「善いことをし、悪いことをしない」人ならば、何を拝もうと同じ涅槃の仲間でしょう
多くの苦しみに満ちた世界の中では、現実には善いことができない、悪いことしかできない人もいるでしょう。そういう人も涅槃の仲間であることがあると思いますよ。
>イエスの言葉を借りれば、他人の難儀に手を貸す者が「隣人」で、サマリヤ人もユダヤ人も関係ないのです。
???
73 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/18(水) 22:29
>66 さん
>いい大人が匿名掲示板の煽りにいちいちカッと来てこんなこと書いているからますます荒れるんだろ坊主よりひどいだろこういう手合いは
軽い冗談ですよ(笑)。
こちらも生身の人間ですから、悲しいときには泣く、嬉しいときや可笑しいときには笑います(笑)。
>67さん
>こういう書き込みをしていただけるとホットします。
そうですか。そうですか。ホットできて良かったですね。 (゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン
74 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/19(木) 09:46
>渡海 難さん
丁寧なレスをどうもありがとうございました。
読んでみて、私の意見とさほど違うようには思えなかったというのが正直な感想
でした。もちろん、小さい見解の相違はありますけどね。
>「いいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」
「それは赤子にでもわかっている、しかし、それを完全に行える人は稀だ」(誰の
言葉だったか忘れました)なぜ悪が避けられないか、といえば、悪を避けると自分
の欲望を犠牲にしなくてはならないからです。犬のオアズケと同じ状態です。そこで、
釈尊は「お前の欲望なんて実体がないものだよ、そもそもお前という存在そのものが
実体がないのだから」と欲望から離れるように諭したのです。ですから、「悪をなすな」
は命令ではなくて、「そんな無益なこと、やめときなよ」という忠告だと思います。
その忠告が意味するものを完全に理解した人は、素直に欲望から離れることができる
でしょう(人間の生存に必要な最小限度の欲望は別ですが)。
>悪人正機
私は、釈尊もイエスも「悪を避けることができない心の弱い罪人」に法を説いたの
だと思います。しかし、「人間は悪を避けられないものだ」というのを正当化の理由
にして、自分の好き放題に罪を犯す「悪人」と、「できるだけ悪を避けようと努力
したが、結局同じ罪を犯してしまった」と悔悟の涙にくれる「悪人」とは一緒にする
べきでないと思います。私の解釈する「悪人」は後者だけです。
また、「人間は悪を避けられないものだ」というセリフは「だから、これは悪とは
言えないんだ」という風に展開できます。つまり、心の底では「自分は善人だ。
なぜなら、これ位の悪などやる資格が人間にはあるから」と思っている。
これでは「善人」と「悪人」が逆転してしまいますので、これを称して親鸞さんは
「ましてや悪人は(成仏する)」と言ったのだと思います。
>多くの苦しみに満ちた世界の中では、現実には善いことができない、悪いこと
>しかできない人もいるでしょう。
どうしても悪がやめられない人は、本当に釈尊の教えを理解していないからです。
アル中の人が2人居て、医者から説明を受ける。「貴方たち、今アルコールをやめ
れば命は助かりますからね、是非やめなさい」。一人は禁断症状に耐えて見事、
アル中を克服する。他方は結局やめられずに犠牲となる。
後者がなぜやめられないか、というと、自分が死んでしまうという深刻さを理解し
ていないだけです。何か他人ごとだと思っているのですね。嫌なことは忘れてしま
おう、という回避の心理があるのです。「悪いことをして五体満足で地獄へ落ちる
よりも、悪いことをする右手を切り落として天国にはいる方がいい」、右手を切り
落とすまで死後の生命を深刻に受け止められるかどうか、ということ、それだけの
違いだと思います。
人間、本当に「死ぬ気」になれば、何でもできるものですよ。できないのは、死ぬ
ことの恐ろしさが理解していないか、釈尊の言うことなどそこまで真面目に聞く
つもりない、楽して極楽に行けるなら話は別だが、と考えているかのどちらかです。
75 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/19(木) 16:54
74 ゲストさん
>自分の欲望を犠牲にしなくてはならないからです。
なるほど。
>忠告だと思います。
なるほど。
>完全に理解した人は、素直に欲望から離れることができるでしょう
その忠告が意味するものを完全に理解出来ない人は、永遠に欲望から離れることができないわけですね。それで、完全に理解した人が素直に欲望から離れることができるかどうか、それは完全に理解してない人でも分かるわけ?。
ゲストさん。ひとつあなたが完全に理解してみてくださいな。そのとき素直に欲望から離れることができるかどうか分かるでしょう。論より証拠、能書きだけじゃ、他人は信じない。
>「人間は悪を避けられないものだ」というのを正当化
人間は悪を避けられないものだというのは、不当なことでしょうか。
>私の解釈する「悪人」は後者だけです。
好き放題の「好き放題」という言葉は、想像も出来ないほどの茫漠たる様々な概念が含まれていそうです。様々な悔しさ、悲しさ、怒り、絶望、無知、無関心等々が含まれているでしょう。こういうものを「好き放題」という言葉で一括していいものでしょうか。
悔悟の涙にくれる人もいる。悔悟の涙さえ出ない人もいる。悔悟の涙にくれさえすればそれでいいんだというものでもないでしょう。類型学的な粗雑な議論のような印象を受けますね。
76 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/19(木) 16:55
74 ゲストさん
>「それは赤子にでもわかっている
赤子にでもわかっているなら、宗教がわざわざ取り扱わなければならないようなものじゃないでしょ。
宗教によっては商売繁盛を問題にするところもあるそうです。商売繁盛なら、宗教でなく、経済学に任せればいいでしょう。交通安全を問題にするところもあるそうです。交通安全なら、宗教でなく、法律、工学、行政に任せればいいでしょう。
善を行え、悪をするなということは、法律・倫理に任せれば十分だと思いますよ。
>犬のオアズケと同じ状態です。
???
