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中華民国期の軍閥を語ろう!
1 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:06
民国期の軍閥について、思いのままに語りましょう。
ちなみに私は、
雲南省を18年に渡って支配した彜族(イ族)の軍閥、
竜雲について色々調べてます。
2 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:26
軍閥戦争ってややこしい。
1920年〜24年ごろの情勢。
安徽派・段祺瑞は日本のバックアップを受けて
直隷派・呉佩孚は英米の支持を受けてた、と。
んで直隷派は奉天派・張作霖と連携し、安徽派を打倒。
しかし、奉天派も日本の支援を受けており、
今度は安徽派と連携し、広東軍政府(孫文)と協力し、
直隷派と対決し、敗北。
直隷派が北京政権を掌握するも民衆の支持を得られず、
再び安徽派・奉天派と対決し敗れる。
ほら、もうすでにその勢力争いがわけわからん。
3 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:32
張勲萌え
皇恩浩蕩なり。 大清を中興し、以て臣節を尽くさん!
4 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:41
蔡鍔もえ〜
5 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:41
>>2
なんか応仁の乱後の、
足利将軍家・細川管領家・三好一門の混戦をホーフツとさせますね。
何度読んでもよくわからんというか。
「結局、信長(蒋介石or毛沢東)に飲み込まれるんだから、ま・いいか」ということになってしまう。
そういうことで、このスレには期待です。
6 名前:
1
投稿日: 01/10/27 00:43
>>2
確かにややこしいですよね。私も未だにわけわからん(w
私の場合は、個別の軍閥の支配の有様に興味を持っています。
何故、ある軍閥はその地域を支配できたのか、存在意義は有ったのか、
支配に正統性はあったのか・・・などを考えるようにしてます。
そうすると、「軍閥=悪」という固定観念からは、多少は抜けられる
と思いますが。
関係ないことばかり、失礼。
7 名前:
1
投稿日: 01/10/27 00:47
>>5
>そういうことで、このスレには期待です。
そう言って頂けると嬉しいです。ありがとうございます。
この分野に興味を持っている人間としては、本当に色んな人にこのスレを
見て頂きたいし、そして書き込んで頂きたいです。
8 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/10/27 00:52
今の中華民国史研究は「軍閥」概念の再検討って進んでいないの?
最後の大軍閥、蒋介石の国民党政府という考え方や、
また当時の中国が日本を「昭和軍閥の台頭」(大公報他)と形容して
いたように、とうに実態を失っているような気がするんだけれど。
軍閥という場合、中国共産党による「軍閥割拠の終焉」という
テーゼが背後にあるようで、いまいち好きになれないんだが。
また中華民国の連続的把握を志す上で、今的意味があるのかな?
ご意見望む
9 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 00:54
「支配の正統性」という点でいうと、軍閥割拠の分裂国家状態とはいえ、
それぞれの権力は「中華民国」という主権国家に属しているという建前によって
担保されていたという説がありますがどうでしょう?
10 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/10/27 01:06
それは非常に説得力があるのではないかな?
張勲の企ての敗北、袁世凱帝政の挫折…。
これらは民国という概念の持つ大きさと、
民国という器の中での争いという側面を持っていることが窺える。
また分裂状態とはいえ、関税会議を北京で開催して、
全国から代表があつまっているし、五四運動も全国レベルの運動。
これまた中華民国という枠組を前提としないかぎり考えられない。
建前だけじゃなく実質もあった気がする
11 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 01:23
時代の転換期に軍閥が台頭するのは中国の伝統。
三国時代も中華民国時代もそんなに違わないと思うんだけど。
12 名前:
1
投稿日: 01/10/27 01:39
>>8
実際、日本ではそれほど再検討されてないと思いますが。
当時の中国では、私兵的な軍隊を養いながら、同郷出身者や士官学校
同窓生の人脈を使って利権集団を形成し、一定の地域を支配する軍人たち
が、非難の意を込めて「軍閥」と呼ばれたようです。
中国共産党の言う「軍閥」観は、極端に言えば民族主義(ナショナリズ
ム)を重視するもので、当時の帝国主義諸国との結びつきが強かった蒋介石
の勢力は、最大の「軍閥」だったと言えます。
外国の「軍閥」研究者の中には、「軍閥(warload)」のネガティブ
イメージを嫌い、“local faction(地方派閥、とでも訳すべき?)”
などの語を使う人もいます。
私には「軍閥」の定義をする能力も資格も無いのですが、私自身は
「一定の軍事力に主に依存して一定地域を支配する集団、ないしはその
指導者」を暫定的に「軍閥」とみなしています。その場合、「軍閥」という
用語が問題になるし、もっと適切な用語を当てたいのですが、今は思いつか
ないので、一般に知られた用語として今は使い続けます。
>>9
ほとんどの軍閥は、自分たちが「中華民国」から独立した「国家」を打ち立てる
意思は無かったですね。各軍閥は自分たちこそが「中華民国」の理念の守護者
存在であると主張し(程度の差はあり、また張勳のような例外もいますが)、
他の勢力はそれを妨害するものとして、これを攻撃してました。
私から見れば、
>>10
さん同様、その説は比較的支持できると思います。
「中華民国」の看板は決して半端なものでは無かったはずです。
以上、拙いレスで申し訳ありませんでした。
13 名前:
1
投稿日: 01/10/27 01:48
すみません、
>>12
の訂正です。
1:
>>8
さんへのレス・8行目 × warload→○ warlord
2:
>>9
さんへのレス・3行目 「存在」を消してください。
英語力の無さを露呈してしまいました。ハァ・・・。
14 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 01:54
>>11
歴史シミュレーションゲーム「中華民国演義」
・・・なんてのがあったらええのう(w
15 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 02:04
いいね。
プレイヤーは北洋軍閥・地方軍閥・国民党からいずれかを選択できる。
共産党はアイテム扱い(藁
16 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/10/27 02:09
>1
なるほど、そうでしたか。やはりこれからという所なんでしょうか…
>14.15
一応民国経済史研究専門なので突っ込むけど、
それ全然無理だよ。
国民党・共産党でどうプレーするの?
広東だって陳政権(軍閥)なんだよ?
北伐が一つの奇跡であることを理解して欲しいんだが。
17 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 02:13
しばしば東方異民族「大日本帝国」や北方異民族「露帝→ソ連」が侵攻してくる(w
・・・ちと脱線してスマソ(^^;
18 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 02:22
質問!
国民党一全大会のころの国民党の勢力(一般的な意味でご理解ください)は
他の軍閥にとって脅威となってたんですか?
19 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 02:39
>>1
1さんに質問があります。私は中国の少数民族史に興味を持っている者ですが、
竜雲とはどのような人物なのでしょうか。明清代に設置された土司の系譜をひく人物なのでしょうか。
教えてくださいませ。
20 名前:
1
投稿日: 01/10/27 02:43
>>18
国民党一全大会というと、1924年1月ですね。孫中山(孫文)の個人的
カリスマが軍閥から怖れられていたとしても、国民党そのものは弱体な勢
力と見なされていたと思います。
国民党が強力な勢力として台頭する分水嶺は、私個人では同年6月の
黄埔軍官学校開校だと考えています。これによって、国民党はやっと自前の
強力な軍隊を持つことが出来たのです。
それまでは、孫中山は、南方軍閥を利用して北洋政府(北方派)を倒す
思考にとらわれてました。しかし、彼らはほとんど孫中山の言いなりにならず、
孫は何度もの失敗の果てに、ようやく自前の軍隊の必要性を悟ったのです。
半端な知識に基づく回答でスミマセン。
21 名前:
1
投稿日: 01/10/27 03:27
>>20
竜雲自身は土司の家柄というわけでは無いようです。ただ、彼はイ族
のエリート階級であり、その部族は唐代に「烏蛮」、元代に「羅羅」と
いう名で記録に残っています。
さてその竜雲は、1913〜27年まで雲南を支配していた軍閥唐継堯の部
下で、唐と自分の同僚を倒して1928年に雲南省の支配者となりました。
政治的には蒋介石を支持し、国民政府の支配を受け入れましたが、
竜雲の雲南支配は極めて自立性の高いもので、蒋の指令はほとんど及ば
なかったのです。抗日戦争の際の竜雲は、中国共産党や各民主党派と独
自で連携する動きまで見せたほどでした。
その半独立的状態は、1945年10月、抗日戦後のドサクサを利用した
蒋介石が、竜雲を武力で雲南の支配者から引き摺り下ろすまで続いて
います。
本当はまだ語り尽くせないことがあるのですが、
今はここまででご勘弁ください。
竜雲だけを語るスレではありませんので。
22 名前:
1
投稿日: 01/10/27 03:29
↑すみません、
>>19
の間違いでした。
自分に答えてどうする・・・?
23 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 03:42
∩,,∩ ∩ 我々は中国の危急存亡を救わねばならない!!
ミ,,゚パ彡ノ 立てよ、国民革命軍!
/ |
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 黄埔軍官学校 |
| マンセー!|
| |
\ジーク ソンブン!ジーク ソンダン!/\ジーク ソンブン!ジーク ソンブン!/\ジークソンブン!
(⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) /
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24 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 04:03
軍閥は産業振興やインフラ整備などをどのように行っていたのでしょうか。
張作霖が満鉄に対抗した鉄道を敷設したり、盛世才がソビエトと組んで新疆開発を行ったという話は聞いたことがあるのですが、雲南、四川、貴州等の南方の軍閥はそのようなことをやっていたのでしょうか?
25 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 04:42
雲南というと蒋介石ルートを思いだすなぁ。ってことは、蒋介石の命運に関わる
ところが、かなり独自の行動をしていたわけかぁ。日本による切り崩しはおそら
くあっただろうけど、効果がなかったのかな?
26 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 08:11
>>14
それ企画したことがあります。友人達(某コンピューターシミュレーション製作
会社の元社員)と、アニア向けシミュレーションゲームを作ろう(現在も話し込
んでます)と幾つか題材を上げた時、中国軍閥のゲームは下手な信長や三国志よ
り面白いのでは?となりました。プレイヤーは米英仏蘭ソ日でどう中国及び周辺
地域を安定化させるか?です。勝利条件は2年間睨み合いが続いた段階(所謂千日手状態)
での重要拠点の制圧数で決まるというゲーム。ところが、問題がある事が判明…
政治的問題に発展しかねないという事であと10年は発売不能と判断されました。
27 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 08:59
汪兆銘の重慶脱出のときに便宜図ったね。竜雲。昆明からハノイに送り出した。
汪さんは味方になってくれって言ったんだけど、断わったんだって。
28 名前:
1
投稿日: 01/10/27 10:31
>>24
竜雲、あるいはその上司だった唐継堯は、フランス資本との結びつき
が強かったです。当時のフランス領インドシナだったベトナムと、テン越鉄道
(テンはサンズイ+眞。昆明〜ハノイ〜ハイフォン)でつながってましたから。
ただ竜雲は、自分の部下に有能な経済官僚を多く登用し、フランス資本や
国民政府中央の財閥に対抗して、独自の産業・金融政策を展開しました。
ちなみに、竜雲部下の経済官僚の中でも特に出色な人物は、繆嘉銘(繆雲台)
という人です。この人は、元々鉱山技術者だったのですが、それのみならず、
他の産業や金融全般にも詳しく、優れた能力を発揮して竜雲の経済政策を助けました。
まあ、これ以上の詳しい話は今後のネタということで・・・。
29 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/10/27 12:40
私も軍閥に興味をもっています。
現在の中国の地方でいろいろ仕事をしてる人と
はなしていたら、中国の地方は現在でも独立国のような
ものらしい。現在の人民解放軍も地方で独立してるような
もので、人事なども中央の支配は及ばないらしい。
地方自治でしょうか・
30 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/10/27 14:32
四川軍閥は、何派にも分かれていて、苛列な雑税を貸す事で有名だった。
何十年分の税金の前払い制度とか。一応1934年に国民党によって統一化されるけど、
長征が四川をとおったのは、分裂状態にあったため。
(今井先生の研究で前払い制度については、別の意味があったことが明らかになったけど)
軍事費調達のため、四川の銀を上海に持ち出し銅貨の悪鋳を繰り返し、
四川は無茶苦茶な雑幣流通状態だった。
まず無理なんじゃないかな?産業振興は
31 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 17:47
>>30
1935年に蒋介石・宋美齢が昆明を視察した時、リップサービスがあるにしても、
「雲南の一致団結ぶりは、四川と比べ物にならない」と言ってましたしね。
>>24
にも絡めて言うと、四川、貴州の軍閥は内部抗争が激しすぎて、少なくとも
省単位ではほとんど産業振興などの近代化政策が出来なかったですね(貴州は周西
成の統治期という例外がありますが)。国民政府中央の勢力が浸透したことによっ
て、ようやくそれが可能になったと言えます。
ただ、雲南だけは、竜雲が安定した政権を確立したため、土着軍閥による近代化
政策の推進が可能になりました。しかも、それが概ね成功したため、竜雲は雲南支
配の正統性を確保できたし、中央につけいる口実を与えなかったとも言えます。
32 名前:
1
投稿日: 01/10/27 22:58
>>29
「地方自治」と表現するのは無理がありますね。
制度上で、団体自治と住民自治が認められていないと。
あと、
>>31
は私の書き込みです。
33 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/10/27 23:24
1.日本の戦国武将は何故か地方の管理者で満足しないで
を統一したがる。中国の軍閥も同じ習性があるので
しょうか・
2.その習性がないとして(地方の支配者で満足)、新しい
上海や広州の産業資本は全国統一を希望して国民党を
支持した。だから国民党は北伐すると考えてみました。
34 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/27 23:46
所詮共産党も軍閥なんだよな。
大陸取った後も内部の軍閥同士で熾烈な闘争を続けた・・・
いまもか。
35 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 00:13
>>33
並みの軍閥だったら「地方の支配者」で満足。
孫文・袁世凱・蒋介石・毛沢東といった“英雄”は「天下統一」しなきゃ満足しない。
ある意味「地方分権」vs「中央集権」と言えなくもない?
36 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 00:15
「大一統」ってヤツですか。
37 名前:
24
投稿日: 01/10/28 00:28
詳しいレス有り難うございます。何か竜雲という人物に興味が涌いてきました。
>フランス資本や国民政府中央の財閥に対抗して、独自の産業・金融政策を展開しました。
これは買弁資本や外国資本に対抗して民族資本を育成した、と理解してよろしいのでしょうか?中国での評価はどうなのでしょう?
38 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 00:42
地方軍閥が自分の支配の正当性を得るため唱えた「連省自治論」ってヤツもある。
39 名前:
1
投稿日: 01/10/28 00:45
>>37
基本的にはそう理解して良いと思います。
繆嘉銘の有能ぶりは、雲南省が独自にフランスから関税自主権を奪回したことや、
国民政府の法幣を雲南省で全く通用させなかったことからも明らかです。
また、彼の功績として更に特筆すべきことは、アヘン依存の雲南省財政を改革した
ことです。繆嘉銘は、雲南省産の錫を国際的に通用する品質とし、財政の要の一つと
しました。
この時期の雲南省の産業政策については、まだ全国的な関心は低いようです。
でも雲南省の学識者のほとんどは、繆嘉銘の活動にかなり高い評価を与えています。
40 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 00:46
あまり詳しく答えると1の研究ネタがなくなりそうでちょっと心配になる。
41 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 00:56
張作霖&張学良もえー!
42 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:03
地方の郷紳で、軍閥政治を体系的に論じたり考察した人物はいなかったのかな?
43 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:04
楊増新もえ
44 名前:
1
投稿日: 01/10/28 01:06
>>41
張学良氏、亡くなりましたよね。
今後、西安事変の真相なども徐々に明らかになっていくでしょうが・・・。
もちろん、奉天派に関する書き込みも期待しています。
>>40
ご心配をかけて申し訳ありません。
今後も竜雲ネタの質問は受け付けますが、もう少し簡略化した回答
にするよう心がけます。
ここが竜雲スレじゃないこと、自分が忘れてる感じで・・・失礼
しました。
45 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:11
たしかに中華民国史は燃えるものがある。
登場人物多いし、戦乱の時代だし。まさに大河ドラマ。
46 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:18
>>41
今後、張学良に関する資料・研究・出版が増えることに期待。
↓張学良スレ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/992495223/l50
47 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:21
西安事変の後、東北軍はどうなったの?
48 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:22
解散。
49 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:32
>>44
僕は1さんの竜雲ネタ、興味深く読ませてもらっています。
これからもご研究に差し支えない範囲でカキコしてくだされば嬉しいです。
50 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:48
宋家の三姉妹もえ〜 ……あ、軍閥じゃなかったYO
51 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/28 01:49
軍閥の地方支配の実態の研究ってどの程度進んでいるのですか?
中国での研究がかなり進んでいるような。
私はチベット族土司の活動について調べていますが現地の研究をフォローするのが大変です。
52 名前:
1
投稿日: 01/10/28 14:30
>>47
>>48
の方の言う通りです。蒋介石は東北軍を分散させて全国に配置し、
しかも各軍が抗日戦の前線で疲弊しても、まったく人員を補充せず、自然
消滅させました。
>>49
ありがとうございます。
これからも拙いカキコだと思いますが、宜しくお願いします。
>>51
日本では奉天派の研究が特に盛んですね。
大陸では、他に北洋軍閥や李宗仁、閻錫山、馮玉祥などの著作が多く、
竜雲や韓復、盛世才などの軍閥も各地方の学識者が良く調べています。
他の外国では、面白いところでは西北の馬氏(回族)の研究もあります。
チベット土司ですか。確かに現地の文献の収集も大変そうですね?
(チベットで軍閥絡みだと、
劉文輝(四川軍閥)による西康省建設問題がありますが。)
いずれにしても、難しいテーマに挑むのは素晴らしいことですよ。
頑張ってください!