>釈尊は「お前の欲望なんて実体がないものだよ、そもそもお前という存在そのものが実体がないのだから」と欲望から離れるように諭したのです。
存在そのものが実体ないなら、悪を犯すということ事態も夢幻ではないんですか。悪を犯すということにも実体はないんでしょ。実体が無い存在者が、実体のある悪を犯すということがあるんですか。悪に実体がないなら、悪を犯しても責められることじゃないように思いますね。貴方の論理ではどうなりますか。実体が無いというのは嘘で、本当は実体があるのでしょうか。実体がないとはどういうことだと貴方は思いますか。
77 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/19(木) 16:56
74 ゲストさん
>命令ではなくて、「そんな無益なこと、やめときなよ」という忠告だと思います。
悪を犯すということ事態も所詮夢幻なら、「そんな無益なこと、やめときなよ」と言うことだって大きなお世話じゃないですか。悪を犯しても夢幻、犯さなくても夢幻。どっちも無益なんでしょう。無益なら、犯しても犯さなくてもいい。そういうという理屈にはなりませんか。貴方の論理で。
>その忠告が意味するものを完全に理解した人は、素直に欲望から離れることができるでしょう(人間の生存に必要な最小限度の欲望は別ですが)。
存在自体が実体のないものなら、欲望も実体が無い。素直さにも実体はない。理解することも、理解しないことも実体はない。素直に欲望から離れようが、離れまいが実体がない。実体がないならどうでもいいことじゃないですか。それとも、人間の生存に必要な最小限度の欲望は、実体があることなんですか?
>私は、釈尊もイエスも「悪を避けることができない心の弱い罪人」に法を説いたのだと思います。
なるほど。ところで、心の弱い罪人も心の強い罪人も実体はない。それとも、心の弱い罪人は実体が無く、心の強い罪人は実体がありますか?
>「人間は悪を避けられないものだ」というのを正当化の理由にして、自分の好き放題に罪を犯す「悪人」と、「できるだけ悪を避けようと努力したが、結局同じ罪を犯してしまった」と悔悟の涙にくれる「悪人」とは一緒にするべきでないと思います。
「自分の好き放題に罪を犯す悪人」と「悔悟の涙にくれる悪人」とは、何か実体的な相違があるんですか?
78 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/19(木) 16:58
74 ゲストさん
>また、「人間は悪を避けられないものだ」というセリフは「だから、これは悪とは言えないんだ」という風に展開できます。
これは貴方の論理でしょう。
悪とは言えないなら、悪などは存在しないつまり避けるべき悪などは存在しないという結論になりませんか。避けるべき悪などは存在しないなら、避ける必要もない。人間は悪を避けられないものという前提もおかしくなりますね。実体がないなら、善も悪も無いでしょう。
>つまり、心の底では「自分は善人だ。なぜなら、これ位の悪などやる資格が人間にはあるから」と思っている。
これは貴方の想像ですね。心の底などは本当は誰にもわからない。
>これでは「善人」と「悪人」が逆転してしまいます
これは貴方の価値感ですね。「善人」と「悪人」とにどうして実体的な相違があるのですか。
>これを称して親鸞さんは「ましてや悪人は(成仏する)」と言ったのだと思います。
??
>どうしても悪がやめられない人は、本当に釈尊の教えを理解していないからです。
貴方が本当に釈尊の教えを理解すれば済むでしょう。釈尊の教えを理解するのもしないのも、他人は好きずきじゃないんですか。釈尊の教えを理解していなくても、責められることは無いでしょう
79 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/19(木) 16:59
74 ゲストさん
>自分が死んでしまうという深刻さを理解していないだけです。
>何か他人ごとだと思っているのですね。
>嫌なことは忘れてしまおう、という回避の心理があるのです。
>「悪いことをして五体満足で地獄へ落ちるよりも、悪いことをする右手を切り落として天国にはいる方がいい」、右手を切り落とすまで死後の生命を深刻に受け止められるかどうか、ということ、それだけの違いだと思います。
実体のない貴方の想像ですね。
>人間、本当に「死ぬ気」になれば、何でもできるものですよ。
それでは貴方がまず、死ぬ気で実践してみてくださいな。論より証拠。能書きよりも貴方が自分の一生を賭けた実証が大事でしょう。
>できないのは、死ぬことの恐ろしさが理解していないか、釈尊の言うことなどそこまで真面目に聞くつもりない、楽して極楽に行けるなら話は別だが、と考えているかのどちらかです。
人には様々な器があるでしょう。どちらかなどと2つに区分しないで、物事は多元的に考えましょう。他人を心配することより、貴方はまず、自分が死ぬ気で実践してみることが大事ですね。能書きの宣伝よりも、貴方が死ぬ気で実践して立証したことが真実なんですよ。死ぬ気で実践してみれば、貴方の言うことも変わってくるかも知れません。それに伴って他人の意見も変わってくるでしょう。
80 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/19(木) 17:08
ところで「善」と「悪」はどこで分けるんだ?
少し悪い人、かなり悪い人、ほどほどにいい人・・・
どう区別してるんだ?
立ち小便したら「悪」か?
無人島に一人でいたら、何をしてもOKじゃねーか。
根本的にオカシイんだよ。
81 名前:
ゲスト>80
投稿日: 2000/10/20(金) 09:08
答えやすい問題から先に。
創世記のアダムとイブの楽園追放の話は、人間が知識の木の実を食べて、人間の分別
で「善悪」を勝手に決めたために、神から離れることになった、もともと「善悪」など
ないのだ、という意見を言う人がおります。
では、こんな場合はどうですか?知識の木の実を食べる前に、アダムがイブを食べて
しまったら。その行為には「善悪」はない?さらにアダムが自殺をしてしまったら?
人間の歴史は終わってしまいますね。それはアダムの勝手だからやはり「善悪」は
存在しないのですか?
高性能の爆弾で宇宙ごと吹き飛ばす。それは「悪」ではありませんか?
82 名前:
ゲスト>渡海 難 さん
投稿日: 2000/10/20(金) 09:29
>存在そのものが実体ない
そういうことを釈尊が説いているのですか?いくら存在を否定しても、
原子は無くなりませんよ。それは釈尊の「空」を曲解しているだけです。
人間の体の炭素原子は、死後に分解されて二酸化炭素になり、植物の材料
として活用できる。宙をさまよう霊魂がその炭素原子を見つけて、これは
俺の体だから返せ、といえば釈尊は「この世のすべてのものは変化を免れな
い。お前の体も変化したので、実体とは呼べないのだよ」と諭すでしょう。
だけど、炭素原子が存在しない、というのは拡大解釈です。
>「自分の好き放題に罪を犯す悪人」と「悔悟の涙にくれる悪人」
私の使う「涙」はすべて象徴的です。それが「悪」だから避けようと
したが、結局できなかった、という努力があるかどうかです。ちょっと
ニュアンスが異なりますが、故意の殺人と、業務上過失致死の差です。
>それでは貴方がまず、死ぬ気で実践してみてくださいな。
私なりにやっているつもりです。何も最初から完全を目指す必要はない。
昨日よりも今日、一歩一歩「仏」の境涯に近づけばいい。人の言葉に対して
10回、昨日は腹を立てたのなら、今日は9回になるように努力すればいい。
そういう努力は、「悪人が善を目指す」努力です。もともと、善などない
というなら、そういう努力は無駄ということになるでしょうが、私はそうは
思いません。もちろん、釈尊の言葉(法句経)とも矛盾しません。
もともと、自分という存在も、「善悪」も一切存在しないのなら、誰に向かって
何のために釈尊は「悪をなすな、善をなせ」と説いたのですか?