53 名前:
あやめ
投稿日: 01/10/28 16:36
清末の廣東提督で民國になってからは袁世凱や段祺瑞の子分となり、廣東
都督や廣東巡閲使などに任じられ、海南島に蟠居していた龍濟光と、袁の
雲南査辧使であった龍覲光の兄弟は蒙自の出身で彝族の土司の一族だそう
です。龍雲の異父兄で蒋介石に雲南省主席に任ぜられて中共に寝返った
盧漢も昭通の彝族です。
四川・雲南・貴州の龍氏は漢のソウカ(爿偏に羊・可)郡の大姓の後裔だそうで、
そこまで遡れるかどうか疑わしいですが、元代ぐらいからは確実に辿れる
そうです。明の教化三部長官司の龍上登・石屏土官の龍在田や清の水典土司
龍幺妹などが知られています。
こうした少数民族の有力者と軍閥の関係は確かに考察に値するテーマかも
しれませんね。
54 名前:
1
投稿日: 01/10/28 18:29
>>53
詳しい説明ありがとうございます。
竜雲は、雲南省昭通出身で、小涼山彝族の一支系ということは
知っていたのですが、そこまで詳しくは知りませんでした。
あと、盧漢は竜雲の“族弟”に当たるようです。
盧漢の祖父の姉妹(どちらかは分かりませんが)と竜雲の母方の祖母が、
同一人物らしいのです。
いずれにしても、竜雲と盧漢は昭通の彝族名家同士のつながりがあります。
盧漢については、僕は論文でテーマにしたことがあります。
この人は、雲南の近代化政策に理解がある軍人でした。
すでに取り上げた繆嘉銘も彼無くしては表舞台に出れなかったし、
雲南軍の改革についても、盧漢は優れた指導力を発揮しています。
国共内戦時、国民党側の雲南軍は、
「蒋介石は関係ない。ただ盧主席(盧漢)のためになら死ねる」
と言っていた程です。
55 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/29 08:06
おはようございます。
あやめさんがおっしゃった少数民族の有力者と軍閥の関係にからめた質問ですが、軍閥は少数民族地区の開発をどのように行っていたのでしょうか。
清朝の改土帰流政策には、農地開墾や鉱山の採掘等の少数民族地区の開発がからんでくる場合が多いのですが、そういう政策を軍閥が受け継いでいるのかどうか気になりまして。
56 名前:
1
投稿日: 01/10/29 19:27
>>55
開発の実態については、僕はまだまだ研究不足です。ただ、少数民族の社会や制
度に過剰な介入を行い、一方的収奪とも言える開発を行うのは、軍閥にとって危険
だったと言えます。
雲南では、竜雲・盧漢は土司制度と国民政府の制度とを並存させ、少数民族には
融和的な政策をとっています。新疆の盛世才も当初は、ウイグル族の社会制度を尊
重していましたが、末期になって彼らへの統制を強めようとした結果、叛乱を引き
起こし、政権崩壊の一因となっています。
個別にもう少し調べないと分かりませんが、おそらく、一般的な傾向としては、
軍閥は少数民族との融和政策をとらざるを得なかったのではないか、と考えてい
ます。融和政策を捨てた軍閥は、政権の不安定をもたらしたわけです。
答えになっているかどうか、わかりませんが・・・。失礼しました。
57 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/29 20:59
中国の軍区・軍閥についてのおもしろい記事を見つけたよ。
http://plaza12.mbn.or.jp/~SatoshiSasaki/dragon/note.html
58 名前:
55
投稿日: 01/10/29 23:58
>>56
なるほど、わかりました。何だか突飛な質問をしたみたいで・・・・こちらこそ失礼しました。
59 名前:
1
投稿日: 01/10/30 22:41
うーん、やっぱり竜雲スレになってるような・・・。
たとえば、新疆の軍閥(盛世才、楊増新など)について詳しく研究されている方はおられませんか?
今この時期だからというわけではありませんが、
民国の対イスラム政策はかなり研究しがいがあると思うのですが・・・。
60 名前:
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋
投稿日: 01/10/30 22:52
会党(とくに黒幇)と軍閥との関係は一般にはどーだったの
でしょうか?軍閥も阿片業者であり賭博場経営者だった
場合が多かったそうですが。
61 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/30 23:22
>>59
神戸大学の王柯氏が多少書かれていたと思います。
ちょっと物置を探ってみよう。
62 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/30 23:47
王柯「二重の中国 1930年代中国人の辺彊意識の構造」思想95年7月号
というのがありました。
当時の新疆について
「楊増新から金樹仁へ、金樹仁から盛世才へと続く新疆の政権交代について
中央政府からの積極的干渉はほとんど行われず」新疆は政治的独立状態にあった。
このような状態になった理由は
・民国になって清朝時代の新疆への補助金がとだえ、独自の財政再編をおこなったこと
・対ソ貿易によっその生産システムに組み込まれていたこと
・新疆と内地を結ぶ交通ルートの未整備
・ウイグル人の中国に対する国家意識の希薄さ
などがあげられる。
中華民国は新疆を戦略的価値から、また伝統的天下観から
辺境の危機を感じ、新疆を中国に統合するため、強権を発動するようになった。
という感じの論文で、軍閥そのものの研究ではないですね。
63 名前:
1
投稿日: 01/10/31 00:19
>>60
僕が
>>39
でも書き込みましたように、雲南軍閥は鴉片依存体質でしたし、
西南部や西北部の軍閥(広西、四川、貴州、西康、青海、寧夏など)も概ね
そうであったと言って良いでしょう。竜雲や盧漢も、鴉片を常習的に吸引し
ていたそうです。
軍閥は表向きは鴉片の栽培を禁じていたのですが、裏で民衆に栽培を強制
したり、他の地方へ輸送・販売したりしていました。そして、軍閥がそれら
の仕事をを代行してくれる闇社会の組織と手を結ぶであろうことは、容易に
想像できることです。
>>61-62
詳しい情報をありがとうございます。
王柯氏については、僕は今『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会)を
読んでいるところです。この本では盛世才の政策についても、1章を設けて詳しく
論じています。
いずれにしても、新疆という異質な地域を、民国は容易には統治し得なかったと
いうことなのでしょうね・・・。
64 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/10/31 10:04
初心者です。
奉天系軍閥についてのおすすめの入門書があったら教えて
ください。湯玉麟について知りたいのです。
65 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/31 15:41
中国共産党の元勲の一人である朱徳は自分のことを
軍閥の一人として認識していたようだ。彼の伝記を読むとそんな記述が出てくる。
ちょっと面白いなと思った。
66 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/10/31 15:59
>>64
奉天派関係で日本語文献は張氏親子くらいしかないかも。
ローカルな政治家の文献は中国の該当地方にいかねば
手に入らない場合が多々あります。
67 名前:
あやめ
投稿日: 01/10/31 16:19
湯玉麟は日本では関東軍の熱河討伐で知られています。
入門書は差当り思いつきませんが、一通りの経歴だけ書いときます。
湯玉麟は字は閣臣といい光緒十九年に熱河の朝陽縣で生れました。元来は匪賊出身と
いうことですが後に張作霖の部下になり、奉天巡防営隊官・陸軍第二十七師営長・同
團長・同旅長と出世して行き、両次の奉直戦に参加しています。民國十一年に奉軍の
第十一混成旅の旅長に任じられ、それより第七混成旅旅長兼奉天東邊鎮守使・東北陸
軍第十一師師長を歴任し、民國十五年には東北陸軍第十二軍軍長・熱河都統となり、
張學良の「易幟」後は熱河省主席に任ぜられています。関東軍は満洲事変の勃発直後
彼に対する工作を開始し協力の約束を取り付けていましたが、民國二十二年には熱河
省長の地位を餌に張學良や國民政府からの離反を呼びかけますが、彼はこれを拒絶し
関東軍は熱河へ進撃します。彼は直系の第三十六師の約1万3千人と雑軍約8千人を
擁しており、親分の張學良からも殊死奮戦を命じられていたにも拘わらず、たいした
抵抗も示さず家族と天津租界に逃亡し民國三十九年に亡くなっています。
68 名前:
1
投稿日: 01/10/31 19:31
>>64
湯玉麟を専門に書いた書籍は、日本ではおそらく無いですね。
日本における奉天派の基本書としては、以下の2冊が挙げられます。
・水野明『東北軍閥政権の研究』(国書刊行会、1994年)
・西村成雄『張学良』(岩波書店、1996年)
>>65
朱徳は雲南陸軍講武堂の卒業生で、蔡鍔の側近として雲南の辛亥革命や護国戦争に参加。
その後、雲南軍閥唐継堯の部下になりましたが、後に唐に対するクーデターに与して敗北、
雲南から逃走しました。
僕は以前訪れたことがあるのですが、昆明には朱徳の旧居が残っています。
ちなみに、この時期の朱徳は重度のアヘン中毒だったそうです。
69 名前:
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋
投稿日: 01/10/31 20:17
>63
ありがとうございます。
70 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/01 00:28
湯玉麟についてのレスありがとうございました。
瀋陽(奉天)に立派な建物の遼寧省博物館がありますが
湯玉麟の官邸あとだそうです。張学良の部下時代のもの
でしょうか。
満州事変から満州国建国のあいだに軍閥が建国会議という
のをやってるのですが、これが日本の御用機関なのか、反日
組織なのか解りません。
だそうです。
71 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/01 12:07
東北抗日義勇軍についてまとまった論文なり学術書はあるのでしょうか?
72 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/01 16:38
満州事変に関する書籍で多少触れられる程度かと。
西村成雄『中国近代東北地域史研究』法律文化社、1984年
第四章とか。
後であやめさんから説明があるでしょうが(笑)、
抗日義勇軍が東北軍系であれ、緑林であれ、その働きは限定的なものでしょう。
73 名前:
1
投稿日: 01/11/01 23:44
>>71
僕は東北抗日義勇軍についてそれほど詳しくないのですが、
・岩崎富久男「中国東北における抗日救亡運動」
(明治大学人文科学研究所紀要、46巻、2000年3月)
が、最新の論文のようです。
この他だと、金日成を主題にしているので適切ではないと思いますが、
・和田春樹『金日成と満州抗日戦争』(平凡社)
もあります。
あと、文献とは言えないのですが、澤地久枝氏の『もうひとつの満州』(文春文庫)
の中では、東北抗日義勇軍の有力指導者である楊靖宇が描かれているそうです。
以上、役に立たないレスですみません。
74 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/02 00:09
>東北抗日義勇軍の有力指導者である楊靖宇
東北人民革命軍(のちに東北抗日聯軍)では?
義勇軍というのは旧東北軍・緑林グループのことじゃないですか。
75 名前:
1
投稿日: 01/11/02 00:25
>>74
すみません。東北の抗日組織については無知だったもので。
東北抗日聯軍は東北抗日義勇軍の発展形態と思い込んでました。
となると、和田春樹氏の書籍も、東北抗日聯軍を書いたもののようですね・・・。
失礼しました。
76 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/02 01:06
発展形態というより、反日統一戦線によって中共指導下に再編されたという感じです。
満州事変後の東北軍・緑林系の抗日活動は
財政的・軍事的・社会的な基盤を欠いており、1933年には役割を終えたと言われます。
以降、共産党が各義勇軍と連絡をとりつつ、独自の武装組織を成立させます。
1月書簡とよばれる中共中央の指示が伝達される33年半ば以降、
これらの武装勢力を共産党指導下に結集させ、満州事変から2年後
東北人民革命軍大一軍独立師が成立します。
77 名前:
71
投稿日: 01/11/02 01:08
>>72-75
レスありがとうございます。あまり研究書は多くないようですね。
限定された役割しか果たしていないのなら仕方ないか・・・・
78 名前:
1
投稿日: 01/11/02 01:38
>>76
詳しい説明、ありがとうございます。自分の無知ぶりが本当に恥ずか
しいです・・・。
ただ、東北軍系・緑林系の抗日義勇軍の役割が全く限定的だったとは、言
い切れないかもしれません(生意気なこと言ってすみませんが)。あれから
僕自身でもう少し調べてみましたが、東北軍系の抗日活動としては、黒龍江
軍閥馬占山の活動が中々面白そうです。
馬占山は、満州事変勃発後から抗日活動を開始し、1932年に一時満州国に
降伏して黒龍江省長や軍政部長を歴任しましたが、1934年に再び国民政府側
への復帰(反正)を通電して、抗日の軍事行動を再開しました。馬占山の勢
力は弱く、日本軍相手に敗退を重ねましたが、それでも頑強に抗日戦を戦い
抜き、国共双方から賞賛を受けています。そして、国共合作を成立させた際
の馬占山の政治的活動も、大きなものがあったようです。
79 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/02 02:01
そうですね。
東北軍系の抵抗は正規戦という形をとったため、
軍需補給のメドがたたず、優勢な日本軍の前に敗北していきますが、
以降は小部隊がゲリラ的抵抗を続けていきます。
ここに後に民族統一戦線が発展する社会基盤が見出せると思います。
僕のいう「限定的」はあくまで(準)公式レベルの軍事的抵抗において、とご理解ください。
馬占山は1933年5月にヴェネチアで張学良に会見し、
張学良は彼の行動をたたえたそうです。
80 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/02 02:06
東北抗日義勇軍は馬賊の小日向白朗しか思い浮かばないのですが・・・
番町書房で出版された彼の伝記には、義勇軍のバックには道教教団が存在したことが書かれていました。
軍閥とは関係ないですが、当時の道教系の秘密結社と民間の武装勢力の関係も面白そうですね
81 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/02 03:08
質問した本人がなにを質問してるのかよく解っていないのですが、
満州国をつくる時に日本は満州人が作ったようにみせたかった。
そのために、満州人の会議として、き洽、張景恵、馬占山、臧式毅
の4人で建国会議、次いで湯玉麟、斉王、凌陞の3人を追加して
東北行政委員会を作った。いろいろ議論させて結局は本庄司令官
の意見で執政政治となったらしい。自治をさせるふりをしたのか?
不満に思った軍閥は反抗するのか?
この資料は展転社の”満州事変と支那事変”という皇国史観的な
本が資料です。当時の雰囲気が感じられますが、知識不足の問題
が多いです。
82 名前:
1
投稿日: 01/11/03 01:23
>>80
軍閥と秘密結社(会党など)との関係は、確かに興味深いですけど、
資料の収集は難しいですね。挑戦に値するとは思いますが。
>>81
建国会議にしろ、東北行政委員会にしろ、もとより「自治」の体裁を取り繕う
必要があるから開催あるいは組織したのでしょう。
しかし、建国会議に参加した4人の軍閥に限っても、彼らの政治的立場や思惑
は大きく違っていました。馬占山は既述のように抗日意識が強く、満州国への参
加も追い詰められて止むを得ずといったところだったようです。一方、熙洽は清
朝復辟を目論み、積極的に日本軍の画策に乗ったようです。
83 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/03 23:24
軍閥は支配地域の郷紳層をどのように取り込もうとしたのでしょうか?
84 名前:
1
投稿日: 01/11/04 01:20
>>83
基本的には、清朝以前と同様、以下の動向が見られたと言ってよいでしょう。
@郷紳層出身の人材を軍閥の政権あるいは軍隊の高官として迎え入れる。
A郷紳層による農村支配を追認し、その既得権益を保証する。
B支配地域で実業を起こし、それに郷紳層を何らかの形で参与させ、利益を得させる。
もちろん、各軍閥によってその内実には大きな差があるわけですが、ここでは略します。
あと、ある軍閥が頻繁に他の軍閥と戦争を行い、
支配地域の経済や社会を疲弊・崩壊させてしまった場合は、
郷紳層が強力な内部の抵抗勢力としてその軍閥を牽制する事例も多々見られます。
85 名前:
83
投稿日: 01/11/04 01:39
>>84
レス有り難うございます。
>>郷紳層が強力な内部の抵抗勢力としてその軍閥を牽制する事例も多々見られます。
それでは郷紳層の武力であった団練は民国にはどのような状態になっていたのでしょう?
86 名前:
1
投稿日: 01/11/04 02:14
辛亥革命後に、各地で革命政府が成立しましたが、ほとんどの政府では、
新軍(近代軍隊設立のための武備学堂出身の軍隊)と
旧軍(清朝伝統の部隊や郷紳層の私兵。団練など)との主導権争いが見られました。
貴州では旧軍出身の劉顕世が新軍勢力を倒して支配権を握る、といったケースも
見られましたが、時が経つにつれ、新軍勢力が優勢になるか、あるいは旧軍が自己変革を
迫られていきました。
しかしながら、郷紳たちが独自に私兵を有するといった状況には、それほどの変化が民国
時代には見られなかったようです。郷紳たちの私兵は時に山賊などと同一視されながらも、
軍閥は郷紳に軍隊の肩書を与えることによって、その私兵集団ごと自軍内に取り込むケース
は多く見られます。
あと、僕の言う郷紳層の牽制とは、むしろ政治的、経済的活動を指します。
軍閥への資金供与を拒んだり、あるいは軍閥を打倒できる他の勢力との接触などを指します。
時には、より自分たちの利益を保証してくれるであろう人間を軍閥内部から見出し、
クーデターを促すといったこともやりました。
長々とレス、申し訳ありません。
87 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/04 02:31
すみません、郷紳って何ですか?
88 名前:
1
投稿日: 01/11/04 02:57
>>87
郷紳とは、地主の中でも官僚を輩出できるほどの富裕な大地主層を指します。
郷紳は自らの一族から中央官僚を輩出させて政界に影響力を及ぼす一方、
官僚に成れなかった者や退役官僚は故郷に戻って、地主として農村支配を行った
わけです。
一般には、中央から派遣されてきた官僚も、現地の郷紳層からそっぽを向かれて
は、ろくに行政が出来ませんでした。
そして、郷紳の中には、自らの財産で独自に私兵集団を組織する者もいましたし、
近代に入ると農業以外の分野で実業家となる者も出てきたわけです。
89 名前:
87
投稿日: 01/11/04 03:14
>>88
有り難うございます。前に勉強したことを思い出してきました。
それで、民国期においても清朝の科挙の資格や官僚としてのキャリアは影響力を持っていたのですね。
魯迅の『阿Q正伝』にもそうした郷紳がでてきますね。
90 名前:
1
投稿日: 01/11/04 22:12
軍閥も数ある中で、蒋介石の最大のライバルとしてその存在感が圧倒的だったのは、
広西(桂系)軍閥李宗仁です。
何度も蒋介石との権力抗争に敗れながらも、国共内戦期に蒋を追い落として代理総統
に就任しています。
日本では余り研究している人がいないようですが・・・どなたか興味を持っている人
はおられませんか?
91 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/04 23:20
余談ですが、現代の中国でも軍管区が軍閥化しちゃってるとか。
経済的に豊な広東軍区なんかは中央政府の言うことを聞かないそうです。
やっぱりあれだけ広い国を治めるのは大変なんですね。
92 名前:
1
投稿日: 01/11/04 23:34
>>91
中国は昔から、建前「中央集権」、実質「地方分権」と言われてます。
この状況は、現在でも軍区に限らず一級行政区についても起こっています。
中央から任命された党委員会書記や省長ですら、
結局は地方の利益を優先した政治行動をとらざるを得なくなっているのです。
93 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/06 13:18
今の日本で軍閥研究の第一人者といえるお方はどなたでしょうか?
94 名前:
1
投稿日: 01/11/06 23:01
>>93
申し訳ないのですが、
日本においては、民国史研究者でも軍閥そのものを専門として研究している著名な学者は、
極めて少ないと思います。
僕自身、現在の学者でとっさに名前を挙げろ、と言われても返事に窮しますし。
30年近く前に書かれた波多野善大氏の『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社、1973年)が、
依然として軍閥研究の基本書となっているのが現状です。
特に専門として軍閥を研究されているわけでは無いのですが、四川軍閥では今井駿氏、山西軍閥
閻錫山では内田知行氏、あと雲南軍閥竜雲では菊池一隆氏などが、論文を書いている程度です。
もし、以上に補足・訂正を加えることが出来る方がいれば、お願いします。
95 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/07 23:58
この間、龍雲とも関係の深い聞一多氏のお孫さんにあたる方の講演を聴きました。
彼自身は社会科学院の研究者で、知識人について研究してるそうです。
96 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/08 00:19
北伐後も地域権力を有していた軍閥が新中国建国のころには
あっさり一掃されたのは何故だろうか?