83 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/20(金) 09:42
>悪人正機について
ソクラテスと弟子の問答の中に、こういうのがあります。不正確な引用に
なりますが、ニュアンスだけでも。
ソ「君は何のために学問するのかね」
弟「偉い人になりたいからです」
ソ「では、学問する人は偉いのかね」
弟「そうだと思います」
ソ「偉いのなら初めから学問などいらないだろう。だから学問する
人は愚かなんだよ」
この学問を「善の実践」、偉い人を「善人」、愚かな人を「悪人」と
置き換えると、
「人が(仏道を歩んで)善の実践をするのは、善人であるからでなくて
悪人だからだ」ということになります。
人は自分が悪人だと認識したから、仏道に入って精進するのです。その
中身は当然、「善の実践」以外には考えられません。屁理屈をこねて、
「そもそも偉い人と愚かな人などという区別はない」などと言えば、
ソクラテスから「このソフィスト(詭弁家)め」と叩き出されるでしょう。
84 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/20(金) 17:40
ゲスト
>釈尊は「お前の欲望なんて実体がないものだよ、そもそもお前という存在そのものが実体がないのだから」
>釈尊は「この世のすべてのものは変化を免れない。お前の体も変化したので、実体とは呼べないのだよ」と諭すでしょう。
この世のすべてのものは変化を免れない。お前は善を行ったと思っているかも知れないが、結果は悪いかも知れない。お前は悪を犯したと思っているかも知れないが、結果は善いかも知れない。この世のすべてのものは変化を免れない。永遠の善などは存在しない。永遠の悪などは存在しない。
お前はいま、自分は人間と思っているかも知れない。そのお前でもいつ、ケダモノの心でケダモノの行動を起こすようになるかも知れない。ケダモノの心でケダモノの行動を起こせば、それは立派にケダモノだ。ライオンがシマウマを食い殺すことは悪だろうか。狼が羊を襲うことは悪だろうか。およそ善悪とは、人間の世界の話だ。ケダモノの心でケダモノの行動を起こすケダモノには、善もない。悪もない。自分から選んで人間に生まれる者はいない。同じように、自分から選んでケダモノになるものものいない。すべて偶然による。
ひとは絶えずたえず心と行動を変える。人間的な心で人間並の行動をしていた人間が、次の瞬間には有頂天になる。天の心で天人のような自在な行動を起こす。天才という。天才も、次の瞬間には地獄で塗炭の苦しみをなめる。この世のすべてのものは変化を免れない。絶対の善もなければ、絶対の悪もない。永遠のものはない。
>故意の殺人と、業務上過失致死の差
故意の殺人と業務上過失致死には、どういう実体的な相違があるのでしょうか。被害者は犯罪者を故意殺人と訴える。検察官は業務上過失致死として起訴する。被害者は怒りをマスコミに訴える。世論に押されて法律が変わる。次の事件で、検察官は故意殺人で起訴する。そういうこともあるでしょうね。
85 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/20(金) 17:42
ゲスト
>私なりにやっているつもりです。
そうですか。結構でしょう。「私はやっている」と言う場合と、「私なりにやっているつもりです」と言う場合とには、ここにこそ何か実体的な違いがあるようにも感じますね。
>何も最初から完全を目指す必要はない。
そうでしょうね。でも「目指す必要はない」と、「死ぬ気になる」いうのとは、何か実体的な違いがあるようにも感じますね。
>そういう努力は、「悪人が善を目指す」努力です。
この程度は、凡人が善を目指す努力だと思いますよ。
>もともと、善などないというなら、そういう努力は無駄ということになるでしょうが、私はそうは思いません。
なるほど。そうですか。結構でしょう。でも、善など求めても、努力は無駄ということになることもあるでしょう。この世のすべてのものは変化を免れないんですよ。ただ、善求めれば、たとえ努力は無駄になっても、求めたこと自体は、尊いと評価できるでしょう。仮に結果は無駄になっても、善を求めていたと言うことは、結果の如何に関わらず、お釈迦様は尊いと仰ってくださるでしょう。
>何のために釈尊は「悪をなすな、善をなせ」と説いたのですか?
これは次回。
86 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/20(金) 17:42
ゲスト
>人は自分が悪人だと認識したから、仏道に入って精進するのです。その中身は当然、「善の実践」以外には考えられません。
いろんな価値感の方はいらっしゃるでしょう。
「『悪人だと認識した』つもりになった悪人が」、自己満足の独りよがりの仏道にはまり込み、精進しているつもりになっている人もいるでしょうね。人はいろいろでしょう。
「独りよがりの仏道にはまり込んでない」と、私は自分をそう言ってるつもりはありませんよ。『自分は仏道に入って精進している』と思った瞬間のところに、思いも懸けない仕掛けが仕掛けられていることに私は注意したいんです。
>ソクラテスから「このソフィスト(詭弁家)め」と叩き出されるでしょう。
「この詭弁家め」と叩き出される悪人もおり、「この詭弁家め」と叩き出す悪人もいる。「この詭弁家め」と叩き出される善人もおり、「この詭弁家め」と叩き出す善人もいる。
この世のすべてのものは変化を免れない。
87 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/21(土) 07:23
>>何のために釈尊は「悪をなすな、善をなせ」と説いたのですか?
>これは次回。
しばらく熟慮しました。考えても考えても分からない理由がやっと分かりました。
無限の宇宙の一角を耳掻きですくい上げることはできません。
仏陀の心は宇宙のように奥深く、私のような軽薄者が耳掻きでほじくるようにこちょこちょと考えてみても太刀打ちできる相手ではありませんでした。
m(_ _)m
88 名前:
ゲスト
投稿日: 2000/10/21(土) 15:59
せっかく書いた長文のレスが、謎の誤作動で消えてしまいました(ToT)。
>渡海さま
見解の相違の原因は以下の2つだと思います。
1)この世に「絶対的な善悪」があるかないか(宇宙を滅ぼすことは悪でないか)
2)善悪とは行動の結果ではなく、むしろ心の状態だと私は考えていること
(人を殴るのが悪いのは、その憎しみが故です。さそりが這っているのを見つけて
払おうとして、誤って顔を殴った場合は「善」だと私は思うし、事情を説明すれば
殴られた相手も納得します。善悪は、人を殴ったことではなくて、殴る動機、あるい
は心の状態にあります)
私見ですが、釈尊もイエスも「心の善悪」の問題を扱っていると思うのです。
だから、表面的な「善行」をやって「心」をなおざりにしたパリサイ人が攻撃され
た。釈尊が教え諭したのも、「心」の持ち方です。もし、「むさぼり」が食事の
量で決まるのなら、現代の日本人はすべて「むさぼり」を犯しています。でも、
実際には梅干ひとつを争ってむさぼる人もあり、豪華な食事を楽しみつつもむさぼ
らない人もいる。すべて、心の状態如何です。
89 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/22(日) 16:02
ΛΛ / ̄ ̄  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ! イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ! イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ!| 叩き殺す!! | イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ \_ _____/ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄ ∨, ⌒⌒\  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ! ((ll.l__ll))) .) イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ ((l ロ-ロl) __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄ ,ヽ、 ヽ ∀ノ  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ!| | ( ) イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ | |  ̄ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄ ΛΛ  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ!( ゚Д゚) イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ U ~Λ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄ / ̄  ̄ ̄\  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ!| 無理するな。| イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ \____/ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ! イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ __/ U U ̄
ΛΛ / ̄ ̄  ̄ ̄\ ΛΛ
 ̄( ゚Д゚)< イッテヨシ! イッテヨシ!>(゚Д゚ ) ̄
 ̄U U \__ __/ U U ̄
90 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/22(日) 19:20
>この世に「絶対的な善悪」があるかないか(宇宙を滅ぼすことは悪でないか)
宇宙を滅ぼすことは何人にも不可能でしょ。宇宙を滅ぼすことは何人にも不可能ならば、絶対的な悪は存在しない。貴方の理屈はこんな議論になるんでしょうか。伝染病が蔓延して細菌が人類を一人残らず殺し尽くせば、細菌は悪を犯したことになるのでしょうか。意味ある議論とは思えません。
>さそりが這っているのを見つけて払おうとして、誤って顔を殴った場合
払った人が不注意ということもあるでしょう。事情を説明すればするほど、軽率な悪質ぶりにますます怒り出す相手もいるでしょう。
>善悪は、人を殴ったことではなくて、殴る動機、あるいは心の状態にあります
お前の体も変化したので、実体とは呼べないのだよと諭すでしょう。
>私見ですが、
これに限らず、一つ残らず私見でしょう。
>釈尊もイエスも「心の善悪」の問題を扱っていると思うのです。だから、表面的な「善行」をやって「心」をなおざりにしたパリサイ人が攻撃された。
イエスによるパリサイ人攻撃は、浮ついたお調子モンの宗教屋が、既成宗教に阿呆なからかいをしかけたということでしょう(笑)。身の程知らずにからかっているイエスも馬鹿でしょう。
<イエスのアホぶりは2CHの渡海にそっくりだって? どうも済みません m(_ _)m>
>すべて、心の状態如何です。
心次第で善になったり悪になったり。この世のものは変化を免れないということでしょう。
91 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/23(月) 12:40
渡海 難よー。あー、マジ氏んでほしいよ。
こんにちわ会やってくれよ。
オレぜったい行くからさー。今だったら沢山集まるんじゃねーの。
早くやれよ!オイ!はやくー!
92 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/23(月) 15:19
\ )
___ )/ |
/ , − ヽ | /
/ // ヽ ヽ | |
| / / \ | |
| | | | | ) ) )` | /
| | |ノノノノノノ / |
| | | 、 l, |_ | \
ゝ (| |  ̄ 〉 ∩/ |
\ヽ .|| | " ( ̄ ̄/ |
w 从|l |ll ハ /~ ̄フ⊃ |
ヽ/ || / ̄ ̄ /〜| /
/ \ ̄||‐ l | /\_/ /
/ \゛= | | / /| /
93 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/23(月) 16:31
\ )
___ )/ |
/ , − ヽ | /
/ 知 // ヽ ヽ | |
| ら / / \ | |
| ん | | | | ) ) )` | /