97 名前:
1
投稿日: 01/11/08 00:39
>>95
そうですか、聞一多のお孫さんが・・・(歴史的人物なので、氏は外します。すみません)。
貴重な情報、ありがとうございます。
知らない方のために少し説明します。
昆明は抗日戦争期に、戦火を避けて逃れてきた知識人や学生たちの根拠地となりました。
北京大学、清華大学、南開大学は互いに連合し、昆明で西南学院大学を設立しています。
この知識人や学生たちに対し、雲南軍閥竜雲はその文芸活動のみならず、
抗日や反蒋介石の政治的活動にも保護を与えました。
蒋介石との関係悪化が、その主たる原因と言われています。
いずれにしても、当時の昆明は「民主の塞(とりで)」と呼ばれたのです。
聞一多は、民国時代の詩人で、国民党にも共産党にも与しなかった民主党派
の活動家でもあります。
1938年に昆明へ来て、西南連合大学中文系の主任となり、教育活動の傍ら、
抗日、反蒋介石の活動に専心しました。実際にどれほど竜雲と親密であった
かは分かりませんが、いずれにしても竜の保護を受けたのは事実です。
しかし1946年7月、
反蒋介石の運動の最中に、聞一多は国民党の特務機関によって暗殺されました。
この事件は、雲南省政府主席盧漢(竜雲の後継者)の失脚を狙う、
国民政府中央の画策であったと思われます。
98 名前:
1
投稿日: 01/11/08 00:57
>>96
それは私も気になっています。
中華人民共和国時代の軍閥の解体過程は、日本に限らず、
まだ研究がそれほど進んでいない状況と言って良いでしょう。
国共内戦で人民解放軍に殲滅された軍閥はともかく、
共産党に降伏したり、寝返ったりした軍閥は特に問題です。
ただ、国共内戦が終わった後、共産党側に寝返った旧軍閥指導者は、
ほぼ全員が北京に呼び集められています。
彼らが拘束されたとまでは言えないでしょうが、彼らの現地に対する影響力を
制限する意図があったのは、ほぼ間違い無いと思います。
あと、たとえば雲南省の場合、旧軍閥の軍隊はそのままの形で人民解放軍に
編入され、漸進的に再編、吸収されていきました。
軍閥の有力幹部の中には、共産党の急進的政策の中、「反革命」などの罪状
により粛清されたり、失脚したりした者もいます。
ただ、文革後には、それらの人たちもおおむね名誉を回復し、
中には省級の人民政治協商会議などに加わって、政治に参与した人もいました。
99 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/08 01:41
確か溥傑も人民政治協商会議のメンバーでしたよね。
人民政治協商会議は旧勢力の主要人物をプールする機関という役割もあるのでしょうか?
100 名前:
1
投稿日: 01/11/08 01:50
その役割もあったことは否めません。
事実、中華人民共和国建国直後は、
人民政治協商会議(以下、人民政協)に軍閥指導者の多くが加わっています。
ただ、人民政治協商会議は、
少なくとも建国直後は「人民民主主義統一戦線の組織」(共同綱領)でした。
主に、民主党派を政権に参加させるための組織だったと言えるでしょう。
その後、54年憲法の成立や反右派闘争で変質していきますが。
101 名前:
1
投稿日: 01/11/08 02:41
失礼しました。
>>98
の上から5行目、
×「西南学院大学」→○「西南聯合大学」です。
情けないミスでした。西南学院大学の関係者の方、お詫びします。
102 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/08 03:41
中国で竜雲の伝記は出版されていないのですか?
103 名前:
1
投稿日: 01/11/08 18:41
>>102
代表的な伝記としては、2冊挙げられます。
まず大陸では、謝本書『竜雲伝』(四川民族出版社、1988年)があります。
伝記である以前に、研究書と言うべきでしょう。
謝本書氏は、雲南大学歴史系教授(現在は中国社会科学院で高位についたと聞いています)で、
この他にも蔡鍔、唐継堯、盧漢といった雲南の軍閥指導者たちの研究書を出版しています。
台湾・香港で出版された伝記としては、江南『龍雲傳』(台北天元出版社、1987年)があります。
江南氏は米国籍華人ジャーナリストで、『蒋経国傳』の作者としての方が有名です。
こちらは読み物としての色彩が強いですが、綿密な資料調査によって記述されたものです。
なお江南氏は、1984年に台湾の情報局関係者に暗殺されています。
上述した謝本書氏は、江南氏と交流があり、その死を大いに悼んでいました。
余計なことまで書いて申し訳ありませんでした。
104 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/09 01:26
軍閥研究は中国での研究がかなり進んでいるようですね。日本人が参入する余地はあるのでしょうか?
105 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/09 20:54
>>104
参入する余地なら、いくらでもあります(これだけは断言します)。
大陸あるいは台湾・香港でも、
各軍閥のプラス面(たとえば地方単位での近代化政策)などの研究は、
まだ始まったばかりと言っていいくらいです。
たとえば大陸では、研究は1980年から散見されはじめ、
冷戦の終焉でやっと活発化してきた感じです。
僕がこんなことを偉そうに言うのも何ですが、
研究者本人の興味によって、
いくらでも軍閥研究の対象や領域は広がっていきますよ。
106 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/09 23:34
冀察政務委員会の宋哲元はどの系列の軍閥ですか?
107 名前:
1
投稿日: 01/11/09 23:45
>>106
宋哲元は馮玉祥系の軍閥です。
1926年に馮玉祥が国民革命への参与を宣言した際には、
馮配下の「五虎将」の1人として名声がありました。
108 名前:
1
投稿日: 01/11/10 03:01
自分で書き込んだレスが3割以上を占めているという、恥ずかしい状況ですが、
とにかくレスが100を超えました。
これまで書き込んでくださった皆さんに心から感謝しています。
さてこのスレは、最近僕が質問に答えるという形式になっていますが、
本来は自由に議論する場なので、軍閥の話題であれば、
どんなことでも書き込んでください。
小噺やウンチクでも、もちろんOKです。
僕の言動や書き込みの内容に対する批判も、
建設的なものであれば大歓迎です。
(最近、コテハンさんたちの書き込みが見られないけど、嫌われたのかな・・・?)
109 名前:
1
投稿日: 01/11/10 03:03
↑一番下の行、「僕がコテハンさんたちに嫌われた」という意味です。
誤解を招きかねない書き方でしたので、失礼。
110 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/10 03:13
広西の李白はどういう末路をたどったのでしょうか。
111 名前:
1
投稿日: 01/11/10 03:38
>>110
108でああ書きながら、いきなり質問に答えるのも何ですが・・・(w
内戦後の李宗仁は、蒋介石が待つ台北へは行かず、
アメリカへ亡命しました。
1954年、中華民国副総統の地位から罷免されています。
その後、1965年に共産党の呼びかけに応じ、李宗仁は大陸に戻りました。
文革期間中は周恩来の保護を受け、1969年に北京で病没しています。
白崇禧は、広西で自軍を人民解放軍に殲滅され、台北へ逃れました。
李宗仁の副総統罷免に賛成し、
後に李が大陸へ戻った際には、強烈な非難を表明しました。
台北では総統府戦略顧問委員会副主任などの地位に就きましたが、
李との関係を疑われて実質的には幽閉状態だった、との説もあります。
1966年に病没しました。
112 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/10 04:49
110です。ありがとうございます。やや悲惨ですね。
113 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/12 00:43
1.馮玉祥と馮国璋は親子でしょうか?
2.軍閥と関係有るような、無いような質問ですが、
北伐が終わった後に、北京が北平に直隷省が河北省に
変わったようですが、誰が、どこが、いつ、やったのかあまり
はっきり書いてありません。
私の想像では
a.当時南京の首都としての地位もはっきりしていないので
南京政府が北京の京という字をきらって変更したから。
b.反蒋介戦争の後、北平拡大会議で北平に別の国民党を
つくったから。
114 名前:
1
投稿日: 01/11/12 01:05
>>113
1.違います。馮玉祥の父親は馮有茂といい、淮軍の下級仕官だそうです。
2.北京が北平と改められたのは、やはり蒋介石率いる南京政府が北洋政府に
勝利したことを意味付けるためでしょう。
ちなみに、その後の北京は、以下のような変遷をたどります。
・1928年6月−北平特別市とする。
・1930年6月−河北省管轄の一市となる。
・1930年11月−行政院院轄市となる。
北平拡大会議が行われたのは1930年7月で、反蒋介石派の敗北は、
同年11月初めですから、この事件の影響が反映されたのは、むしろ
院轄市への移行の方ではないでしょうか?
115 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/12 01:15
南京首都宣言は1927年4月18日布告だよ>113
116 名前:
1
投稿日: 01/11/12 07:19
>>115
西国のアズマ帰依者さん、補足どうもです。
最近、書き込みされてないので、
厭きられたのかのかなって心配してたんですよ(涙
よろしかったら、今後も色々書き込んでいってください。
117 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/13 02:35
単に旅行に行っていただけです。ご心配かけてすみません
118 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/13 03:00
>95
新しくはないですが、塚本元「補論「中国近代軍閥」研究をめぐって」
『中国における国家建設の試み-湖南1919-1921-』、東京大学出版会、1994年、所収
で軍閥に関する研究史整理がなされています。
119 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/14 19:54
じゃあ、小ネタを。
西村成雄『張学良』178ページの写真。
張学良の育ちのよさを示すあるものが写っています。
それは何でしょう?
120 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/14 20:12
前から思っていたんだけど、中国人って
はしの持ち方がどこかヘンでないか?
121 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/14 23:08
答えは約1時間後に。
122 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/15 00:11
あ、レスがない、、、
じゃあ、また今度。
123 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/15 00:45
そういえば、民国春秋叢書で『李宗仁与桂系』(江蘇古籍出版社 1997年)
が出てたよ
124 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/15 00:57
向こうの文献は東方書店とかで入手するんですか?
125 名前:
119
投稿日: 01/11/15 20:58
なんだ誰もレスしてない(泣
126 名前:
1
投稿日: 01/11/15 21:46
>>125
遅れてすみません。
やっと写真を見てきた(手もとに『張学良』無かったもので)のですが・・・。
答えは、訓練服のボタン?(こういうの、詳しくないんです・・・)
>>123
情報ありがとうございます。
それが一番新しい広西軍閥関連の書籍なのでしょうか?
僕はまだ読んだことが無くて・・・。
ちなみに僕が所有しているもので、一番新しいのは、
莫済杰・陳福霖『新桂系史』(広西人民出版社、1995年)です。
>>124
日本では、やはり内山書店と東方書店がメインですね。
ただ、旅行とかで中国へ行く機会があったら、
ここぞとばかりに、買い込みます。
以前僕が留学してた時期は、ほとんど毎日が、
新華書店などでの本探しでした。
127 名前:
119
投稿日: 01/11/15 21:49
おお!正解です。
答えはカフスボタン。
「じゃあ、育ちの悪い軍人は絶対カフスボタンしないのか?」と
言われれば困ってしまいますが。
128 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/15 21:59
中国での本集めってまさに一期一会だね。
しかも地方史になるとその地方に行かないと買えないことが多い。
んで、店頭にない本の取り寄せ頼んでも届いたためしがないぞ。
129 名前:
1
投稿日: 01/11/15 22:00
>>127
わーい、当たったー!!・・・失礼(w
ところで、その当時の軍人(あるいは他の上層階級)にとって、
ボタンをつけた服というのが珍しかったのでしょうか?
別の本に載っていた楊森(四川軍閥)の軍服姿の写真も見てみたのですが、
袖口にカフスボタンは無かったですね。
130 名前:
1
投稿日: 01/11/15 22:09
>>128
そうですね。
僕の場合、雲南省関連の書籍も、
雲南省へ旅行に行ったときに貴重な物を手に入れました。
地方小出版社が出す地方史文献は、
北京の図書大厦ですらも、滅多に売ってませんね。
131 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/15 23:30
やはり紳士のファッションって感じなのかな<カフスボタン
まあ、楊虎城はつけてないでしょう。
132 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/15 23:30
来週のNHK「その時、歴史は動いた」で満州事変と石原莞爾をやるそうです。
張作霖・張学良に関するエピソードもあるといいなぁ。
133 名前:
1
投稿日: 01/11/15 23:59
>>131
張学良以外でカフスボタン似合いそうな軍人って、誰でしょうね?
雲南軍閥の唐継堯は結構似合いそうですが・・・
って、写真見たことある人どれだけいるんやろ?失礼・・・。
>>132
山室信一『キメラ−満州国の肖像』(中公新書)だと、
石原莞爾の理想(?)に燃える姿と、その惨めな結末がよく描かれていますね。
ただ、「歴史は動いた」だと、相手方(奉天派)の動きは
余り出てこなさそうですね・・・。
話は全く変わりますが、
ソ連撤退後のアフガニスタンも、軍閥割拠の情勢が続いています。
アヘンが絡んでくるところとか、自分勝手に交通料や税金を取り立てるところなど、
驚くほど民国期の軍閥時代と酷似しているように思えるのですが。
134 名前:
1
投稿日: 01/11/16 07:27
>>118
軍閥の研究状況の補足、ありがとうございました。
失念していて、お礼を言うのが遅くなり、申し訳ありませんでした。
135 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/17 02:22
県レベルの文史資料、見たいけど手に入らないyo!
136 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/17 02:36
関係無いけど石原莞爾って今ちょっとしたブーム?
137 名前:
1
投稿日: 01/11/17 03:16
>>135
それは、本当に現地に行かないと無いでしょうね。
日本で取り寄せるのは不可能に近いです。
さもなければ、中国へ行って、国家図書館など大きな図書館で探すしかないでしょう。
僕も、たとえば大理の文史資料選輯は大理でやっと見つけましたよ。
県志なら、日本でも国会図書館や東洋文庫など大きな図書館にありますけど。
>>136
最近の漫画でも良く出てきますからね。
石原莞爾は軍人と同時に、思想家(ないしは哲学者)と言えるかも知れません。
その考えを肯定するにしろ否定するにしろ(僕は後者ですが)、
大きな人物でしょう。
そしてその理想主義ゆえに、現実の事態は彼に「ある限度以上の活躍」
を許さなかった、と僕は考えていますが。
・・・長々と失礼。
138 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/18 04:09
>>133
>驚くほど民国期の軍閥時代と酷似しているように思えるのですが。
効率の良い収入を得ようとするのは、常に軍事費の支出を考えなくてはいけない、辺境地帯の軍事勢力の宿命かも知れませんね。
139 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/18 22:20
土地を基盤にしている軍閥にとって財政基盤の確保は重要なんだろうけど、
アフガンはそれほど産業が発達してないだろうから(よく知らないけど)
通行料や特別税に依拠するしかないんじゃないかな?
奉天派の財政基盤は当時、世界的商品だった大豆でしたが。
140 名前:
1
投稿日: 01/11/18 22:52
>>140
アフガニスタンは天然ガスが主要産業でしたが、
相次ぐ内戦のために、正常な生産ができなくなったようです。
各軍閥を周辺国(さらにはアメリカなど大国)が支援するのも、
単に安全保障の問題のみならず、天然ガスも目当てと言えます。
以前すでに書き込みましたが、
雲南では各種金属(錫、銅など)とアヘンが重要な産物でした。
しかも、どちらかと言うとアヘンが圧倒的優位だったのですが、
竜雲が政権を掌握した1930年代以降は、
錫の生産と貿易による収益が増加し、
全体の割合でアヘンを凌ぐようになりました。
141 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/18 23:08
官銀号の発券基盤だったからね大豆取引>139
超近代的な満鉄大豆取引システムでも
中国商人にはかなわず、満州の輸入貿易は中国商人
のいる営口に掌握されていたが
142 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/18 23:27
中国の軍閥はそういう財政基盤があったからこそ軍閥たりえたわけで、
アフガニスタンの軍閥が通行料なんかにたよるのは
課税地なんかが把握できていないからではないでしょうか。
民国期の軍閥割拠は「中央」に対して「地方」が強かったためで、
アフガニスタンは「地方」以上に「中央」が弱体であるためでは?
当てずっぽうですが。
143 名前:
1
投稿日: 01/11/19 00:11
>>141
そうだったのですか?
満鉄でも、
現地商人のネットワークは簡単に崩せなかったということですか・・・。
僕も興味がありますので、
もし、このことに関する書籍や論文がありましたら、
教えていただけないでしょうか?
>>142
仮にも中華民国時代は、
北洋政府や国民政府が正統性の意味で、
時代をある程度リードしてましたからね。
僕もアフガニスタンについては、
興味を持ち始めたばかりなので多くを知りませんが、
旧ソ連撤退後の中央政権では、各種勢力の内紛が激しすぎて、
ろくに求心力を発揮できなかったそうです。
144 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/19 22:52
安富歩や石田興平、西村成雄だったかの
経済史関連の著書に書いてあった気がする…(す、すまん。覚えてない)
145 名前:
1
投稿日: 01/11/20 00:29
>>144
どうも、ありがとうございました。
あとは自力で探してみます。
146 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/20 02:05
>>141
>>超近代的な満鉄大豆取引システム
具体的にどんなシステムでしょうか?
147 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
148 名前:
1
投稿日: 01/11/20 07:12
満州国もですが、
軍閥の経済政策や金融政策、財政に焦点を絞った研究も面白そうです。
経済学や財政学の知識に疎いのが辛いですが、
僕は今のところ、これらに関する雲南軍閥の動向について
改めて調べなおしているところです。
たとえば、貨幣の流通などは、
雲南が地元で発行している地方貨幣や、
フランス領インドシナが発行していた紙幣などが強力で、
中央の法幣は1937年までろくに通用しなかったといいます
(以前、このスレでも少し触れましたが)。
149 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/20 20:42
聞いて驚くな。
満鉄沿線で大豆を買うと、その日のうちに大連で船積が可能になるのだ。
そして信用状と船荷証券添付した荷付為替手形で銀行に割り引いてもらえる、
つまり信用状により貸付をうけ、船荷証券獲得をその日のうちに行えれば、
実質「ゼロ円」で大豆が買えるのだ。
しかし、輸送には2週間とか1ヶ月かかることも珍しくはないのです。
そこで問題です。
なんでその日のうちに、大豆商人は船積み可能なんでしょうか?
150 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/20 21:32
あらかじめ大連に大豆が集積してあって、地元の商人が満鉄沿線の出張所で買うと電報で連絡が行く。
151 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/20 23:27
惜しい!60点!
大豆が大連に集積してあるのは正しいが、
その取引法を可能にするには、もうひとつ条件が必要なのだ。
ただで、大豆が買えてしまう取引技術。
信用状で為替手形を割り引いてもらい、船荷証券をくっつける取引を
可能にする中核的取引技術こそ、満鉄が誇れるもの。
しかし、そんな技術がありながら、満州輸入経済は営口に掌握されていた…
さて、それは…
152 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/22 00:00
省長というのは中華民国が任命した地方行政管理官で
しょうか?そうだとして、省長が軍閥自身であったり
なかったりで、いずれにしろ地方からの税収が国に
あまり入ってこないので、関税くらいしか収入が
なかったという理解でいいですか?
153 名前:
1
投稿日: 01/11/22 00:32
>>152
省長というのは、厳密に言えば北洋政府における各省の最高行政長官です。
ちなみに国民政府においては、省政府主席がこの地位にあたります。
1916年7月に、それまでの巡按使から改称されたものです。
この省長の地位につくのは、必ずしも軍閥自身とは限りません。
そのケースもありましたが、むしろその省における郷紳層の実力者、
あるいは軍閥内の高位の文官が就任するケースが多かったようです。
また、「聯省自治運動」の時期には、各省で省長の権限に大きな差がありました。
中央に税収が届かなくなるのは、民国建国当時からの課題です。
袁世凱は様々な施策によって各省都督(=軍閥)の権限を削減し、
中央税収の増加に務めました。
それは二次革命における、袁世凱の勝利で一時は成功したかに見えましたが、
第一次世界大戦の勃発及び袁の皇帝僭称により、破綻。
袁世凱死後の北洋政府は、南方をはじめとしてほとんどの省からの税収が
途絶えています。
>>144
安富歩『「満州国」の金融』(創文社、1997年)のようですね。
これからじっくり読もうと思っています。
教えていただき、ありがとうございました。
154 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/22 17:15
満州国では建国会議のメンバーは東北各省の省長に
なっていますが、彼等の場合は、それ以前は軍閥、
省長のいずれだったのでしょう?