| 会 | |ノノノノノノ / |
| | | 、 l, |_ | \
ゝ (| |  ̄ 〉 ∩/ 低 |
\ヽ .|| | " ( ̄ ̄/ 林 |
w 从|l |ll ハ /~ ̄フ⊃ ○ |
ヽ/ || / ̄ ̄ /〜| 鉄 /
/ \ ̄||‐ l | /\_/ /
/ \゛= | | / /| /
知らん会は、ちんちんとおっぱいの違いを知らん会
94 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/23(月) 22:01
「大聖一代の教、この徳海にしくなし。<教行信証>」
大聖とは釈迦を指す。大聖が釈迦を指す言葉であることは問題ないだろう。大無量寿経の最初の方に、「ややしかなり。大聖、我が心に念言すらく」と言う阿難尊者の言葉がある。親鸞も大聖という言葉は気に入っているようだ。頻繁に使っている
「一代の教」とは、釈迦が生涯を通じて説いた教えという意味だ。生涯を通じて説いた教えは、この徳海に及ぶものはない。つまり、この徳海が最高位の教えであるという。この徳海とは何か。この徳海とは、真教・捷径を指すものだろう。凡小でも修し易い真教、愚鈍でも往き易い捷径、親鸞はそうした真教・捷径を海に喩えている。海という言葉には、徳という形容を付けている。
「海」という言葉も、親鸞が好きな言葉であるようだ。海について親鸞は次のように言う。雑修雑善の川水を転じ、恒沙無明の海水を転じて、万徳の大宝海水と成る。様々な悩み、苦しみ、悲しさ、場合によればうれしさ、楽しさもだろう、全てを包んで無限の宝に変えていく。海に流れ込み川には濁った川もある。清らかな川もある。甘い味のする川もあるかも知れない。苦い味の川もあるかも知れない。そうした川の水も、いったん海に入れば等しく海の水にかわる。あらゆるものを飲み込んで限りない宝の世界に変えていく。親鸞は、海のもっているそんな働きを、凡小でも修し易い真教、愚鈍でも往き易き捷径に目撃しているのだろう。
95 名前:
大作
投稿日: 2000/10/23(月) 22:24
僕も中学生のとき小学六年生の妹に遊びの延長ですがいたずらしていました。妹を大好きでした。でも性に好奇心があったことは否定しません。妹をソファ
に寝かせその上に覆いかぶさり、口づけして舌を絡ませ、小さな胸を揉んだり下半身を押しつけたりしていました。妹とのキスは夢のようでした。最初は凄
く拒否していましたが、何回かするうちに僕も妹もキスのやりかたがわかり、その気持ちよさもわかったんです。本当の恋人同士のつもりでした。キスで興
奮していた所に下半身を押しつけていたので、そのままパンツの中で射精しすぐにトイレに駆け込みました。何故トイレに駆け込んだのか、当時の妹が理解
していたかどうかはわかりません。しかし結局ここまででした。何回か試みましたが、服を脱がせるようとするとかなり抵抗されました。これ以上は親にチ
クられると思い本当に不安で、どうしてもできませんでした。僕の妹へのいたずらはこれで終わりました。中途半端にキスだけでも続けていると無理やり襲
ってしまいそうなので、抱き合うのもやめました。 幸い今でも仲の良い兄妹です。キスまで応じていたのだから、あの時もっと
ゆっくり時間をかけて接していれば、そして妹がもう少し成長していればセックスできたかもしれません。今頃妹と二人で暮らしていたかもしれません。妹
との間に子供を作っていたかもしれません。限りなく空想(妄想?)してしまい、大変悔しいです。皆さんももし妹さんが許してくれるならセックスした方が後
悔しないでいいですよ。結婚できなくたって妹と二人で幸せになることはできるんだから。 ここを読み、これを書いているうちに昔の気持ちが蘇ってきました。今は人
妻ですが、なんとか願望を叶えたいと思います。子供を作るのは無理でも、せめてセックスしたいです。
96 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/24(火) 22:19
「親鸞仏教の正当性を問う」は、多忙のため本日は休みます。
皆様の御期待に感謝します。
97 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/25(水) 21:26
多忙のため休みます。御期待に感謝します。
98 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/25(水) 22:29
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ ,――――-ミ
/ / / \ |
| / ,(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < 誰も期待してねえだろ!
/| /\ \__________
99 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/26(木) 08:45
>誰も期待してねえだろ!
誰も期待してくださってなかったんですか。そうだったですか。そうだったですか。あ、そうですか。そうですか。98番さん、あなたは期待してくださってなかった。あ、そうですか。そうですか。よく分かりましたよ(゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン
期待してくださってない方も、期待してくださっている方。期待してくださっている方も、期待してくださっている方。皆様、御同行御同朋なんですよ。
100 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 10:57
>>皆様、御同行御同朋なんですよ。
よく、こんな言葉言えるよなあ。あんたのレス読んで
矛盾していない?
101 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 12:16
>あ、そうですか。そうですか。98番さん、あなたは期待してくださってなかった。あ、そうですか。そうですか。よく分かりましたよ(゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン
そろそろ御前のオナニーも見飽きたな。いつも同じパターンだ。頑張ってはやくSEXできるようになれるといいな。まぁ無理かな。いつも一人よがり自分勝手じゃねー。
102 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:19
今から約二六〇〇年前、印度に生まれた釈迦によって説かれた仏教は、中国を経由して六世紀になって日本に伝えられた。蘇我氏と物部氏の崇仏派、排仏派の戦いは蘇我氏の勝利に終わり、蘇我氏の一族たる聖徳太子によって、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」の一七条憲法に見られる如き仏教政治が行われた。法隆寺などの仏教寺院も数多くたてられ、仏像、建物、仏具が美術化し、今日日本文化の源は仏教であるといわれる基礎を築いた。平安時代に入り、最澄、空海が相次いで天台宗、真言宗を開き、比叡山、高野山は共に最高学府として学問の中心が仏教界にあった。特に比叡山は、恵心僧都源信を経て、鎌倉時代に法然をはじめとする傑出した高僧、名僧を続々と輩出した。中世でもっとも影響力を与えたのは親鸞によって体系化された浄土真宗、一向宗であった。その勢いは、八代目蓮如の時に爆発し、わずか四間四方の本願寺が、この世の極楽とまで称せられるほどになり、その教線も全国津々浦々に拡大した。当時としては画期的な布教メディアであった「御文章」(御文)により、聞き求める人は激増し、吉崎御坊は人であふれて参詣制限が出たほどであった*1。そして、かの一向一揆は、信長、家康をまで苦しめ、頼山陽をして「抜き難し南無六字の城」と驚嘆せしめた。
103 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:21
聖徳太子が「敬え」と言われた僧侶は、学校の先生となってサラリーマン稼業に忙しく、檀家をまわって「御布施」を集め、門徒が危篤と聞くと「やった、久しぶりに宴会が出来る」と大喜びだという。明るい、活発なイメージなど微塵もなく、若い人は寺・坊主・仏教と聞いてまず近づきたいとは思わない。第一、「坊主」とつく言葉にはろくな物がない。「三日坊主」「生臭坊主」「坊主丸儲け」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」といった調子である。いったい、これはどうなったのであろうか。古来、あれほどまでに民衆の上に大きく存在した仏教は、どこにいったのであろうか。どこでどう変わっていったのであろうか。疑問を持つのは不思議ではあるまい。
104 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:23
わが国における主な宗教団体名」に掲載されている仏教諸宗派の信者数の総合計は、6,380万人と全人口の2分の1を占める。このことが多いか少ないかは別として、社会学的にみても、江戸時代の「寺請け制度」の下で独自の発展を遂げ、明治以後は、近代国民国家形成の過程で、政府が「国家神道」というの欧州の「国教会制度」の借り物ともいえるシステムの導入を計ったにもかかわらず、国民生活には、ほとんどこれが定着せずに、当然のことながら、日本の敗戦によって跡形もなく崩壊した。むしろ、もう一方の明治国家の柱である「家制度」と合体した「檀家制度」という日本独自独自の寺院形態の方が定着した。
そもそも、「出家宗教」であるはずの仏教(東南アジアの上座部仏教を見るまでもなく、中国や韓国でも僧侶といえば「出家」を意味している)が、わが国においては、「檀家制度」や「僧侶の世襲」という「在家型仏教」という世界でも類をみない形で発展を遂げてきたことの是非を問うのは、本稿の目的ではないので、別の機会に譲るとしても、僧侶の数の総合計22万人は、わが国の全宗教家の総合計68万人の3分の1に当たり、全寺院の総合計84,000ヶ寺は、わが国の全宗教施設の総合計23万カ所の3分の1に当たり、最大の宗教勢力である。
このことから判ることは、まず、全宗教家の3分の1を占める僧侶が、全国民の2分の1に当たるの信者(檀家)を有しているということである。すなわち、単純に計算しても、僧侶の収入は、全宗教家平均の1.5倍あるということである。このことは、以後の考察において基本的な前提となるので、よく心に止めておいてほしい。日本国民185人で1人の宗教家を養っているのだから、仏教だけに限って言えば、278人で1人の僧侶を養っていることになる。この数字は、定まった教義を持たず、不特定多数の氏子を持つ神社神道を別にすれば、教派神道各教団の平均106人やキリスト教系各教団の平均85人と比べても、僧侶はかなり裕福な生活をしていることの証であり、巷間でいわれる「坊主丸儲け」は、一般人の経験的智恵として、合理性を持っていると言える
105 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:25
天台宗
天台真盛宗
金峯山修験本宗
天台寺門宗
聖観音宗
和宗
孝道教団
妙見宗
念法眞教
高野山真言宗
真言宗智山派
真言宗豊山派
真言宗大覚寺派
新義真言宗
真言宗善通寺派
真言宗御室派
真言宗山階派
真言宗泉涌寺派
真言宗醍醐派
真言宗国分寺派
真言宗須磨寺派
真言宗中山寺派
真言三宝宗
信貴山真言宗
真言宗犬鳴派
東寺真言宗
浄土宗
浄土宗西山禅林寺派
浄土宗西山深草派
西山浄土宗
浄土真宗本願寺派
真宗大谷派
真宗高田派
真宗仏光寺派
真宗興正派
真宗木辺派
時宗
融通念佛宗
臨済宗妙心寺派
臨済宗南禅寺派
臨済宗円覚寺派
臨済宗建長寺派
臨済宗天龍寺派
臨済宗相国寺派
臨済宗東福寺派
曹洞宗
黄檗宗
日蓮宗
法華宗本門流
法華宗陣門流
法華宗真門流
顯本法華宗
本門佛立宗
本門法華宗
法相宗
聖徳宗
華厳宗
真言律宗
律宗
北海道仏教会連盟
青森県仏教会
岩手県仏教会
福島県仏教会
群馬県仏教連合会
栃木県仏教会
茨城県仏教会
(財)埼玉県佛教会
千葉県仏教会
東京都仏教連合会 神奈川県仏教会
新潟県仏教会
石川県仏教会
福井県仏教会
山梨県仏教会
長野県仏教会
岐阜県仏教会
静岡県仏教会
愛知県仏教会
滋賀県仏教会
京都仏教会
京都府仏教連合会
大阪府仏教会
兵庫県仏教会
和歌山県仏教会
島根県仏教会
岡山県仏教会
鳥取県仏教連合会
香川県仏教会
(社)徳島県仏教会
愛媛県仏教会
高知県仏教会
福岡県仏教連合会
宮崎県仏教連合会
沖縄県仏教会
(社)全日本仏教婦人連盟
(財)仏教伝道協会
(財)日本仏教鑽仰会
(社)日本仏教保育協会
(財)国際仏教興隆協会
(財)仏教振興財団
東京ブディストクラブ
全日本仏教青年会
106 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:33
ttp://www.shinrankai.or.jp/
「今日の一日一訓」
26日
蒔かぬタネは生えぬ
刈りとらねばならぬ
一切のものは 自分の
まいたものばかり
107 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:38
(1)ネットワーク利用者の完全免許制。
これは、ネットから不必要に大きな影響を受ける者をあらかじめ識別し、
ネットの利用を引き金に、犯罪を起こさないようにするための措置である。
また、対人コミュニケーション能力についても検査され、
コピペを繰り返すだけで議論ができない人間を排除することが可能になる。
(2)各ネットワーク端末における、脳接続端子の搭載。
前項に従い免許を与えられた者には、脳に直接接続可能な端子を手術に
よって付けるものとし、それを鍵としてネット接続を行うものとする。
これはまた、年齢で人間を区分するものではなく、精神発達の
度合いによって、閲覧者の区分を行うことも可能にする。
以上のような措置を施すことは、奇妙な議論をネット上で展開する
困った人物に対して、極めて有効な措置となるだろう。
108 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:41
ボクの幸せを祈ってくで〜〜(*´Д`*)ハァハァ
たのんだョ
109 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 13:46
このスレにはsageを忘れずに、ご利用は計画的に。
110 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/26(木) 14:38
>100
>矛盾していない?
はて? どこかに矛盾がありますか?