155 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/23 00:48
アズマさん、ヒント教えて。
156 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/23 03:01
>>154
その4人については、
少なくとも建国直前は省長に就いていないはずです。
建国前に国民政府の組織の下で省長となっていたのは、
その他の東北軍の領袖たちでしょう。
157 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/11/23 21:35
省長についていろいろありがとうございました。
sage
158 名前:
1
投稿日: 01/11/23 23:05
すみません、156のところは省長じゃなくて、省政府主席です。
国民政府の組織ですから。
159 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/11/23 23:10
>>155
ヒントは取引所取引などの前提となる技術でもあります。(つまんないんだけど結構重要)
160 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/24 03:43
先物
161 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/25 01:29
アズマさんのクイズの最中ですが、
僕からも1問。
雲南省では、民国時代まで主に省の西部や東北部である貨幣が流通していました。
その貨幣は、金属では無い物質から製造されたもので、
政府の公認ではありませんでしたが、事実上、補助貨幣の役割を担っていました。
さて、それは何で出来た貨幣でしょうか?
162 名前:
あやめ
投稿日: 01/11/25 13:37
清朝ころまで雲南では寶貝=子安貝が使われてたという話は聞いたことあるけど、
「製造されたもので」というのも変だし、民國時代も流通してたものか?
何しろ雲南てとこは特別で「民國通寶」なんていうのも鋳造してたらしいです。
163 名前:
1
投稿日: 01/11/25 16:17
>>162
あやめさん、残念。
確かに、雲南では古代から貝も通貨の一種として使われていました。
明の万歴年間以後はさすがに衰えましたが、
それでも清の順治四年(1647年)まで銀との兌換率が記録されていたほどです。
「民国通宝」は、省東北部の東川市附近で民国元年(1912年)に鋳造され、
「当十」「小銭」の2種類があったそうです。
さて、クイズの答えはもう少し待ってください。
問題文では金属ではないと書きましたが、もしかしたら語弊があるかも知れません。
(これもヒントです)
164 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/25 16:45
陶器ですか
165 名前:
通りすがり
投稿日: 01/11/25 18:20
食塩ですか?
それなら政府が信用を与えなくても流通するだろうし(軍閥発行の悪貨よりずっと
マシかも)、塩化ナトリウムを金属でないと言うと確かに語弊がある・・・。
問題は保存性だけど(雲南あたりじゃすぐ湿気りそう)、東北なら大丈夫?
166 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/25 19:49
ずばり!金玉でしょう!
167 名前:
1
投稿日: 01/11/25 20:40
>165の方、お見事!
その通り、食塩です
(でももしかしたら、僕が金属でないと言ったせいで、あやめさんは答えられなかったかも
・・・そうでしたら、スミマセン)。
南詔国の時代から各地で鋳造され始め、
元朝の頃には棒状あるいは円盤状に形を整えた塩貨(?)となっていたそうです。
また、明代の資料によると、省内の各産地ごとに、塩貨の質の優劣がつけられています。
民国時代に至っても、主に少数民族地域の定期市で、少額の取引に用いられていました。
雲南省の歴史学者方国瑜氏によると、雲南西南部の瀾滄江流域では、
1936年に銀1元=塩貨16枚で兌換されていたそうです。
以上、拙いクイズでしたが、失礼しました。
168 名前:
165
投稿日: 01/11/25 23:00
塩の貨幣というのはどこかで聞いた覚えがあったのですが、それほど長く、
近代まで用いられていたとは知りませんでした。勉強になります。
西国のアズマ帰依者氏のクイズの方は、答えが思いつきませんねぇ・・・。
大豆といえば、輸入した大豆の代金代わりに、日本陸軍でお払い箱になった
爆撃機(イタリア製)を満州国軍に譲り渡したなんてこともあったようで。
169 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/26 23:35
興味のある人はこちらも夜露死苦(^^)
http://salad.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1005659817/
龍雲のパラメーターはどうなるのやら(・・;)
170 名前:
1
投稿日: 01/11/27 00:41
>169
うーん、難しいですね(w
竜雲は、個人的にはそれほど学問的素養や専門的知識を持ってなかったし、
また、後先考えず、かなり感情的に行動する人でした。
それでも、政権作りのために様々な人材が必要であることを充分に承知していて、
軍人のみならず、行政官僚や経済官僚も多士済々になったんですよね。
また、国民政府中央に対する政治的距離も、
蒋介石全面支持の一方で、したたかに立ち回ってます。
それに。政権を安定させた1930年以後の竜雲は、
当時の雲南の民衆から「老主席」と呼ばれ、かなり慕われてました。
僕の独断では、
統率:85(混乱した雲南を統一した手腕を評価)
武力:83(やはり雲南統一の業績を評価。若い頃は拳法の使い手)
知力:58(感情的に行動するマイナス面を考慮)
政治:81(個人的な行政手腕は低いが、人材の起用では目を見張る)
魅力:90(雲南の民衆や部下、そして民主党派から極めて厚い信望を得た)
でしょうか?
171 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/28 15:21
>若い頃は拳法の使い手
いいキャラだなあ
172 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/29 19:01
>171
フランスからやってきた腕自慢の格闘家を、竜雲は見事に打ち倒し、
それで雲南軍閥の唐継堯に気に入られて出世していった、という逸話があります。
また辛亥革命以前は、
無頼で義賊まがいのことをやっていたという話がある一方、
商売の最中に大切な商品を川に流して雲南から逃げ出した(wという話まであります。
実際のところ、竜雲の青年時代は不詳な点が多いため、こんなに逸話が出てくるのです。
173 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/11/30 02:25
>それほど学問的素養や専門的知識を持ってなかった。
>後先考えず、かなり感情的に行動する。
>行政官僚や経済官僚も多士済々。
>国民党にはしたたかに立ち回る。
竜雲って漢の高祖みたいなキャラだ。
174 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/01 00:37
スレ違いだったらゴメンゴ
民国期の東トルキスタンに興味があります。
特に甘粛の漢回、師長馬仲英。
彼の32年の東トルキスタン遠征による大乱にね。
省軍による回族屠殺、回族による漢族屠殺。
漢人官吏や商人、高利貸しの皆殺し等など・・大虐殺のオンパレード!
悪趣味ですけどね。
しっかし、今も昔も東トルキスタンは相変わらずだねえ〜
175 名前:
1
投稿日: 01/12/01 01:34
>174
東トルキスタンは、
やはり中華民国(国民政府)も支配には相当神経を使ったようです。
新疆省(現ウイグル自治区)は、結局1944年まで現地軍閥を通した支配しか出来なかったですしね。
その現地軍閥(楊増新・金樹仁・盛世才)にしても、
外部にはソ連と国民政府中央、内部には東トルキスタン独立派を相手に、
難しい政権運営を強いられていました。
あと馬氏についてですが、
新疆・甘粛以外でも、青海省の馬歩芳、寧夏省(現回族自治区)の馬鴻逵などが、
軍閥支配を確立していましたね。
176 名前:
174
投稿日: 01/12/01 01:50
楊増新は暗殺、金樹仁はソ連に逃亡。
馬仲英は盛世才により壊滅。盛世才はソ連のくびき。
民国同様、東トルキスタンも動乱状態でしたね・・
177 名前:
1
投稿日: 01/12/01 02:28
「東トルキスタン共和国」運動は、
国民党によっては、結局鎮圧できませんでしたね。
共産党にしても、もし「あの事件」が無かったら、
新疆をあんなに簡単に自分の支配下に組み込めたかどうか、疑問ですよね・・・。
178 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/01 11:31
「三区革命」?
179 名前:
1
投稿日: 01/12/01 19:56
>178
そうです。
アフメド・ジャンら「三区革命」派指導者グループの謎の「消滅」ですね。
毛沢東と今後新疆の統治をどうするかを協議するために北京へ向かう途中、
飛行機が墜落して「三区革命」派は全員死亡した、というのが、公式発表。
しかし依然として、「三区革命」派は実は北京で拘束され、幽閉死したという説も根強いです。
もっとも、「三区革命」派が果たして独立国家を建てようとしていたのか、
それとも民族自治区という形式で妥協しようとしていたのか、
さらには連邦制など別の統治形式を提案しようとしていたのか・・・。
彼らの意図は、現在では知る術がありません。
事実として残ったことは、
「三区革命」派の「消滅」により、
共産党はさしたる血を流さず(散発的な抵抗はあったにしても)、
新疆を自治区として組み込むことができた、ということです。
180 名前:
1
投稿日: 01/12/04 03:44
今、胡春恵『民初的地方主義与聯省自治』(中国社会科学出版社)を読んでいます。
このスレの最初の方で、「聯省自治」は地方軍閥の支配の正当化と書かれた方がいましたが、
それは妥当では無いです(そのような一面があったにしても)。
むしろ、混乱する中国を再び束ねるための、1つの構想(あるいは思想)のようなものと言えるでしょう。
各省が独自の憲法を作って連邦国家を作るという考えは、その当時では相当の求心力を持っていました。
参加した層も、軍人のみならず、郷紳や資本家、知識人など幅広いものでした。
ただ、現実は厳しいものでした。
湖南省が恐らくは省の自治に最も成功した省でしたが、最後は軍閥唐生智によって消滅させられます。
四川省では、「川人治川(四川人による四川統治)」を唱えていたはずの四川軍閥自身の手によって、
「聯省自治」運動が破壊されるという、無残な結末が待っていました。
181 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/04 15:41
北洋軍閥政府がヴェルサイユ会議やワシントン会議に出席していたときの
広東政府や地方軍閥の気持ちがしりたい。
182 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/05 03:11
>181
ヴェルサイユ講和会議には、北京・広東両政府が合同代表団を結成して乗り込んでいます。
ウィルソンの14か条宣言に対する期待などもあり、
日本から山東半島を取り戻すために一致団結する気風が双方に生まれていたのでしょう。
もちろん、中国国内の世論や熱気も後押しだったはずです。
その後の、ワシントン会議については僕は詳しく知りませんが、
安直戦争など内紛を頻発する北洋政府に対して、
おそらく広東政府側は正統性を認めていなかったでしょうし、
広東政府側も内部の抗争があってそれどころでは無かったのではないでしょうか?
(いい加減な推測ですみません・・・)
183 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/05 20:04
ワシントン会議での北洋政府の失態が広東政府上昇の鍵
184 名前:
1
投稿日: 01/12/09 03:17
内紛云々(安徽、直隷、奉天各派の争い)があったにしても、
北洋政府はやはり「腐っても鯛」というべきか、
「中央政府」としての外見だけは辛うじて有していたと言うべきでしょうね。
それにしても、
北洋政府ではなく、広東政府(南方派)の系列に属していた蒋介石が、
最終的に北伐を成功させて南北統一を果たしたことは、
やはり相当な政治的、軍事的偉業ではないでしょうか?
普通ならば、北洋政府内から有力な軍事指導者が出て、統一を果たすところですし。
185 名前:
169
投稿日: 01/12/12 19:46
こんにちわ
御無沙汰しておりました。
戦国・三国志版の
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1です。
>170
での竜雲のパラメーターありがとうございます。
さっそく貼りつけさせていただきます(^^)。
186 名前:
1
投稿日: 01/12/12 20:29
>185
あの文章、誤字脱字、句読点ミスゴロゴロでハズカシイんですが(w
ま、いっか。
187 名前:
投稿日: 01/12/12 22:02
これくらい真面目な内容のスレが180超えるなんて珍しいのでは?
「シナは無政府状態だった」みたいな荒れる内容だったら
すぐ500くらい行くけどね。
188 名前:
1
投稿日: 01/12/12 23:10
>187
褒めて頂いたのは嬉しいんですが、
ほとんどが僕のカキコですからね・・・。
見る人によっては、どう思うか判りませんよ。
・・・ノリが悪くてすみません。
189 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/15 18:35
軍閥という言葉からは夜盗の群れから地方の皇帝までイメージされ
なかなか、想像がつかない。その中でパール、バックの「大地」の
軍閥は私の軍閥のイメージに強く影響した。彼女は自身当時の中国
生活を経験してますがあの小説の軍閥はどうですか?
190 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/17 00:27
上海の女学校からアメリカのランドルフ、メイコン女子大へ
http://www.kwassui.ac.jp/info/campus/ryugaku/body.htm
1913年中国へ帰る。
1913年ロシング、バックと結婚。安徽省の淮南で5年暮らす。
http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/mukuge/164/hida.html
1922年より南京大学で講義。
1927年南京で北伐軍からあやうく難を逃れる。
1930年「大地」を書く。
http://www.fin.ne.jp/~snd/tianjin/diary076.html
私がとくに知りたいのは淮南の5年間のころ安徽省の軍閥は
どんな状態でバックはなにを見たかということです。
呉佩孚(読み方はごはいふでよいか?)はもう少し後か?
袁世凱(1859−1916)
1913年というと大地でいう北の軍とは袁世凱のぐんと南が
南京政府の軍らしいですね。とんでもない時期にとんでもない
所にいたらしい。
191 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/17 00:54
追加。
http://homepage1.nifty.com/hint-yf/Wao_ct99.htm
>>153
で1さんに教えていただいた安徽省都督との税収争いの
まさに現場にいたわけですね。(第二革命)
192 名前:
1
投稿日: 01/12/18 22:36
>189-191
恥ずかしい話なんですが、僕はパール・バックの「大地」は読んだこと無いんですよ。
スメドレーやソールズベリは随分昔に読んだんですが・・・スミマセン。
さて安徽省については、僕は専門的に調べたことが無いのですが、
特に北洋政府時代においては、仰るとおり時代の激動の中心とも言える省でした。
まず、民国成立後に都督に任命された柏文蔚が、袁世凱に罷免された際に反旗を翻して独立を宣言し、
二次革命に参加しました。
柏文蔚が敗退した後は、袁世凱配下の倪嗣沖(げいしちゅう)が安徽を統治しましたが、
1916年にその後任となった張勳が、今度は清朝復辟の軍事行動に出ています。
(ちなみに張勳も敗退すると、再び倪嗣沖が安徽の支配者に復帰しました。)
その後も、この地では、北洋政府派と南方政府派との角逐が繰り広げられています。
答えとしては不足かもしれませんが、僕の知っていることは以上です。
失礼しました。
193 名前:
名無し
投稿日: 01/12/18 22:42
清朝崩壊後のシナは軍閥が割拠して、中央政府がないんだから、
無政府状態ではないの?
兵隊だって、すぐに金を盗むような代物だ。
今の感覚で考えると大間違いだよ。
194 名前:
1
投稿日: 01/12/19 00:44
>193
まず、北伐が完了するまでは、
北洋政府と南方政府(広東政府)が互いに中央政府の資格を争っていた、というべきでしょう。
もちろん、南北双方に内部対立があったのは言うまでもありませんし、軍閥同士の抗争も激しかったです。
続いて、北伐完了後については、蒋介石が最後まで中央政権の領袖としての地位を守り通しました。
度重なる内紛に悩まされながらではありましたが。
民国期の中国が、軍閥同士の抗争に溢れていたから「無政府状態」だった、
と規定する見方も分からないではありません。
しかし、張勳のような例外を除いて、ほとんどの軍閥は自分たちこそが「中華民国」の正統を奉じている、
と主張せざるを得なかったのであり、それを否定しては自らの政権・軍隊を保てなかったのです。
彼ら軍閥の選択肢は、自ら「中華民国」の領袖を目指すか、
あるいは領袖とみなした人物に追随する(忠誠心の程度は別として)かしか無かった、
というべきでしょう。
そのため、「中央政府が無い」という見方は、残念ながら僕には採れません。
様々な勢力が「中華民国」(=中央政府)の領袖の地位をめぐって争い、
結果として袁世凱や蒋介石などが一定期間その地位を確保した、と見るべきでは無いでしょうか?
長々と、すみませんでした。
195 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 01/12/19 01:00
>193
あのう、中央政府がないということはありません。
北京政府も南京政府も、立派な中央政府なのです。
問題は「地方なき」中央政府ということであり、これは蒋介石は
ある程度まで克服しましたが、結局今現在でも中国政府が抱えている
問題として存在します。
これは地方と中央をどうわかつことができるのか?ということであって、
はじめから地方と中央の関係が明瞭な日本の感覚で捉えると間違えます。
地方と中央が分離していないということは、中央の税収は地方依存であり、
中央は独自の税徴収システムをもっていないことがあげられます。
北京政府時代、軍閥混戦といわれましたが、それは地方政府が税金を
中央に納めなくなった地方の独自性の発揮なのですが、
地方が税を徴収できるのは中央の正統性があってのことなのです。
そしてその正統性の由来は「中華民国」であった。
関税会議で北京政府はどうどう代表団を送り込んでます。
この関係は非常に分かりにくいけれど、無政府状態ではありません。
そして今も中国において再現されている問題です。
そのように片付けることは事の真実を見失う行為といって間違いありません。
196 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/19 01:07
軍隊の規律などはどういう感じだったんでしょうか?
中国では「軍人は最低の人間がなるもの」という言い回しがあったとか。
装備も各地でばらばらだったと思うし。
ナショナリズムで統一された国民党軍の方が優勢に北伐を進めたのでは?
197 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/19 01:12
いまの中国って「地方自治」って概念ないですよね。
「民族自治区域自治」は例外でしょうが、
それでも中央の統制がつよいってよく指摘されている。
共産党の中で北京閥とか上海閥なんてことがよくいわれるけど、
それは地盤への利益誘導であって、地方の自立性が強いこととは別ではないでしょうか?
198 名前:
1
投稿日: 01/12/19 01:35
>196
ほとんどの軍閥については、軍隊の規律が概ね悪かったと言うべきでしょう。
盗賊のような集団もあった他、給料の支給が滞っただけで、すぐに離散状態となることもありました。
また、軍閥同士の戦闘があっても、双方の軍隊の戦死者はほとんど無く、
どれだけ相手方から寝返らせたかによって勝負が決まることが多かったそうです。
>197
現在の中国で認められている「自治」は、
僕たち日本人の感覚で言う「地方自治」と同じではありません。
中国の「自治」とは、@「郷鎮自治」A「民族自治」B「高度な自治(香港・台湾)」で、
いずれも「団体自治」とは無縁です。
北京閥と上海閥については、確かに地方の自立性云々の問題とは異なります。
ただ、これは必ずしも地盤への利益誘導という問題でもないようです。
江沢民(上海閥)と陳希同(北京閥)の領袖個人同士の派閥争い、と見る方が妥当と思われます。
199 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/19 01:58
軍閥とは関係ないんですが質問が3点あります。
1、中国の自治が「団体自治」ではないとすると「住民自治」と考えていいでしょうか?
村民自治のような小規模なもの、あるいは香港などでは住民の政治参加が許されているようですが、
省レベルになるとはそうとは言えないような。これは民族自治区域についても同様で、
だったら何ゆえ「自治」を冠するのかわかりません。
中国における「自治」って何を指しているんでしょうか?
2、領袖同士の派閥争いだとすると、その派閥が何ゆえ地方を元に形成されるのかがわかりません。
中国人は地方意識が強いともいいますが、上海人であるというだけで江沢民を支持したりするのでしょうか?
3、地方「自治」がなく、派閥争いも個人的側面がつよいとしたら、
西国さんが示唆されたような中央と地方の関係は何を原因としているんでしょうか?
200 名前:
1
投稿日: 01/12/19 07:31
>199
1.「住民自治」の部分については、郷鎮レベルの他、県級でも実験的に進められている
段階と言えます。ですから、中国の「自治」において「住民自治」の要素が全く無い、とまでは
言えません。しかし、省級については仰るとおりその要素は皆無に近いです。
「民族自治」の「自治」の場合、むしろ分離権・自決権の否定というある種ネガティブな意味合いが
含まれると言うべきかもしれません。
2.たとえば上海閥とは、江沢民が上海に赴任している最中に築かれた個人的人脈を基にして形成された、
中央における政治的集団と言うべきです。
そのため、民国軍閥とは質が違いますし、また、上海人であるから江沢民を支持するということも、
比較的その色合いは薄い、と言えるでしょう。
3.アズマさんが指摘された中央と地方の関係とは、上海閥・北京閥の争いとは別に、
各地方が各々の利害の考慮(地方主義とも言えるかもしれません)に基づいて動く状況を
指します。
以前、僕が書き込みをした通り、中央から派遣された高官であっても、結局は地方の利害を
考慮して行動せざるを得ないわけです。その際たるところは、広東省など東部沿海地域と言えるでしょう。
回答としては雑ですが、とりあえずはこんなところです。
201 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/24 03:39
あげ
202 名前:
1
投稿日: 01/12/28 00:24
これから、時々ですが、軍閥(あるいは軍閥内の軍人・政治家)について、
5,6行程度の略歴を書き込んでいこうと思っています。
皆さんも紹介したい人物があったら、ぜひ、それくらいの長さで書き込んでいってください。
まず今回は・・・。
唐継堯(1883〜1927)
雲南省会澤出身。清末に日本へ留学し、陸軍士官学校第六期生として卒業。帰国後は雲南陸軍講武堂の教官となったが、
雲南重九起義(辛亥革命)の首謀者の1人として蔡鍔を支える。
民国成立後は貴州を攻略し、1913年に蔡の後任として、雲南都督に任じられる。二次革命では袁世凱に与したが、
袁が皇帝を僭称すると、蔡鍔らと結んで護国戦争を発動する。これにより、以後の唐は、南方派の最有力指導者と目された。
その後唐は、北方政府と対抗しながら四川・貴州に勢力を拡大したが、地元軍閥の反撃や部下の兵変を受けて衰退していく。
さらに、孫中山や蒋介石にも非協力的な態度を取り続けたため、1927年に部下の竜雲らのクーデターを受けて失脚し、間もなく病没した。
203 名前:
1
投稿日: 01/12/28 00:26
↑改行も変ですし、5、6行になってませんでしたね・・・。
失礼しました。今後は改めます。
204 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/28 02:03
似たような名前の(唐生智)
1937年の南京攻防戦の守備隊長。彼がしっかりした
人物だったら、日本軍の悪評も避けられたかもしれない。
湖南軍閥の出身で、早くから国民革命軍に身を投じ、
第8軍をひきいて北伐戦で活躍した。蒋介石の直系では
ないが、弟分として重きをなし、軍事参議院長、訓練総監
を歴任した長老級将領の一人だった由。
年令、その後の運命は解らない。
205 名前:
1
投稿日: 01/12/28 03:21
>204
南京後の唐生智は、自ら軍の地位から退いて隠棲します。
その後、国共内戦の終盤に国民政府を見限り、
当時の湖南省政府主席程潜(旧湖南軍閥)とともに、湖南起義を主導し、
共産党側に帰順しました。
新中国では、全国政治協商会議や湖南省人民政府などで要職に就き、1970年に病没。
(何故か日本では、南京陥落後に蒋介石に見せしめで処刑されたとの風説が信じられてました)
唐生智が南京攻防戦で戦意に乏しかったのは、
蒋介石が戦力温存のために、直系以外の軍閥部隊を楯に使ったことを承知していたのも
一因と言われてます。
差出口、失礼しました。
206 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/28 14:24
傳作義(1895−1974)…1919年保定陸軍軍官学校卒業、閻錫山の山西軍に入隊。
反蒋戦争に参加したが、敗北。31年には国民政府により第7軍長に任命され
35年には国民党中央執行委員、36年には百霊廟で関東軍と交戦。
抗日戦争中は八路軍と良好な関係であった。
国共内戦では華北剿匪総司令となったが、共産党の和平条件を受諾。
北京へ無血入城させる。
たしか内モンゴルに関する論文があったはずだが、今見つからないので
また今度。
207 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/28 17:00
唐生智も同じ軍学校ですね。
黄埔軍校は1924年なので、保定陸軍軍官学校は北洋新軍の
学校でしょうか?
208 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/30 00:53
(唐生智改)
1889年湖南省の生まれ。南京事件の時は,48才くらい。
保定陸軍軍官学校卒業。辛亥革命後の湖南省では譚延ガイ、
程潜,趙恒タが覇権を争ったが、唐生智は趙恒タに組し
湖南省南部に地盤を築いた。そして省長に就任して趙恒タを
追放し省都の長沙に覇権を確立する。北伐時、国民政府、
呉佩孚と両面交渉し、国民政府につく。
第一次国共合作ごろ、蒋介石と勢力を争うほどだったらしい。
209 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/30 01:38
こういうものがあるのは、勉学のために良いことなのか?
悪いことなのか?
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chuushi15.html#200
210 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/30 02:51
(陳とう明)
この人はなかなか興味深い。
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~saga/yowa12.html
211 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/30 20:17
>>209
これ便利ですね。
お気に入りにいれとこ。
>陳とう明
陳炯明(ちんけいめい)ですね。
212 名前:
@名無しさん
投稿日: 01/12/31 00:53
>陳けい明 ありがとうございます。
ついでにもうひとつ。彼の軍隊の名前が奥と号の合わさったような字が
読めないのですが?
213 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 01/12/31 01:42
出るかな?
粤(えつ)=広東のことです。
214 名前:
1
投稿日: 02/01/03 14:04
明けましておめでとうございます。
このスレも無事年を越せて、立てた人間としては一安心です。
さて、今回の人物は既出で申し訳ないのですが・・・。
繆嘉銘(1894−1988;雲南軍閥・政治家)
雲南省昆明出身。字は雲台。雲南軍閥を支えた有能な経済官僚。
若年時代にアメリカへ留学し、ミネソタ大学で鉱山技師の資格を獲得。帰国後は竜雲の部下して起用された。
まずは、雲南省産の錫精製の技術改良を手がけ、この錫を国際市場で通用する水準に引き上げる。
これ以後、錫はアヘンに代わる雲南の主力輸出品となった。
その後も、雲南省経済委員会主任や富テン(水+眞)新銀行主任として、省の財政に辣腕を振う。
一方で民主党派や共産党とも親しく、雲南地方主義者であった。竜雲が蒋介石に拘束された際は、抗議の意思を示している。
国共内戦期は竜雲の後継者である盧漢を支え、内戦後は国共双方の誘いを固辞し、アメリカへ移住している。
「改革・開放」が始まった1979年に、大陸へ戻り、全国政治協商会議で要職を務めた。
>210−212
陳炯明は、最近までは孫中山を裏切ったために、国共双方からほとんど国賊扱いの評価でした。
ただ、最近はその政治思想や行動について再評価の動きがでてきています(大陸での話ですが、台湾はどうでしょう?)。
彼が作った「中国致公党」は、現在でも民主党派の1つとして存在しています。
215 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/03 16:04
厨房質問も申し訳ない。
軍閥って、全部でいくつあるんですか?
216 名前:
1
投稿日: 02/01/03 16:39
>215
回答としては、無数としか言えませんね・・・。
僕は、分かりやすいように敢えて省で区分することもやっていますが、
複数の省にまたがって活動した軍閥もありますし、
軍閥の定義も色々あります。
軍閥の中に小軍閥が存在するとも言えますし(奉天系軍閥などは好例)、
人によっては蒋介石や毛沢東(あるいは国民党軍や共産党軍)だって軍閥と言えます。
答えになってないかも知れませんが、とりあえずはこんなところで。
217 名前:
1
投稿日: 02/01/04 00:34
>185の戦国・三国志版「■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■」
のリンク先が変更されてましたので、以下に修正しておきます。
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1005659817
218 名前:
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1
投稿日: 02/01/04 19:23
1さん、ありがとうございます(^ ^)。
この時期の人物は、あれ?登場してないかしら・・・(^^;)
曽国藩は近代というより近世の人だし・・・
ヒエー、袁世凱も孫文も誰も登録して無いヨー(;;)
個人的にはちょっと時代が下がるんだけど、
汪兆銘という人に興味を持ってます。
あ、軍閥スレなのに、この人、軍閥のバックを軽視してたのが
失敗の原因とか聞いたことあるんですけど・・・
ああああすれ違いか・・・(T△T)
219 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/04 20:03
李済深は最後どうなったんでしたっけ。
220 名前:
215
投稿日: 02/01/04 21:42
>>216
うーん、なるほど。そうですか・・・・
では各省ごとの代表的な軍閥だけでも一覧はないでしょうか?
221 名前:
1
投稿日: 02/01/04 22:01
>215
少し冷たい回答で、すみませんでした。
お詫びとなるか分かりませんが、以下に
北洋政府期と国民政府期のそれぞれについて、
大雑把に代表的な軍閥を整理しておきます。
訂正・追加してくださる方がいたら、幸いです。
222 名前:
1
投稿日: 02/01/04 22:24
<北洋政府期>
a.北洋政府側
@安徽軍閥(段祺瑞)
A直隷軍閥(馮国璋→呉佩孚、曹コン(金+昆))
⇒<独立>国民軍(馮玉祥)
B奉天軍閥(張作霖)
b.南方政府側
@広東軍閥(陳炯明)
A広西軍閥(陸栄廷)
B雲南軍閥(唐継堯)
C貴州軍閥(劉顕世→袁祖銘)
c.中立・その他
@山西軍閥(閻錫山)
A四川軍閥(熊克武・劉存厚・劉湘・劉文輝.etc)
B湖南軍閥(趙恒タ・程潜.etc)
B西北軍閥(馬福祥)
C新疆軍閥(楊増新)
※なお、軍閥の名称については、できるだけ地域名でつけました。
僕の独断でつけた名称もあり、歴史研究で実際に使われてるものとは異なるものもあるのは、
ご了承ください。
223 名前:
1
投稿日: 02/01/04 22:35
<国民政府期(抗日戦まで)>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B河南軍閥(馮玉祥)
⇒<独立>山東軍閥(韓復)
C東北軍閥(張学良)
D広東軍閥(陳済棠)
E雲南軍閥(竜雲)
F湖南軍閥(唐生智・何鍵)
G貴州軍閥(周西成→王家烈)
H四川軍閥(劉湘・劉文輝・ケ錫侯・楊森.etc)
I西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓.etc)
J新疆軍閥(金樹仁→盛世才)
とりあえずはこんなところでしょうか。
各軍閥の内部構造については、できるだけ省略しました。
224 名前:
1
投稿日: 02/01/04 22:47
>218
こちらこそ、ありがとうございます。
汪精衛(兆銘)は、やはりあくまで政治舞台にこだわりすぎたのが彼の敗北の一因でしょうね。
最後に侵略者の日本を頼らざるを得なかったのは、悲惨としか言いようがない・・・。
>219
李済深は、国共内戦期に「中国国民党革命委員会(民革)」を組織し、
反蒋介石の旗幟を明確にしました。
その後は大陸に留まり、政治協商会議副主席を務め、1959年に病没(享年74歳)。
「民革」は、現在でも民主党派の1つとして存在しています。
225 名前:
1
投稿日: 02/01/05 08:19
>206
傳作義は元々閻錫山配下でしたが、
1931年以降綏遠省政府主席などに任じられ、抗日戦に従事している内に、
徐々に独自の行動をとり始めました。
抗日戦終結時には、綏遠・察哈爾方面はほとんど彼の勢力範囲となった、と言って良いでしょう。
北京開城後は、自分の部下であった綏遠省政府主席董其武に連絡し、共産党側につかせています。
新中国では、政治協商会議で要職を務めたほか、水利電力部長などにも就任しました。
元軍閥指導者にしては珍しく、新中国でも内政の実務でポストを得た人です。
226 名前:
1
投稿日: 02/01/05 08:25
>222−223の表に少し追加します。
<北洋政府期>
c.中立・その他:D福建軍閥(薩鎮冰)
<国民政府期>
四川軍閥⇒<分離>西康軍閥(劉文輝)
227 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/06 09:18
軍閥と列強の関係ってどんな感じなんでしょうか?
通史なんかの記述では「軍閥闘争は列強の代理戦争」なんて書かれてますが、
軍閥側からの視点ではどういうふうにとらえられると思いますか?
228 名前:
1
投稿日: 02/01/06 15:38
>227
軍閥にとっては、支配地域の経済建設を進める上でも、自軍の強化の上でも、
外資はやはり欠かせなかったでしょう。
各軍閥で差はあるにしても、
概ね「背に腹は変えられない」という気持ちで列強と接したはずです。
もっとも、軍閥の指導者自身にしても民族主義的なプライドは持っていましたから、
どんなに列強と結びついていても、その「代理人」や「走狗」と見なされるのは嫌悪しています。
また、政権や軍隊内部、社会の各階層から起こるナショナリズムの動きにも配慮しなければならなかったので、
列強に依存しすぎるのも、軍閥にとっては危険だったと言えます。
229 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/07 22:07
左宗棠(さそうとう)
1.湖南省出身の湘南軍の勇将。曽国藩の部下だが独自に分派を形成。
太平天国から抗州(広州でないか??)を奪還。
福建で清国洋式船第一号を建造。
新彊省イリに遠征し回族の反乱を押さえ、ロシア軍の浸入を阻止。
2.別記
1812−1885
湖南省湘陰の人。挙人。湖南で太平軍と戦って名をあげ軍人として
成長した。性格は強く知恵があり、軍事的な才能と知識が豊かで
あったから、進士のタイトルが無いのに浙江巡撫、ビン(門と虫)浙
総督、陝西総督などを歴任し、その間、福州船政局を創設したり、
陝西、東トルキスタンの回民反乱を鎮圧したり、多方面で活躍した。
新彊は彼の遠征によって新設されたものである。李鴻章がロシアなど
外国に接近し融和政策をとったのに対して、彼は中国の領土を守り
抜くことを主張した。
予備知識が無かったが、知れば知るほどたいした人だ。
中国へのロシアの侵略はもっと注目する必要がありそうだ。
230 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/08 14:06
ほんと、このスレって偉大ですよね。
このスレ読んでから軍閥に興味が出たんで
知人(歴史学博士 中国史専攻)に
軍閥の話をしたら、
「その話は尽きないよー」っていわれたんですが、
ドシロートとしてどんな質問すりゃいいんでしょう?
厨房質問ですんません。
231 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/08 16:34
軍閥ってどうやったらなれるの?
232 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/08 19:31
>229
左宗棠は、最近では国防の英雄として評価が高く、大陸でも専門に研究している書が出ていますね。
太平天国との絡みで、大陸では中々手放しに評価しにくいところもあるようですが、
やはり中国で軍の近代化を担った人物であることは、確かです。
>230
このスレで軍閥に興味を持っていただけたなんて、本当に嬉しいです。
さて、ご質問の方ですが、まず御自身の興味のある分野から質問していけばよろしいのでは?
「○○ってどんな人?」でもいいし、「○○軍閥って強いのか?」とか、
どんな些細な質問でも良いはずです。
その知人の方も、軍閥について話すのが好きなはずですから。
>231
多分、>230の方へのレスですよね(それも質問としては○です)?
一応、僕も回答を少し示しますと、
主要なパターンとしては、@団練あるいは新軍の指揮官A馬賊や匪賊の首領B軍閥内で兵卒から昇進、
でしょう。
あとは、支配地域の政治機構や軍隊を、自分の息のかかった人間で固めてしまえば、軍閥(政権)の完成です。
大雑把過ぎる説明ですが・・・。
233 名前:
1
投稿日: 02/01/08 19:32
↑スミマセン、名無しになってしまいました。失礼・・・。
234 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/09 02:27
本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)209〜210ページから。
<私は毛沢東のいわゆる「盲従分子」では全くないけれど、学生時代から彼の著作を
読んだり行動を伝聞して感心するのは、あのイデオロギーとしてのマルクス・レーニン
を、完全に「中国の論理」の中へ組み込んで生かしている点です。彼の真の強さは、
ここにあると思っています。>
『朝日キーワード別冊・国際(新版)』186ページから。
<文革は、一般に62年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の「絶対に階級と
階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発したとされる。>
<文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動という二重の性格があり、悲劇は
拡大した。文革中の奪権闘争や武闘では、約2000万人の死者が出たともされている。>
本多勝一『ルポルタージュの方法』(朝日文庫)221ページから。
<毛沢東には最近中国でも批判が出ているようですが、あれだけの巨大な仕事をした
人には、何といっても学ぶべきところが多いし、『実践論』は古典になるでしょう。>
『岩波現代中国事典』「文化大革命」の項(1106〜1108ページ)から。
<66年、毛沢東の主導により発動された文革は理論面、情勢判断などについて大きな
問題があり、理想の社会主義国家建設の目的も実現せぬまま、76年毛沢東の死をもって
終結した。>
<10年にわたった文革は、中国の政治、経済、社会、文化のすべてにわたって重大な
打撃を与えた。>
<おそらくその正確な数を捕捉することは不可能であろうが、一般には死者1000万人、
被害者1億人といわれている。>
本多勝一『中国の旅』(朝日文庫)の「あとがき」から。
<学生時代からその著書を愛読した毛沢東主席も、どちらかといえば不遇な晩年のうち
に亡くなりました>
本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)283ページから。
<「殺す側の......」といっても、視点はもちろん「殺される側」にありますから、>
本多勝一『殺される側の論理』(朝日文庫)291ページから。
<美しい理想を原則とし、かつ実行する政権>
ナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー』(めこん)46ページから。
<六月二一日、ポル・ポトは、そのイデオロギー面での教師である毛沢東から、英雄
としての歓迎を受けた.「われわれが中国の大衆を全部動員しても成しえなかったこと
を、君たちは一息にやりとげた」と、毛沢東は顔を輝かせて聞き入る彼の弟子に言った。>
235 名前:
1
投稿日: 02/01/09 07:39
今回は竜雲について、もう一度簡略を書いておきます。
竜雲(1887?−1962;雲南軍閥・指導者)
雲南省昭通出身。彜族。
1911年に四川省の民軍で反清蜂起に参加した後、四川へ遠征してきた雲南軍と共に昆明へ戻り、雲南陸軍講武堂で学習。
唐継堯の下で軍歴を重ね、1921年に顧品珍が唐に反旗を翻した際、唐を助けて顧を倒した。
その功績により、唐継堯配下の四鎮守使の筆頭格となったが、1927年2月、他の鎮守使と共に唐をクーデターで倒す。
1928年1月、蒋介石から雲南省政府主席に任命され、以後、他の鎮守使からの攻撃や、貴州軍閥周西成、四川軍閥劉文輝の侵攻に遭うも、
これを全て退け、1930年に雲南を統一。以後、1945年10月まで竜雲の雲南支配が続く。
当初は蒋介石一辺倒の政治姿勢だったが、抗日戦争時から民主党派・共産党にも接近し、また、汪精衛とも脈を通じた時期もあった。
抗日戦中に蒋介石が雲南の利権を侵食したため、抗日戦末期には深刻な対立状態となった。1944年には、竜雲は民主党派の1つ「民盟」に秘密加入している。
1945年10月、蒋介石配下の軍から襲撃を受け、雲南の支配者の地位を失う。その後、軍事参議院院長という閑職をあてがわれたが、事実上重慶で軟禁状態となる。
1948年末に、「フライング・タイガー」で有名なシェンノートの援護を受け、香港へ脱出。1949年1月に李済深と共に「民革」の代表者として、反蒋介石の政治姿勢を表明した。
1950年1月に北京入りし、中央人民政府委員や国防委員会副主席などの要職を務める。
しかし、後にソ連批判や民族自治批判を行ったため、反右派闘争で失脚。1962年、失意の内に病没した。
その後、1980年に竜雲の名誉は回復されている。
少し長くなってしまい、申し訳ありません。
236 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
237 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
238 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
239 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/09 14:38
なんで荒らすんだよ、せっかくの優良スレを?