>101
>そろそろ御前のオナニーも見飽きたな。
「御前のオナニー」と言われるのは心外ですが、「そろそろ見飽きた」というのはいいことかも知れませんね。何事も山あり谷ありが良い。平坦なのは砂漠ですからね。見飽きることもあれば、再び興味が呼び起こされてくるときもある。健全な証拠でしょうね。
>頑張ってはやくSEXできるようになれるといいな。
体のこと特に私のSEXのことまで深々とご親切にご心配くださる熱烈なファンの方がいてくださるとは、インターネットは広いですね。渡海 難も捨てたモンじゃないですね。
>いつも一人よがり自分勝手じゃねー。
堂々と自在に生きているように見えるというお褒めのお言葉として戴いておきましょう。尊いことです。一皮むけば、本当は、悩み不安ばかりなんですけどねー。
111 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/26(木) 14:40
「穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。」
ここでは、親鸞が教行信証で呼びかけている対象を特定し、その提案内容を読む必要がある。
教行信証で呼びかけている対象は、「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障(さわり)多き者」である。仏教的側面と社会側面という二つの面で親鸞は見ている。「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく」という部分は、仏教的に見た存在だろう。「悪重く障多き者」という部分は、社会的に見た存在だろう。
「穢を捨て浄を欣い」とは「教」を指す。「行に迷い信に惑い」で親鸞は、行と信とを提起している。このように考えると、「心昏く識寡なく」とは、教行信証の証と対比される概念だろう。悪重く障多き者とは、社会的に見た存在者という意味で、教行信証では化身土と対比される概念と考えていいはずである。
穢を捨て浄を欣う者とは誰か。これは浄土門の人だろう。穢を捨て浄を欣うとは、厭離穢土・欣求浄土という意味だ。浄土門の古くからのキャッチコピーである。教行信証は、厭離穢土・欣求浄土という教えに従って行こうとする浄土門の人々に向けてメッセージを送っている。具体的には、承元の法難で散り散りになった法然門下を念頭に置いたものだろう。
承元の法難で散り散りになった法然門下は今、どうなっているか。彼らは行に迷い信に惑(まど)っている。承元の法難で法然は四国に流されている。法然は数年で赦免になり都に戻る。戻っても自由な活動は許されず、まもなく他界する。偉大な師匠を失った法然門下は迷っていた。
穢を捨て浄を欣い、浄土門の教えを正しく学んで行こうと思っても、残された法然門下は、具体的に何をすればいいのか、行うべき事が分からず迷っている。正しい行為を行えば、自ずから真実が見えてくる。確信が得られてくる。何を行えばいいのかに迷えばどうなるか。少なくとも正しい確信は得られてこない。確信が得られなければ、早晩、お先真っ暗に突き当たる。経験しても経験が経験として蓄積されてこない。苦労を重ねても体得されて血肉となる苦労はごくわずかである。
経験しても経験が経験として蓄積されない者。苦労を重ねても苦労が体得されてこない者。悪いこと、失敗ばかり重ねる者。多くの失敗をくり返しくり返し重ね、そのたびに多くの障害を積み重ねていく者。そういう人がいればどうか聞いて欲しい。親鸞は残された法然門下にそんなことを呼びかけているのだ。
112 名前:
渡海 難
投稿日: 2000/10/26(木) 14:52
>104
>日本国民185人で1人の宗教家を養っているのだから、仏教だけに限って言えば、278人で1人の僧侶を養っていることになる。
日本の坊さんはほとんどが兼業ですよ。185人で1人とは大きすぎる数字ではありませんか。坊さんから矛盾を突かれるでしょう。
113 名前:
渡海 難
p109-dnb31karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/26(木) 15:21
お知らせ。
渡海 難を騙る「ナンチャッテ渡海 難」が横行して迷惑しています。
平成12年10月26日15時以降、渡海本人の書き込みは、できるだけ発信元を表示し、併せて自分のホームページにも登録します。
表示にあるocnは渡海 難がjustnetとともに標準として利用している接続会社です。
名前欄で発信元の異なる表示があれば、渡海 難本人の書き込みではないとお考えください。
114 名前:
名無しさん
@1周年
投稿日: 2000/10/26(木) 16:29
くだらん質問ですが、渡海さんの家では
御内仏は在るのですか?
115 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/27(金) 01:28
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116 名前:
渡海 難
p92-dnb20karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/27(金) 08:33
>114
小さいけどあるよー。
117 名前:
渡海 難
p006-dnb32karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/27(金) 18:16
「親鸞仏教の正当性を問う」は、多忙のため本日は休みます。皆様の御期待に感謝します。期待してくださってない方も、期待してくださっている方。期待してくださっている方も、期待してくださっている方。御同行、御同朋。
118 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/27(金) 20:48
氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね
119 名前:
名無しさん
@生き下手
投稿日: 2000/10/28(土) 09:50
ところで『親鸞仏教の正当性』とありますが、正当性の裏返しには
当然、 『親鸞仏教の不当性』があると渡海さんは、お考えですか?
親鸞聖人の悪人と善人の区分は具体的にどの様な点で区分されたので
しょうか?区分という表現は違っていると思いますが、人間の心次第
では、文字通りの善人・悪人に変化してしまうことと感じます。
そこで悪人と言う概念は、現在に於いて、一般的には法を犯してしまう
行為をする・法を犯さないでも、経済活動は人間の欲求です。時代毎に
変化し多様化し、親鸞聖人の時代背景と現代では違っています。
親鸞仏教の核は現代に於いて何を伝えているのでしょうか?そして
御同行、御同朋と書かれていますが、どのような意で、渡海さんは
この掲示板に、お書きになられているのでしょうか?
120 名前:
渡海 難
p93-dnb06karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/28(土) 21:21
「親鸞仏教の正当性を問う」は、多忙のため本日は休みます。皆様の御期待に感謝します。
121 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/28(土) 21:33
重要コピペです。よろしく。
468 名前: ジャイアン3 投稿日: 2000/10/28(土) 21:18
日本脱カルト研究会主催 初の公開講座!!
11月23日(木)1時より早稲田大学にて
詳細は以下に
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/
122 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/28(土) 21:47
ご利用は計画的に、このスレにはsageを忘れずに。
123 名前:
名無しさん@1周年
投稿日: 2000/10/28(土) 22:35
あげなんだって
124 名前:
渡海 難
p107-dnb31karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/29(日) 22:03
「親鸞仏教の正当性を問う」は、多忙のため本日は休みます。皆様の御期待に感謝します。
125 名前:
渡海 難
p49-dnb20karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/30(月) 18:37
119 さん(1)
>『親鸞仏教の不当性』があると渡海さんは、お考えですか?
はい。
>親鸞聖人の悪人と善人の区分は具体的にどの様な点で区分されたのでしょうか?
親鸞仏教の場合、分からないところは釈迦に戻って考えるのが原則です。釈迦の次元で考えると、大抵のことは分かります。
釈迦は、どういう人の為に祇園精舎をつくったと思いますか。常に正しいことことができる人。失敗無く生きていける人。みんなから尊敬を受け、何一つ不自由ない人。こういう人に向かって、そう言う恵まれた人の手助けをしたいと思って、祇園精舎を開いたと思いますか。
いろんなことで失敗ばかりしている人、努力しても努力しても報われ無い人、潜在的な素晴らしい能力を持っていながら、それが埋もれそうな人、そんな人に生きる知恵や勇気をもって貰おうとして開いたんじゃないでしょうか。
往生というのは、仏様の仲間に加わることをいいます。釈尊先生が、「おい、君も我々のところに来て一緒に頑張ってみないか」と誘っていただけるような人、それが悪人という概念の原点だと思います。
だから、自分のことに思い当たり「ああ、そうか。釈尊先生は自分みたいな人のためにさまざまな苦労をしてくださったんだ」とうなづけて来る人、それが悪人という意味でしょう。
126 名前:
渡海 難
p49-dnb20karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/30(月) 18:39
119 さん(2)
>親鸞仏教の核は現代に於いて何を伝えているのでしょうか?