240 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/09 22:47
初めまして。軍事板から来ました。私は元々旧軍に興味を持っていたのですが、現在
は何故か中華民国の軍閥軍、特に装備や服装などに興味を持っています。
1さんは色々詳しいようですのでお聞きしたいのですが、北洋政府系の軍将官らが着
用している礼服の詳細(襟や袖部分の刺繍模様、生地の色)は解りませんでしょうか?
当方色々当時の物を収集しておりまして、軍閥軍の物では将官用のサーベル(刃は切ら
れています)、勲章等をいくつか所持しています。
241 名前:
1
投稿日: 02/01/10 01:06
>240
こちらこそ、初めまして。書き込みありがとうございます。
さて御質問の件ですが、実は僕は政治史などが専門で、軍事関係(特に軍装など)はかなり疎いのです。
もう少し参考資料が無いか調べてみるつもりですが、ご期待通りの回答はできないかと思います。
申し訳ありません・・・。
ただ、このスレをご覧になってる方々の中には、民国の軍事に詳しい方もおられますので、
他の方からのレスは期待できると思います。
当時の軍装などについて、詳しいカキコをしていただければ嬉しいのですが。
ぜひ色々と教えていただきたいので、今後ともよろしく御願いします。
242 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/10 07:34
>1様
わざわざありがとうございます。軍閥軍の発行した勲章類は結構国内で出てきます。
だいたい大正時代に授与された日本軍人や政府高官の物、というのが多いです。
ちなみに、昭和17〜20年位でまだ北洋政府発行の文虎勲章という勲章を佩用して
いる軍人もいます。
国民党軍の物もよく出ますが、こちらは日中戦争の最中に戦場で拾った戦利品や、
お土産として買って来た(!)物などが多いようです。
中には内務省から防空用として国民に配布された国民党軍防毒面、という物もあり
ました。
243 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/10 13:27
(捻軍、ねんぐん)
捻党、捻匪とも。清末、太平天国とほぼ同時期に、河南、安徽、
山東を中心に農民反乱を起こした集団。捻は仲間や集団の意。
当初、塩の密売や盗賊行為を働く集団だったが、黄河の決壊、
淮水の氾濫,飢餓などにより活動が活発化し、農民を巻き込んで
反乱を起こし、太平天国軍と呼応して戦ったが1860年代末
には壊滅した。
244 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/10 18:52
(郷勇きょうゆう)
清代、地方有力者が編成した民間の武装組織。地域の犯罪防止や
盗賊に対する備えから、外敵の侵入や反乱に対し官軍戦力の不足を
補うものまであった。特に太平天国の乱に対し曾国藩らは計画的に
郷里で郷勇の編成と訓練にあたり、郷土防衛にあてるとともに、
積極的に前線に投入して戦果をあげた。これは湘勇とよばれた。
(湘は湖南省の別名)。また李鴻章の淮勇(淮は淮河流域)も著名
であり、のちに近代的な装備を備えた淮軍(陸軍)となった。
245 名前:
1
投稿日: 02/01/10 22:21
>242
「世界の軍服」(婦人画報社、1971年)などを見てみたのですが、
北洋政府軍人の礼服は載ってませんでした。
中国語文献の方をもう少しあたってみます。
>243、244
捻軍は太平天国と共に崩壊しましたが、民間の秘密結社などはその後も会党などの形で
残り、清朝打倒の一翼を担いました。郷勇は、淮軍から袁世凱が現われたことを考えれば、
軍閥の源流と言える存在ですよね。
246 名前:
1
投稿日: 02/01/11 00:20
軍閥リスト(>222-223)の訂正版と、国民政府期のリストを掲示します。
<北洋政府期>
a.北洋政府側
@安徽軍閥(段祺瑞)
A直隷軍閥(馮国璋→呉佩孚、曹コン(金+昆))
⇒<独立>国民軍(馮玉祥)
B奉天軍閥(張作霖)
b.南方政府側
@広東軍閥(陳炯明)
A広西軍閥(陸栄廷)
B雲南軍閥(唐継堯)
C貴州軍閥(劉顕世→袁祖銘)
c.中立・その他
@山西軍閥(閻錫山)
A四川軍閥(熊克武・劉存厚・劉湘・劉文輝.etc)
B湖南軍閥(趙恒タ・程潜.etc)
C西北軍閥(馬福祥)
D新疆軍閥(楊増新)
E福建軍閥(薩鎮冰)
247 名前:
1
投稿日: 02/01/11 00:25
<国民政府期(抗日戦まで)>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B河南軍閥(馮玉祥→宋哲元)
⇒<独立>山東軍閥(韓復)
C東北軍閥(張学良)
D広東軍閥(陳済棠)
E雲南軍閥(竜雲)
F湖南軍閥(唐生智→何鍵)
G貴州軍閥(周西成→王家烈)
H四川軍閥(劉湘・劉文輝・ケ錫侯・楊森.etc)
⇒<分離>西康軍閥(劉文輝)
I西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓・馬仲英・楊虎城.etc)
J新疆軍閥(金樹仁→盛世才)
※>246の一行目、×国民政府期→○国共内戦期です。失礼。
248 名前:
1
投稿日: 02/01/11 00:37
<国共内戦期>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓)
C四川軍閥(楊森・ケ錫侯・潘文華・王纉緒)
D西康軍閥(劉文輝)
E湖南軍閥(程潜)
F雲南軍閥(盧漢)
G綏遠軍閥(傳作義)
※訂正・追加・異論ありましたら、よろしく御願いします。
249 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
250 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
251 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/12 13:47
ま、レトリックの好きな学生さんは政治思想板に山ほどいるが、
一般常識で削除するものはさっさと削除ですな
252 名前:
1
投稿日: 02/01/12 19:59
>242
すみません。色々調べてみたのですが、
残念ながら僕の方では分かりませんでした。お役に立てず、申し訳ありません。
勲章類が日本の軍人に授与されたというのは、
それは北洋政府などが直に与えたものなのでしょうか?
多くの日本人の軍事顧問が、民国時代に大陸で活動していたことは知っているのですが。
あと、軍閥の軍隊は中央政府に比べると弱い、というイメージがありますが、
軍閥が自己改革をやったところでは精強な軍隊を擁していたケースもあります。
李宗仁が権力を握ってからの広西軍閥などは好例でしょう。
253 名前:
242
投稿日: 02/01/13 19:50
>1
わざわざ調べていただき、ありがとうございました。お手を煩わせたようで申し訳
ありません。
北洋政府から日本の軍人に授与されたのは、おもに文虎勲章と言われる勲章です。
文官も主に嘉禾勲章を授与されています。
日本と北洋政府は友好関係が深かったので、軍事顧問以外にも駐在武官や、視察
など色々な業務で訪れた軍人や文官に対し比較的簡単に授与していたようです。
ちなみに中華民国の軍や政府の首領は勲章を貰うより、勲章を発行し他人に授与
する事でおのれの権勢を誇るのが好きでしたので、北洋政府以外にも国民党系政
府、各地方政権、軍閥発行の物もいれると恐ろしい種類(600種程と言われま
す)の勲章が発行されています。正確な種類は中国の方でも解らないそうです。
ています。
254 名前:
1
投稿日: 02/01/13 20:50
>253
書き込み、ありがとうございました。
民国時代の紙幣・貨幣のコレクターが、
最近は日本でも少しずつ増えてきているそうですが
(ちなみに、僕も興味をもっています)、
勲章を集めるのも、なかなか面白そうですよね。
国民政府中央だけでなく、地方軍閥まで独自に出している辺り、
紙幣・貨幣と同様なのは興味深いところです。
勲章にしろ、紙幣・貨幣にしろ、その発行は権力の象徴の1つと
言えるのかも知れませんね。
255 名前:
1
投稿日: 02/01/14 18:28
もう少し、雲南軍閥の人物紹介を続けます。
盧漢(1896-1974;雲南軍閥・指導者)
雲南省昭通出身。彜族。竜雲の族弟。
若年時代から竜雲と行動を共にし、1914年に雲南陸軍講武堂を卒業し、唐継堯の下で軍歴を重ねる。
1927年に唐継堯失脚後、竜雲は同僚で政敵だった胡若愚の攻撃を受けて一時捕縛される。
この時、盧漢は竜雲軍の残部をまとめ上げてを胡若愚を破り、竜を奪回した。
その後も盧漢は軍政両面で竜雲を補佐し、雲南軍閥No.2の地位を固める。
雲南近代化への熱意が強く、改革意欲の旺盛な省内若手軍人・経済官僚の支持を集めていた。
1937年に、自らの手で育て上げた国民政府第60軍を率い、台児庄戦役で日本軍を苦しめている。
その後、1945年には第一方面軍総司令となり、ベトナムでの日本軍降伏受諾事務を担当した。
同年に竜雲が失脚すると、後任の雲南省政府主席に任じられたが、
蒋介石の統制には容易に服さなかった。1949年、国民政府を見限って共産党側へ内応する。
その後は北京に移り、全国政治協商会議や国防委員会などの要職を歴任し、1974年に病没した。
256 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/16 18:01
(哥老会かろうかい)
哥弟会、弟兄会とも。清末中華民国初期の秘密結社(会党)。
民国以後天地会と合流して洪門会あるいは紅ばんともよばれた。
活動の主な基盤は農村地域であり、流民、下層民を吸収して勢力
を拡大した。「滅満興漢」を掲げ、また地主や官僚に対して暴動
を組織し、排外運動(仇教運動)にも加わった。孫文ら革命派の
武装蜂起で重要な役割を演じ、辛亥革命後、幹部は軍政面の重職
に就いたが、民衆の基盤を失い、孤立分散化した。
257 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/16 18:20
(丁汝昌、ていじょしょう)
清末の海軍軍人。安徽省の人。淮勇に参加して捻軍と戦った。
1877年以降李鴻章のもとで、北洋水師の創設に参画、82年
壬午(じんご)政変に際し朝鮮へ出動、大院君を天津に連行した。
88年以後海軍提督として北洋艦隊を指揮、日清戦争中、黄海海戦
で敗北し、95年2月威海衛陥落時に服毒自殺した。
258 名前:
1
投稿日: 02/01/16 20:46
>256、257
哥老会は会党の代表的存在ですよね。孫中山も革命の際にはこれらの政治勢力を
利用したのですが、革命後は反動化するものまで現われてしまいました。
丁汝昌は軍人としての責任感は強かったようですが、惜しむらくは近代的戦術への
理解が乏しかったところですね。
ちなみに海軍出身の民国軍閥としては、薩鎮冰(福建軍閥)いう人物がいます。
皆さん、sage進行への御協力ありがとうございます。
もう少し様子を見てから、このスレはageようと思っています。
259 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/17 17:27
(正装の軍閥写真について)
池田誠他著。図説中国近現代史。法律文化社
この本は絵が多くて参考になりました。
軍閥将軍の写真がいろいろ載っていました。
歴史の人物も写真で顔を知っていると親しみが
違いますね。
260 名前:
242
投稿日: 02/01/17 20:37
>>259
情報ありがとうございます。早速本屋に注文してきます。絶版にはなっていないです
よね?
>>254
1さん、最近の民国コインや紙幣は偽物が多いので注意が必要です。勲章でさえ偽物
が出回っていますので。知り合いの業者がコインを仕入れたら1/3は偽物だったと
がっかりされていました。
261 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/17 21:49
>260
民国のコインや紙幣は偽物が多いことは聞いていたのですが、
業者の人が仕入れてもそのような状況なのですか・・・。
紙幣にも、オールドコピーのようなものがありますし。
そう言えば、民国銀幣で人気がある貴州省政府のコイン(車図柄)は、
貴州軍閥の周西成が作ったものですね。
本物は日本円で7万円前後(或いはもっと?)ぐらいするのですが、
模造品がかなり出回ってますよね(模造品は僕も持ってますが)
・・・って、スレ違い?
262 名前:
1
投稿日: 02/01/20 11:05
>261で書いたので、今回の人物は周西成にします。
周西成(1893−1929;貴州軍閥・指導者)
貴州桐梓出身。貴州新軍の募兵に応じて兵卒となり、1913年に貴州講武学堂に入学。
1914年、国民党に入党し、以後貴州軍内で順調に昇進した。
この間、桐梓系と呼ばれる貴州軍閥内の一グループを形成し、そのリーダーとなっている。
1926年、袁祖銘に取って代わる形で貴州省長(後、政府主席)の地位を得、貴州の支配者となった。
統治期間は極めて短かったが、周西成の内政は堅実で、省の財政や社会情勢は比較的安定した。
1927年、唐継堯死後の雲南の混乱に介入しようと図ったが、雲南軍閥竜雲の反撃を受けて敗退。
その後、李宗仁に与して蒋介石に反旗を翻したが、蒋の命を受けた竜雲に貴州へ侵攻されて敗死した。
高官となってからも、常に戦線の最前線に立ち続けた猛将だったという。
263 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/21 18:52
{北洋軍閥の成立を軍事訓練を中心に考える}
(新軍)
清末の洋式陸軍。新建陸軍の略。1894年清朝は軍の近代化に
着手、翌年天津に定武軍を設け、日清戦争後新建陸軍と改称し、
その後新軍は各地で編成されるようになった。新政が始まると
1903年に練兵処を設置し、05年陸軍軍制を制定し、全国に
36鎮(師団)の配置を計画した。北洋新軍は袁世凱の権力基盤
となり、のちに北洋軍閥を形成したが、地方の新軍の将兵には
革命派が増加し、辛亥革命では清朝に対する各省の光復(独立)に
重要な役割を果たした。 続く。
264 名前:
263
投稿日: 02/01/21 19:48
(以下の雑記にはアイマイな点がある)
1.1885年李鴻章は天津でドイツ人教官を招聘して洋式陸軍教育
を行った。10年間あったらしい。武備学堂。
2.1895年袁世凱が小站で軍近代化の人材を集めた時、段祺瑞、
馮国璋、段芝貴、陸建章、張懐之、曹こん、李純などがいた。
彼等は全員武備学堂の出身者か?
3.除世昌と唐招儀は2の連中の管理者だったのか。
4.北洋軍は小站時代(1895−99)
直隷総督時代(1901−07)の間に5千人から6万人になった。
5.李鴻章が淮軍に洋式訓練をしたというのはこれとは別か?
6.これらの学校は兵隊の訓練より士官の養成所なのだろう。
7.1906年ごろ保定軍官学堂というものが出来たらしい。これと
上記の学校の関係が不明。
その頃、蒋介石は日本の士官学校に留学したかったが保定の
推薦が必要で1年位いったらしい。
直隷総督は夏は天津に冬は保定にいたらしい。
(全体の印象として北洋軍閥は利権集団というより学閥の感じが
する。しかしながら、地域、親戚関係などが中心になりやすい
中国の集団としては、プロの職業集団の印象をうけた。
これがうまく成長すればインドネシアのスカルノやエジプトの
ナセル、韓国の軍事政権のような集団になった可能性を考えた。)
265 名前:
1
投稿日: 02/01/22 20:37
>263-264
北洋軍閥は、1903年、清朝中央に新設された練兵処の第一次官に袁世凱が任命されてから、
急速に形成されていったものです。
袁世凱は、練兵処の実権を握ることによって新軍の組織を主導し、
京旗常備軍一鎮、北洋常備軍五鎮にまでしました。
この六鎮については、袁世凱自身の手によって育成された軍人たちが、
師団長クラス(統制官あるいは鎮統)に任命されています。
北洋軍閥はこのように、全国レベルで形成された軍閥だったため、
地域・親戚関係の優先度合いが薄まる傾向だったのは事実でしょう。
それが、学閥(武備学堂)の印象を与える要因だと僕は考えています。
余談ですが、最近では、袁世凱の軍事近代化に対する思想や施策などについては、
大陸においても評価する動きが出てきています
(劉子明『中国近代軍事思想史』江西人民出版社、1997年など)。
266 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/22 22:51
今の7軍区も軍閥なの?
267 名前:
1
投稿日: 02/01/22 23:17
>266
「現在の軍区は軍閥状況だ」と主張する人も見かけますが、これには疑問があります。
現在のところ、軍区上級幹部の人事については国家中央によって把握されています。
また、地方の政治経済上の区分(一級行政区)と軍区の区分にはズレがあり、
少なくとも今の時点では両者が結合するのは困難です。
以上のような状況では、「軍区=軍閥」とは言えません。
その一方で、最近では、広東省や広州軍区などの経済的に富強な地方の動向に、
中央政府が神経質になっているのも、また事実です。
268 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/23 22:57
黎元洪(1866〜1928) (れいげんこう)
字は宋卿。湖北省黄陂の人。1883年、天津の北洋水師学堂に入学した。
1888年に卒業し、海軍に入った。日清戦争に従軍。のち張之洞のもと
砲兵の練兵にあたった。新軍の編成に参与し、また日本に留学した。
1911年、湖北新軍の旅団長であったとき、辛亥革命に遭遇。
推されて湖北軍政府を掌握した。翌年、南京臨時政府が成立すると
臨時副総統となる。進歩党を組織し、袁世凱を擁して国民党と対立した。
湖北において第二革命を弾圧し、革命派の人士や兵員万余人を殺害したといわれる。
袁の死後の1916年、北京政府の大総統となったが、国務総理・段祺瑞と対立し、
翌年には府院の争を起こして段祺瑞を解任した。しかし、張勲の復辟事件が
起こったため辞職した。1921年に再度大総統となったが、1923年曹錕に追われて
下野した。1928年天津で病没した。
269 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/24 09:13
辛亥革命の時孫文の周囲にいた軍事勢力について
教えてください。
270 名前:
1
投稿日: 02/01/24 19:22
>269
辛亥革命発生時点では、孫中山(孫文)はアメリカ亡命中だったので、
彼が頼れる武力は皆無に等しかったと言えます。
辛亥革命を主導したのは各省の新建陸軍(新軍)で、
孫中山の影響下にあった軍はほとんどありませんでした
(もちろん、黄興ら革命派が率いる部隊もありましたが)。
更に、現実に清朝を滅亡に追いやるためには、袁世凱と北洋軍閥の力無くしては不可能でした。
このような状況だったため、武力の無い孫中山が、
後に大総統の地位を袁世凱に譲らなければならなかったのは、当然だったと言えます。
ちなみにその後も、孫中山の革命の戦術は、軍閥の煽動・利用にとどまっています。
彼が固有の武力を持つのは、以前僕が書き込みましたように、黄埔軍官学校設立以後です。
271 名前:
1
投稿日: 02/01/26 00:35
ageついでに、人物紹介をします。再び雲南軍閥です。
張沖(1890-1980;雲南軍閥・軍人)
雲南省濾西出身。彜族。若年時代は省内で匪賊として活動していたが、1924年に唐継堯に
降伏してその配下となる。以後、雲南軍で順調に出世し、竜雲の配下として、1930年には師長
(師団長に相当)まで出世する。同年に盧漢と連合で竜雲へ謀反して失敗したが、ほとんど罪を
問われず旅長への格下げに留められた。その後、雲南塩運使に任命され、塩業の発展に大きく
貢献した。
その後、1937年に盧漢配下の師長として抗日戦の前線に立ち、台児庄で勇戦奮闘する。各地を
転戦したが、抗日戦争終結後に延安へ向かい、共産党に加入。東北地方で雲南軍を共産党側に内応
させる工作に従事した。
中華人民共和国建国後は、全人代代表や全国政協副主席などの要職を務め、また、雲南省では
水利事業や民族政策に取り組んでいる。
272 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/26 00:43
今の中国にも跳梁跋扈してるもんね・・<軍閥
こいつら独立した方が分かり易いんだが。。w
273 名前:
1
投稿日: 02/01/26 00:58
>272
現在の中央政府が、軍が独自の動きをすることに警戒しているのは事実ですね。
ただ、軍閥化しているかどうかとなると、>267で書いた通り、疑問符が付きます。
中央から派遣されてきた軍区の高官が、軍区の利益に沿って動かざるを得なくなる、
という事情があるにしても、それは民国(あるいはそれ以前の)軍閥とは異質な状況ですし。
また、軍区が中央政府から独立する可能性となると、軍閥化よりも更に可能性は低いですね。
(偉そうな言い方でスミマセン・・・)
274 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/26 01:10
>>273
んー、過去の歴史の中で、中央が地方長官の任免権を握って、
中央集権国家になったこともあるけど、結局はミイラ取りがミイラになってない?