分からない問題は、お釈迦様に戻りましょう。
お釈迦様は何を伝えているのでしょう。お釈迦様の原点は三五歳の時の悟りにあります。お釈迦様がそのとき悟られた内容は十二因縁の法理と言われています。お釈迦様の生涯の事業は、祇園精舎の建設と後進の指導でした。十二因縁の法理こそ、仏教が我々に伝えている中核だと思います。
十二因縁の法理は単語が十二個並びます。無明から生・老病・死へと続きます。人は人間のお面を被っていても、鬼の心で鬼の行動をとります。鬼の心で鬼の行動を取る者は鬼です。けだものの心でけだものの取る者はけだものです。人はしばしば天才的な仕業を行って有頂天になったかと思ったら、奈落の底に突き落ちることもあります。そのたびに、鬼は有頂天に変わり、次の瞬間にはケダモノと化します。そのたびに、今までと全く違った意思をもって、全く違った行動を起こします。意思と行動が変われば人格が変わります。古い人生が終わり、新たな人生が始まります。新たな人生も、やがて壁に突き当たり、疲弊し、老い、そして挫折します。そのたびに人は、自らの愚かさに悔います。愚かさに悔いながら、愚かさを引きずって再び間違った選択をし、新たな人生が始めます。愚かさを引きずった間違った選択は、やがてまた挫折します。
オレは馬鹿だった。馬鹿だった。人は疲弊し、挫折したとき、自らの失敗は人生の選択の時に既にあったことに気が付きます。新たな人生を選択し(生)、疲弊し(老病)、挫折する(死)。こうした迷いの起きる原因はどこにあるのか。まさに、自らの愚かさにあった。無知にあった(無明)。お釈迦様は、長い苦行の後でそのことに気付かれたのでしょう。
自分は馬鹿だった。自分は愚かだった。これは大変なことだ。しかし自分は、紛れもない真実を知った。自分が愚かだったということを知った。自分が愚かだったという真実を知った。釈尊先生はそう気付かれたのでしょう。
127 名前:
渡海 難
p49-dnb20karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/30(月) 18:40
119 さん(3)
自分は愚かだったということ。これを裏返せば、実に全ての物がさまざまに真実を教えようしてくれているという認識に広がります。絵画を極めていこうとすれば、画家はやがて自らの未熟さに気が付く。科学者は、自然界の事物を見極めようとしていけば、やがて自らの無知に気が付く。実に、一切の事物が、私達に真実を教えようとしてくれています。釈尊先生はその認識を、より多くの人々と共通の財産とし、少しでも迷いのない世界を作ろうと決意されます。自らの愚かさの認識を、共感的に共有享受しようと思われたのでしょう。祇園精舎をつくり、後進の指導に向かいだしたのは、その事を物語っていると思います。
自らの愚さに気付こう。これは全仏教の共通の基盤です。親鸞は、歎異抄で地獄一定の者と自らを規定し、教行信証では「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」と語ります。最澄は「底下の凡夫、塵禿の最澄」と叫びます。日蓮は自らを「旃陀羅の子」と規定します。我が身の愚かさを突き詰めいくところに仏教は発生し、我が身の愚かさを突き詰めた人がそのたびに大きな革命を起こしてきました。ヨーロッパの知恵、ソクラテスの「無知の知」と通じる確信だと私は思っています。ヨーロッパの学校教育も、ソクラテスから「無知の知」を学んだプラトンのアカデミヤに始まります。アジヤの学校教育も、自らの無明に気が付いた釈迦が原点となります。
自らの愚かさに気付かされた者は、互いに真実を学び合おうと誓い合います。親鸞は、教行信証冒頭で、「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」と言います。末尾では「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」、と言います。
実に一切の者がさまざまに真実を教えてくれています。釈尊先生の学習会の原点は、先生を「先生」と呼ぶことに始まりました。教えてくれているもの、一つでも二つでも、「先生、ああ先生」と念じていこう(行)。浄土教はここに始まります。「先生、ああ先生」と真剣に念じたところで何か見えてくれば、あるいは感じられてくれば、見えてきたもの感じられてきたものを自分の中で暖めて行こう。大事にしてみよう(信)。浄土教はこのようにして始まり、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪い、連続無窮に伝わってきました。
親鸞仏教はその大きな流れの中に位置していると考えるべきでしょう。
128 名前:
渡海 難
p49-dnb20karaga.tokyo.ocn.ne.jp
投稿日: 2000/10/30(月) 18:41
119 さん(4)
>御同行、御同朋と書かれていますが、どのような意で、渡海さんはこの掲示板に、お書きになられているのでしょうか?
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」
僕が非常に大事だと思っている言葉です。
2CHに僕を向かわせている遠因は、オウム事件があります。あれはショックでした。女房と娘三人を抱えながら僕は当時、国家試験の受験勉強をしていました。麻原某に騙されてオウム事件を引き起こした人々は、十代後半から、二十代、三十代の人でした。自分としては、昔、大谷派のお寺、教会に必死になって通っていたころの年代です。当時、僕も一生懸命でした。結果的にはケンカ別れのような形で最後を迎えていますが、自分もいつしか、僕が教わっていたころの坊さんの年になってしまっていました。
何か自分は大変な間違いを起こしているんじゃないか。僕はそんな風に思い出しました。十代後半から、二十代の人に向かってちゃんとした仏教を伝えていくのは、今の自分たちの名誉ある大きな責任じゃないか。こんなことを思い出したわけです。僕らがきちんとした仏教を伝えて行かないと、やがて大変なことになる。オウム事件は、まさに僕らが犯したんじゃないか。オウム事件では、自分が責められているような気分になりました。
親鸞仏教に惹かれるならば、それなりにやはり社会的な責任を果たしていかなければいけない。国家試験に区切りを付けると、他人に勧められて僕はインターネットを覗き始めました。僕はビックリしました。「死んだら地獄なんですか、極楽なんですか」。こんな書き込みがハトの会の掲示板に見つけた時です。親鸞という名をつかってとんでもない不安を若者に煽っている新興宗教がある。僕は仰天したわけです。親鸞会は何を教えているんだろう。そう思って「白道燃ゆ」という本を取り寄せました。そして二度ビックリ。
かつて自分が仏教を教わっていた年代の人々に、確実に親鸞の考えを伝えていくのは僕らの世代にしかできない僕らの世代の名誉ある仕事だと思います。僕は坊さんじゃありません。それでも、僕は親鸞に仏教を学ぶ者です。坊さんたちが、我流の教義を吹聴し、挙げ