清のころだって、それを目指してたはずなのに、中央の統制が少しでも弱くなると・・
300年かかっても出来ないんだから・・持病って見ても良いと思ふ。
まぁ、「軍閥」って言うには無理があるけど、中央と地方の経済力の差が
もっと健著になったら、軍閥化しないとはいえないと考えています。
275 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/26 01:12
お手数ですが、1さんの人物紹介読み方を書いていただけると
参考になります。
276 名前:
1
投稿日: 02/01/26 01:24
>274
確かに、中国の歴史から見ればそうですね。
「表面は中央集権、実質は地方分権」という評もありますし。
中華人民共和国にしたって、建国されてからまだ50数年と考えれば、
今後も地方の統制が上手く行くという保証はありませんね。
>275
「読み方」というのは、
難しい漢字で書かれた人物や地名の日本語での読み方、のことですよね?
(勘違いでしたら、スミマセン)
とりあえず、271のところについてのみ、少し振り仮名をあてます。
張沖(ちょうちゅう)、濾西(ろせい)、唐継堯(とうけいぎょう)、
盧漢(ろかん)、塩運使(えんうんし)、台児庄(だいじしょう)
もし、以前の僕の人物紹介で、読み方が分からないところがありましたら、
いつでも指摘してください。
今後の人物紹介では、読みにくい漢字には振り仮名を当てていきます。
277 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/26 09:41
読み方ありがとうございます。ピンインのことでは
ありません。目的は、私の(は?)ワープロ漢字変換能力が低いもの
ですから、単語用例登録にかなの読み方と漢字は他の方の
コピーで、覚えさせているものですから。馮玉祥などがすぐ
でるようにしました。他の方も文字入力がすごいので驚いて
います。
278 名前:
1
投稿日: 02/01/27 01:55
>277
難字については、僕はMS−IMEのパッドを使って検索をしてるんですが、
せっかく探し当てた漢字をここに入力した途端、「?」が表示されると脱力ですね(w
「ベトナムについてのスレッド」にお邪魔して、>35のところに書き込みをしてきました。
興味がある方はご覧ください。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1010978418/
279 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/28 20:12
(曹錕)そうこん(1862−1938)
清末民国初期の軍閥。天津生まれ。清末に袁世凱の新軍に入り、
馮国璋死後直隷派の筆頭になる。1923年10月賄賂選挙で
大総統に当選し憲法を制定するが国民の信頼を失う。翌年奉直
戦争にやぶれ、馮玉祥によって幽閉された。(角川)
(別記)
清末、袁世凱の知遇を得て新軍将校となる。1917年張勲軍を
破って直隷省長兼督軍。19年から直隷派として権勢をもつ。
23年賄選という批判のなか大総統に就任、24年辞任。
引退後は天津イギリス租界に住む。天津に多くの土地、企業を
もち、当時の私有財産統計において北洋要人中第一位。天津
大沽には「曹家より高い建物は建てない」という不文律が
あった。(東方書店)
後半の人生は二つの記載で印象が違いますが?
選挙に腐敗はつきものだから、本当にその悪評で止めたの
だろうか?
そうこんの文字がIMEパッドでだすと?で、268の
レスからコピーしたら出来てその仕組みは解りません。
280 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/28 21:49
1919年の五四運動の対象となった政府の指導者は
だれですか?というのは
1918年8月新国会、徐世昌大総統。
1918年10月段祺瑞は国務総理を辞任した。
だから段祺瑞ではないのですね?
281 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/01/28 21:50
大陸では「孫中山」というテレビドラマやってるらしいね。
最近「蒋介石」をつくる、という話らしい。
282 名前:
1
投稿日: 02/01/28 23:25
>280
当時の大総統は徐世昌、そして国務総理は銭能訓です。
銭能訓については僕は詳しく知らないんですが・・・(スミマセン)。
軍人ではなく文官だったらしいですが、後でもう少し調べてきますね。
>281
3年前に僕は留学で中国にいたのですが、
その時、盧漢(雲南軍閥)を主人公にしたテレビドラマを見たことがあります。
その中でも蒋介石が登場していたのですが、
結構カッコイイ凄みのある悪役(wでした。
あと、10年近く前の話らしいのですが、
大陸では『蒋介石と竜雲』という連続テレビドラマもやってたらしいです。
283 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/01/30 00:50
孫中山に出てくる蒋介石はなかなかカッコイイらしい。
南京の総統府でちょっと前に、蒋介石のドラマをとるための
ロケをやってたらしい。
魯迅や毛沢東にかわり孫中山を重視してるみたいですなあ
284 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/30 06:33
孫中山をメインにすると、日本(というか日本人)をそれなりに好意的に
描いてくれるかなぁという妄想が。
285 名前:
1
投稿日: 02/01/30 21:46
>280
銭能訓は徐世昌腹心で、1918年10月に国務総理代行に就任し、同年12月に正式に総理となりました。
徐世昌の意を受けて、南北和平を推進し、ベルサイユ会議では南北合同代表団の結成に成功しています。
しかし、五・四運動の混乱の責任をとり、1919年6月に辞任。
・・・短期間で失脚した目立たない人物でしたが、優れた政治的手腕の持ち主だったようです。
>283、284
孫中山が主役なら、宮崎滔天や頭山満も出てきて欲しいものですね。
それにしても、僕から見ると、孫中山は経歴や思想はきわめていい加減な男に思えるんですよね・・・。
まあ、人間的には憎めませんけど(w
南京は一度だけ僕は行ったことありますが、民国に興味をもってる人間には厭きが来ない都市です。
総統府の他、中山陵、蒋公邸など・・・。もう一度行きたいなぁ・・・。
286 名前:
そんなかやま
投稿日: 02/01/30 21:54
>>285
いわゆるタイレンっちゅーやつだったんでしょうね。>孫中山
287 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/30 22:18
銭能訓についてありがとうございます。
段祺瑞は大変な時下がっていてうまいこと
しましたね。
南京は私も去年行きましたが、京都のような古都でいいですね。
上記の他にも、太平天国記念館、明考陵、雨花台、中華門、
見所が多いですね。ただ日本人が団体では行きにくいかも
しれませんね。
288 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/01/31 12:06
孫伝芳(1885〜1935)そんでんぽう
山東省歴城の人。北洋武備学堂を卒業し、日本に留学して、
1908年に陸軍士官学校を卒業した。辛亥革命後は、湖北督軍・王占元の
麾下にあった。1920年、直隷派の呉佩孚の下につき、長江上游警備総司令
・福建軍務督理などをつとめた。1924年、閩浙連軍総司令・閩浙巡閲使・
浙江軍務督理に上った。翌年、五省連軍総司令となり、南京に鎮し、
直隷系軍閥として長江流域に勢力をふるった。1926年、江西で蒋介石の
北伐軍に敗れ、天津に逃亡して、張作霖に投じた。安国軍副総司令・
五省連軍総司令に任ぜられた。1927年、李宗仁らと竜潭戦役を戦い、
軍主力を失った。残軍は閻錫山に吸収され、自らは張学良の顧問となった。
1935年に暗殺された。
南京まで北の勢力に支配されていたのには驚いた。
289 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/01/31 21:44
孫中山が反帝反封建の英雄に描かれてて萎えた、らしい>284、1さん
なんでもすぐイギリス人が出てきて戦い、封建的な人間をたしなめるらしい。
まあ、随分といい加減な人間ですわな、中山先生は。
絶対I齢にはアイソつかされて捨てられたに違いない。孔祥熙の方がそりゃあいいっす(笑)
南京なら大屠殺祈念館がやっぱり面白い。
日本語訳の部分と、慰安所の垂れ幕の写真にワラタ。
290 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/01/31 22:29
何て書いてあったんですか?
291 名前:
1
投稿日: 02/01/31 23:52
>288
孫伝芳は、直隷軍閥の有力な将帥として知られ、1925年には対立する安徽軍閥・奉天軍閥を
撃破して、浙江・福建・江蘇・安徽・江西の“五省聯軍総司令”を自称するまでに至りました。
一時期は天下を狙うに充分なポジションにいた人物だったのですが、北伐軍の前に敗れ去っています。
>289
変な孫中山ですね、それは(w。“封建的”な部分が無ければ孫中山じゃない気が・・・?
南京の大屠殺祈念館には僕も行ったことがあります。
日本語訳で何が書かれていたかは思い出せませんが、確かに吹きだしそうになった文章があったことは覚えています。
僕は南京大虐殺を否定する気はありませんが、
もう少し実証的な展示を心がけて欲しいな、という気持ちはありましたね。
大陸の陳烱明研究サイトを発見しましたので紹介します。
英文でも閲覧出来ますので、一度ご覧下さい。
ttp://www.chen-jiongming.com/
292 名前:
1
投稿日: 02/02/01 00:03
「民国期親日政府スレッド」に、このスレの242さんが
民国時代の勲章の一覧を書き込んで下さったので、こちらからもリンクしておきます。
面白いのでぜひ御覧ください。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1010761288/43
293 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/01 21:54
(軍閥と軍閥の戦いの実像は?)
パール、バックや李鴻章の小説からの知識では、軍閥の
兵隊は普段は、食事にありつけるのと、お小遣くらいの
収入で、戦いがあると、特別手当と、戦に勝つとその城市で
略奪、暴行のやり放題があり、それを禁止したら戦が成立
しないとあった。そういうことは当然あるという前提というか、
先入観があったことが南京の話の増幅に関係あった気がする。
敗者の首脳に残酷な処刑がる物語もよくある。
無かったということを言ってるのでなく、そういう話の伝統が
あるということ。
294 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/02/02 01:58
慰安所の垂れ幕って「大和撫子のサーヴィス」「身・心・棒〜(以下不明)」
なんて書いてあってさ〜。
棒って何だよ、おい!慰安婦が撫子なのかよ〜と笑ってしまったのです。>290さん
>1さん
まったくです。孫中山が封建的じゃないはずがない(W
国民党とて所詮会党の域を出ないのですから(コミンテルンが来なければどうなってたのやら)
295 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/02 14:51
ファルジュネル著「辛亥革命見聞記」を古本屋でやっと
見つけた。まだ読み始めだがとてつもなく面白い。
フランス人が中国で革命が起こったと聞きベトナムから
列車で雲南に入っていく。なんと国境で日本人が淫売宿を
やっていて、彼はスパイで客から情報をとっている。
雲南(雪がふっている?)で1さんおなじみの蔡鍔に
会ってディナーをごちそうになる。まだそこまで。
296 名前:
1
投稿日: 02/02/03 16:59
>293、295
辛亥革命後から北伐までの軍閥については、そのような軍隊が多かったと言えるでしょうね。
以前僕も書きましたように、傭兵の寄せ集めの部隊だったから紀律や士気が乏しく、
戦闘での死者がほとんど無かったと言います。
ただ、国民党軍の他、広西軍閥や雲南軍閥などは、後に自己改革を行って精強な軍隊を作っています。
それから、寡聞にして、「辛亥革命見聞記」は知りませんでした。
すごく面白そうな本ですね?いいなぁ・・・。
僕も古本屋や図書館を探し回ろうと思っています(w
297 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/03 20:15
>>296
平凡社、東洋文庫165です。
298 名前:
1改め「靡莫」
投稿日: 02/02/05 07:25
突然ですが、今後は自分の言動に責任をより持たせるため、
この板では、固定HN「靡莫(びばく)」を名乗ることにしました。
古代雲南にあった部落(あるいは国)から採りました。
自分でも少し戸惑いがありますが、皆さんよろしく御願いします。
>297
御教えいただき、ありがとうございます。
平凡社東洋文庫なら、図書館に行けば見つかる可能性も高いですね。
でも、やっぱり自分で買うのが一番かな?頑張って探してみます。
299 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/05 14:17
「今後は自分の言動に責任をより持たせるため」って
そんなに力まなくてもいいような気もしますが。
長く続くスレになると良いですね。
300 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/05 22:13
>299
ありがとうございます。まあ、力んでるつもりは無いんですが(w
もし、僕のHNが面倒だと思ったら、これまで通り「1」と呼んで下さって結構です。
それにしても、このスレを立ててから3ヶ月立ったんですね。
何気に300レスまで行ってるし・・・。
とにかく、書き込んでくださった皆さんには本当に感謝!です。
301 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
302 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/07 01:40
荒さんといてくれ
303 名前:
あぼーん
投稿日: あぼーん
あぼーん
304 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/07 03:27
※今後しばらくはsage進行に切り替えますので、皆さん御了承願います。
軍閥の人物紹介をします。今回は、色々と日本とも因縁深いこの人です。
宋哲元(1885−1940)
山東省楽陵出身。馮玉祥配下として昇進し、1925年に熱河総統となる。
馮玉祥配下の「五虎将」の1人としても知られた。1926年に国民党に加入し、翌年に
陝西省政府主席となる。
1929年、馮玉祥に随って蒋介石との戦うが、敗れて蒋配下となる。1930年、第29軍
軍長となり、柳条湖事件(満州事変)の際には、抗日を全国に呼びかける。
1933年に第三集団軍総指揮に任じられた際には、長城で日本軍と衝突している。
1935年、冀察政務委員会委員長に任じられ、対日折衝を務めた。
1937年に盧溝橋事変が起きると、やはり日本軍相手に抗戦しているが、その後は第一集団軍に
任命されながらも前線の任からは外され、1938年に引退。1940年に四川で病没。享年56歳。
305 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/07 07:56
連省自治って最終的には連邦共和国を目指していたんですよね。
だとすると、「各軍閥の地方割拠を体制化する以上のものではありえなかった」
(池田誠・他『図説中国近現代史(新版)』法律文化社、102ページ)というのは
あまりにも簡単すぎる説明のような気がする。
もともと文章が少ない本だからしょうがないのかも知れないが。
それで、いろいろ検索してたら矢吹晋の文章が出てきた。
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc3/kyo47-65.htm
(目次
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc/kyo9606.htm
)
これを見ると、『中国近現代史』のような理解は
陳独秀がオリジナルであるような気もする。
まあ、実際に連邦共和国の構想は各軍閥の意向に左右されることとなり、
結局は失敗するので、このような理解も間違いではないのだが。
しかし、もっと地方軍閥側の連邦制模索の過程が紹介されていいように思われる。
306 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/07 19:12
>305
確かに、「聯省自治」が単に軍閥の統治正当化に用いられたのみ、という結論は、
余りにも一面的すぎますね。
前のレスの方で僕も触れてますが(>180など)、軍人だけでなく社会各層が参加した
国民的な運動の1つとも言えるのではないか、と僕は考えています。
「省憲法」まで制定することに成功した湖南省の「聯省自治」運動が、その際たる例でしょう。
307 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/07 23:21
(北洋軍閥の軍事教練について、again)
カキコミをしますと、自分の弱点がよく認識できますので
しつこいですがご容赦。
1885年李鴻章は天津に北洋武備学堂。
10年間に280名卒業とある(少ない???)
その後
専門的軍事学校として
北洋武備学堂、北洋水師学堂、湖北武備学堂、保定促成武備学堂
部隊に所属しながら教育する
山海関随営武備学堂、開平随営武備学堂,威海随営武備学堂
保定の学校が発展して1923年保定軍官学校となり6523人
の卒業。
各省都に3年制の陸軍小学堂。
四つの二年制の陸軍中学堂、(直隷省清河、西安,武昌、南京)
その上は2年制の保定軍官学堂。
袁世凱が大総統だったが、段祺瑞が陸軍部総長として国家予算の
三分の一をにぎっていた。
このタネ本は「中国の軍閥」鄭健宰著
国書刊行会発行 tel 03-5970-7421
fax 03-5970-7427
著者は台湾と一橋大学留学の韓国人、この題名のくせに
北洋軍閥しか書いてない。中国出版の軍閥の文献が沢山
でているが私にはブタに小判。195pで5000円は?
孫文、蒋介石がわざわざ黄埔軍官学校を作ったのは、
やはり保定にはなにか問題があったのだろう。
308 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/07 23:41
>307
保定軍官学校について、書き込みありがとうございます。
僕も『中国の軍閥』は読んだことがありますが、北洋軍閥しか無かったのは確かに残念に思えます。
黄埔軍官学校を作ったのは、やはり北洋系学校の卒業生で軍隊を組織するわけにはいかなかったからでしょう。
また北洋政府が、どんなに腐敗しても北伐までそれなりの勢力を誇れた理由は、
やはり北洋系の軍事学校に匹敵する軍事学校が他に少なすぎたことも、一因です。
(例外の1つは、雲南陸軍講武学校。ここは極めて水準が高く、北洋系に勝るとも劣らなかったそうです。
・・・雲南ビイキで言ってるんではありませんからね!?あしからず)
あと、会社のものとはいえ、電話番号やFAX番号を書き込むのは少し問題があると思いますので、
次回からは控えていただければ幸いです。よろしく御願いします。
309 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/08 10:27
電話はHPで調べられますね。気を付けます。
307のぶたには真珠ですね。小判は私に。
310 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/08 23:08
>305
「聯省自治」運動で各省がどのような動きをとったかについて、ここで簡単に
まとめます。
@湖南省
湖南省の郷紳や知識人の提唱によって運動が開始。その後、軍閥譚延ガイ
(門+山+豆)、趙恒トウ(心+昜)の後援を得て、1920年7月に「自治」を通電。
1922年1月に省憲法を施行。最も成功した「聯省自治」運動の例であり、
南北対立の最中で約6年持続した。しかし1926年7月、軍閥唐生智によって
「自治」はついに崩壊した。
A四川省
四川の各軍閥によって提唱されて運動は開始。その後、自治運動を推進する
様々な団体が成立し、載季陶らによって「四川省憲法草案」が策定されたが、
軍事情勢の悪化で実行できず、提唱者であった四川軍閥からも見捨てられて
失敗に終わった。
B浙江省
浙江省の郷紳や軍人たちの提唱によって開始。安徽系軍閥の浙江督軍盧永祥に
「豪電」(聯省自治の推進を宣言)を通電せしめる成果をあげている。
1921年9月に浙江省憲法を施行。1926年12月、直隷系軍閥孫伝芳によって
「自治」は崩壊した。
311 名前:
靡莫(310の続き)
投稿日: 02/02/08 23:09
C広東省
広東省の郷紳が提唱し、軍閥陳烱明が中心となって推進。1921年12月、
「広東省憲法草案」が省議会で可決される。陳烱明は、単に自己の軍閥的
統治を正当化しようとしていたわけでなく、連邦共和制への理想も一定程度
有していた。
しかし、陳は孫中山との路線対立を引き起こして孫と決裂。1925年3月、
陳烱明が孫中山派の軍隊に敗れ、「自治」も崩壊した。
D雲南省
雲南軍閥唐継堯が推進。1920年12月に省憲法制定の通電を行っているが、
上に挙げた4省とは異なり、唐継堯の統治正当化の行動でしかなかった。
1921年2月に唐は部下の顧品珍の兵変で一時追放される。顧品珍も「聯省
自治」を目指したが、翌年に唐に倒される。その後の唐は「聯省自治」から
遠ざかった。
その他では、福建・江蘇・江西・湖北・安徽・貴州・広西などで
「聯省自治」運動が起きていますが、ここでは詳細を略します。
312 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/09 20:07
ログが流れちゃう前にあげとこ。
ちょっと軍閥からズレますが「北伐」や「革命外交」ってどういう評価されてるんでしょうか?
租界の武力回収や南京事件なんかでは欧米の反発の方が強かったのに、
(国民政府もイギリスを目標にしていた)結局、悪化するのは対日関係。
313 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/02/09 21:18
主語が不明で質問の意味がよく分からないんだけれど…今の中国で
「北伐」「革命外交」ってことか?
王正廷の革命外交は前任者と並んで有名だけれど、その反面
宋子文財政部長らを中心とする漸進外交(どういやあ良いのかね)も行なわ
れていたわけで、1930年の関税自主権の回復などは、後者の成果
ともいえるものです(発動は日本のごり押しで33年から)。
漸進外交の妨げにもなった以上、悪化するのは当然でしょう。
314 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/09 21:39
質問の仕方が悪くてすいません。
「革命外交」の実態がよくわからなかったもんで。
じゃあ租界の回収のあとは欧米に対しても善後策がとられたんでしょうか?
田中上奏文なんかが出まわったってことは、
その頃には欧米よりも日本が脅威であると受け取られてたってことですよね?
315 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/09 23:29
>315
まず「革命外交」についてですが、1926年5月に広州国民政府外交部長代理に就任した
陳友仁が、就任時に初めて提唱しています。
その内実は、簡単に言えば、過去の条約や既成事実に縛られず、必要とあらばナショナリズム
の声を背景にして、帝国主義諸国の不平等条約を撤廃し、租界を回収しようという考え方です。
ただし、そうは言っても外交の舞台ですから、陳友仁にしても、あるいはその後任者の王正廷
にしても、あからさまに武力に頼ることはしてません。
租界の返還は、やはり欧米側が中国国民政府の実力を承認したが故のことでしょう。
現在の中国では、依然として「革命外交」が最大の評価を受けていますが、
最近では大陸でも、宋子文の外交(「修約外交」と表現されることもあります)について詳細に研究し、
これを再評価しようとする動きが出ています。(福建人民出版社の『宋子文研究系列』1998年など)
ちなみに、“媚外外交”とまで侮蔑されている北洋政府の外交については、大陸ではまだそれほど
検討し直す動きは出てないようです。
また、田中上奏文については、満州事変後に外交部長顧維鈞が国際連盟で取り上げて日本を非難
するまでは、国民政府もほとんど省みてなかったようです。
もっとも、1928年5月の済南事変(第2次山東出兵)は、余りにも露骨な北伐への牽制
だったため、その頃には日本が最大の脅威と受け止められたのは当然です。
316 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/09 23:30
↑失礼、>314でした。
317 名前:
靡莫(315の訂正・追加)
投稿日: 02/02/10 01:34
陳友仁の後任者のところは、王正廷の前に伍朝枢を加えてください。
ちなみに陳友仁は「激烈型(前期型)革命外交」、
伍朝枢・王正廷は「温和型(後期型)革命外交」と表現されることがあります。
また、横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)の150〜161ページに、
民国外交について簡潔にまとめられてあります。
同書は民国史の一般向入門書ですので、興味がある方はぜひ一読してください。
318 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/10 22:48
コリン.ロス著「日中戦争見聞記」新人物往来社
1939年オーストリア人が日本、朝鮮、満州、モンゴル、
北京、上海、香港、昆明、重慶を見聞。荒木貞夫、南次郎、
なんと徳王に面談。雲南のビルマルートまで検証している。
「中国雲南モソ族の母系社会」遠藤織枝著 勉誠出版
これはまだ読んでないが、先日雲南に旅行したことのある
おばあさんにお会いして楽しい所だった由。私も一度
行ってみたいが、国境よりは麻薬密輸グループがいて
恐いという話を聞いたことがありますが?
319 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/11 11:38
>318
本の紹介、ありがとうございます。
雲南に興味ある人間にはたまらない本ばかりです。
現在の雲南は、国境近くが危険というのは確かですね。
西双版納(シーサンパンナ)や河口は比較的安全ですが。
麻薬密輸グループの存在はよく報道されている通りです。
ちなみに国共内戦終結後、雲南駐屯の国民党軍残存部隊がミャンマー国境付近に逃げ込み、
反共ゲリラ活動を行っています。
落合信彦氏のルポに、その反共ゲリラの末裔たちの話が載ってた記憶があるのですが。
320 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/13 23:11
今回は雲南軍閥の金融制度について、少し書き込みます。
雲南では、中央政府の銀行の他に、軍閥の支配下にあった銀行が存在しています。
種類は多数あるのですが、ここでは雲南省のメインバンクについてのみ触れます。
1912年、雲南辛亥革命に成功した蔡鍔によって、雲南富テン(水+眞)銀行が設立
されました。
雲南省の地方紙幣発行権を持ち、当初は堅実な運営で信用も高かった
のですが、唐継堯が軍閥の指導者となると、無謀な軍事拡張主義で財政破綻します。
1932年、竜雲の支配下で、雲南富テン銀行を改組した雲南富テン新銀行が成立します。
1933年に行長に就任した繆嘉銘が優れた経営手腕を発揮して、銀行の信用を回復しました。
その後、1935年から国民政府中央が「法幣」改革を行い、全国の通貨統一を図りましたが、
雲南については雲南富テン新銀行発行の地方紙幣が強く、法幣は容易に流通しなかったのです。
一般に、地方軍閥の発行する紙幣・貨幣は信用が低く、社会からは憎悪の的になることもしばしばでしたが、
雲南軍閥(特に竜雲政権)は、そんなステレオタイプの理解が当てはまらない例の1つです。
321 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/15 01:35
定期ageついでに、訂正します。
>311
C広東省
孫中山派部隊の攻撃で広東省の自治が崩壊した時期を、1922年12月に訂正してください。
1925年3月は、陳烱明が東征軍の攻撃を受け、最終的に大陸の根拠地を喪失した時期でした。
失礼しました。
322 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/15 17:26
袁世凱1916年死亡
張作霖1919年東三省の実権をにぎる。
1907年東三省に省制をとり、総督巡撫をおく。
北洋軍閥奉天派というのがいまひとつしっくりしません。
袁世凱死亡以前の東北軍部はどんなだったのでしょう?
日清戦争では小站の部隊の他に奉天の部隊が戦ったようですが
これも李鴻章の兵だったのでしょうか?
323 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/15 23:34
>322
日清戦争については、手元に資料が無いのでこの場ではお答えできないですが、
清末〜民初の東北(特に奉天)の軍部の状況は次のようになっています。
東北では、1907年に東三省が設置されるまで、軍人である盛京将軍(盛京=奉天)が
軍政・民政の双方を主管していました(これは清朝の制度の中では例外的措置です)。
東三省が設置されると、盛京将軍は東三省総督と改称されますが、地位の役割は
盛京将軍とほぼ同様です。
総督は徐世昌、錫良、趙爾巽(ちょうじそん)の順で就任しています。
最後の総督趙爾巽は革命派の鎮圧に奔走しましたが、清朝滅亡後もそのまま、
袁世凱から奉天都督に任命されています(吉林、黒龍江は別の人物がそれぞれ都督が就任)。
ただし、趙は袁世凱の腹心と言うべき人物ではなく、続いて奉天都督に就任してきた
張錫鑾(ちょうしゃくらん)、段芝貴によって袁の勢力が浸透します。
その後、袁世凱が帝政復活運動に失敗してその権威が失墜すると、袁子飼いの段芝貴を
追放して張作霖が奉天の実権を掌握しました。
張作霖は1901年に清朝に帰服して以来、蒙古馬賊の討伐で勇名を馳せ、また革命派を鎮圧した
ことによって奉天での権力基盤を着実に固めたため、段芝貴を追放することができたのです。
324 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/19 17:20
奉天派と北洋軍閥についてレスありがとうございます。
まだ基礎知識不足のためか充分理解できた感じがしませんが、
今後の課題にとっておきます。
325 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/19 17:24
張勲(1854〜1923)
江西省奉新の人。袁世凱に従い、1908年に甘肅提督。1911年、江南提督。
民国になっても清朝に忠誠を誓い、辨子軍と称された。1913年には第二革命を
鎮圧して江蘇督軍。1916年には安徽督軍となった。
1917年、対ドイツ参戦問題で黎元洪と段祺瑞の対立が激化したとき、
北京で宣統帝の復辟を宣言したが、段祺瑞に敗れて、オランダ公使館に逃げ込んだ。
翌年、特赦を受けた。
326 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/19 18:07
張勲については325のような人物と思っていたら先日の
「辛亥革命見聞記」によるともっととんでもない人物らしい。
時代に逆行した殺し屋として新撰組の芹沢鴨タイプなのか、
函館にこもった榎本武揚タイプなんだろうか?
1911年の辛亥革命の時南京で学生運動に対し、学校を破壊
弁髪を切った者は虐殺、死骸が街路をおおった。革命軍に負け、
北で略奪しながら暮らす。1912年1万の部下と山東省の車両
の中で強奪しながら生活。袁世凱がクーデターを起こすと何故か
黄興が張勲に相談に行っている。南京の護憲反乱に対し、張勲は
2年前の復讐に大虐殺を行った。日本人も犠牲になったらしいが
張勲は褒章され、叙勲されたらしい。
どうもただの反動馬鹿でなく要領のいい人間かもしれない。
しぶとく生き残るつかみにくい人物らしい。興味深い。
327 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/20 00:06
(定期age)
>324
僕のほうも整理して書ききれてなかったので、分かりにくい文章になってしまいました。
申し訳ありません。
>325-326
段祺瑞と黎元洪の対立を巧みに利用して、一時的とは言え復辟を成し遂げたのは、
張勳にとっては成功と言えるかもしれません。
とはいえ、張勳が復辟の際にやったことは、清朝以前の官僚機構を復活させただけで、
ロクなことはやってませんね。
ちなみに、この政変には康有為も参加していましたけど、
はっきり言って康の凄まじい耄碌ぶりを証明しただけでしたし・・・。
328 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/22 00:31
そろそろsage進行は解除します。
張勳について、少し横にそれた話をしますと、
当時の民間では、張勳の肖像の入った「復辟紀念」銀貨が発行されています。
張勳の一派がばら撒いたのか、あるいは民間にも復辟を支持する勢力がいて、
それらが発行したのか、背景については分かりませんが。
模造品(fantasy)の銀貨ですが、「復辟紀念」銀貨は現在でもそれなりの価値があるそうです。
329 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/02/22 01:37
そういえば街中で銀貨売りを見かけたなあ
値切って5元前後で買いまくったけど本物なんだろうか
330 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/22 01:44
>329
よろしければどんな銀貨か教えてくれませんか?
僕も留学時代に、売り子から「袁大頭(袁世凱肖像の一元銀貨)」とか、
車がデザインされた貴州省政府銀貨(どちらも偽物ですが)を買ったことがあります。
331 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/02/22 18:51
それが袁世凱銀元、孫中山銀元、ピアストル銀貨(インドシナ銀行)、
メキシコ銀貨(1882年だらけなのは贋作?)、上海両(香港上海銀行)、
庫平両、関平銀、光緒元宝、宣統元宝、日本一円銀ともうバラバラ
いちいち真贋を知る気にもなれず、5元前後で買い叩いた(20〜40元のを)
のでそのままにしてるんですよねえ。
いちおう金融を専攻にしてるんだから知っていなくてはいけないのでしょうが。
332 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/22 22:57
>331
西国さん、レスありがとうございます。
実際に鑑定しないと分からないでしょうけど、「10元以下まで買い叩けるなら
よほどラッキーでないと偽物だよ」と、僕はある友人から言われたことがあります。
(その友人がどこまで鑑定眼を持ってるかは怪しいですが・・・。ガッカリさせて申し訳ありません)
ただ、「袁大頭」や孫中山銀元などの場合、物によっては本物も安価で道端で買えるそうです。
もっとも、その場合は本物でも大して値はつかないものが多いですが(泣)
軍閥を肖像にした「紀念銀貨」は結構多く、
袁世凱の他には、張作霖・段祺瑞・黎元洪・徐世昌・曹コン(金+昆)・馮玉祥・
程徳全・唐継堯・陸栄廷・倪嗣沖・チョ(衣+者)玉補などがあります(張勳・蕭曜南は民間の私鋳品)。
でも、これらはたいていは相当値が張りますので、僕の場合はカタログを見て我慢するのみです(w
333 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/24 23:13
>331
西国さんに質問ですが、
各軍閥政府の金融政策については、西国さん個人としてどのような評価を抱いていますか?
一般的には、市場や流通を混乱させただけという評価が定着しているようですが。
334 名前:
中華@名無史さん
投稿日: 02/02/25 02:00
靡莫さんこんばんわ
一応この板では良く五代十国スレに出入りしている者です。
つい最近(一週間程)、ケーブルテレビ内の番組(多分衛星系)で、
”蒋介石”のドキュメンタリー番組をやって居たので見てしまいました。
内容がこの板で行なわれて居る人物・事件等が多く登場してとても楽しかったです。
漏れも余りこの時代は詳しく有りませんが、以前告知に登場の折からROMはさせて
貰ってました。
と言う事で、今回はチョッと関連した事を見聞きしたので御挨拶がれた登場させて
頂きました。
これからも、ネタ有りましたら登場させて頂きます。
335 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/25 07:09
ここ良スレだー。勉強させてもらってます。
336 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/25 07:36
>334
初めまして。書き込み、そしてROMしていただき、ありがとうございます。
残念ながら僕はCATVを見れる環境に無いので、その番組を見ることができなかった
のですが(泣)
今後ともこちらに書き込んでいただければ、嬉しいです。
五代十国時代については、あちらに書き込んだとおり、
やはり群雄割拠の時代ということで僕は興味を持っています。
雲南にも大理国が存在してましたし(五代十国には数えられてませんが)。
>335
ありがとうございます。
もし機会がありましたら、質問でも何でも書き込んでいただければ幸いです。
今後僕は、このスレでは人物紹介だけでなく、
民国の各軍閥がどのような動きをしていったかについて、
書き込もうかと考えています。
337 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/25 14:31
(安徽派と直隷派)
出身地の違いで分かれた派閥と考えてしまえば簡単ですが
1.親日グループと親欧米グループ
2.ww1への対応の違い
など政策に違いがあるようです。そこに何か意味が
あるでしょうか?
安徽派のほうが、李鴻章、袁世凱と人脈的には本流
ですが、北京、天津などの都会なれしたグループは
欧米などとの付き合いもうまかったかもしれない。
338 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/02/26 00:45
>各軍閥政府の金融政策については、西国さん個人としてどのような評価を抱いていますか?
>一般的には、市場や流通を混乱させただけという評価が定着しているようですが。
そうですね靡莫さん。
通説はどうしても否定したいのが性なのですが、なかなか。
戦乱時期、貨幣高権を掌握を通じ戦費調達を行い、結果として貨幣価値の不安定化を招きよせ、
市場と流通を混乱させた事実はどうしても拭えないのですが、結局のところそれが、省銀行などによる
<紙幣増発>でしか行なえず、ただちに減価の憂き目にあい、流通側から拒絶されていることは
注目すべきことだと思います。
軍閥政府時代、軍閥銀行と市場金融を架橋する回路は、一部、たとえば東北などを除き、基本的に
なかったのではないでしょうか?各地における銀貨と虚銀両を機軸とする地方の銭荘の力が圧倒的
で、蓄蔵手段は別立ての安心できる債権(たとえば上海中国銀行券や上海為替)でもっておればよいわけで、
言われるほど流通に混乱はなかったと思われます。この辺は宣伝と見るほうがよいと思われます。
むしろ軍閥政府と国民政府の質的断絶は、この回路を架橋することにあるとみるべきではないか?
政府系銀行の強大化は、まさしく日中戦争時の国民の貨幣資産の総動員による戦争遂行という結末に現れ、
それは共産党により、一層強化される形で財政と金融がむすびついて現今にいたっていると考えています。
339 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/26 01:22
メキシコドルは本物でしょう。
あれは銀地金の価値で流通するものですから、
贋物を造ってもしようがない。
340 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/26 02:12
>337
段祺瑞が親日派となったのは、日本から「西原借款」を受け取ったことが大きいですね。
それを受けて、日本との対立を回避し、自派閥(安徽派=軍隊、安福倶楽部=議会会派、
交通系=政財界双方における利権集団)の強化に務めています。
これは、袁世凱の「善後借款」と同様の行動です。
直隷系が欧米に接近したのは、むしろ安徽系への対抗的意図が強く、反日的意図は薄かったでしょう。
直隷系にしても、やはり後ろ盾となった欧米からの外資や借款を期待していた点では、安徽系と差は無いはずです。
341 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/26 02:43
>338
西国さん、丁寧なレスありがとうございました。
確かに軍閥側が発行する貨幣や紙幣は、受け入れられるというケースが
本当に少なかったですよね。以前、>320に書いた雲南富テン新銀行
のような成功例を、僕は他に知らないのですが・・・。
流通の現場については、混乱はそれほど酷くなかった、という説には同意です。
僕は竜雲時代の雲南省の例しか知りませんが、様々な貨幣(銀貨、銀両、銅貨、
仏領インドシナ銀貨、塩貨、軍閥発行紙幣、米ドル...etc)が飛び交っていたにも関わらず、
市場や流通の秩序は比較的安定していました。
竜雲は、省内で急激な幣制改革も行っていますが、市場はそれを受け止める力を充分に持っていたのです。
(もっとも、市場と軍閥系銀行との連関性が元々低かった、とも言えるかも知れませんが)
国民政府が行った「廃両改元」や「法幣」への統一、国民政府系銀行の強化は、
西国さんも触れてるような反作用をもたらしたわけですね・・・。
国民政府の正統性の確保、財政基盤の強化の上では止むを得ない改革だったとは、
思いますが・・・。
342 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/26 02:54
>339
中国で手に入るメキシコドルは本物なのですか?
清代に激しい流出入を繰り返した硬貨だけに、
素人考えではそうかも、と思ったりしますけど・・・。
あー、買っておけば良かった!
(こんなレスでスミマセン・・・)
343 名前:
投稿日: 02/02/26 20:34
結局、中華民国というのは完全に統一していなかったわけ?
344 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/02/27 00:39
安徽派、直隷派の私の考えの方向はどうもすじが悪そう。
日本が思ってた以上に影響を与えていたようですね。
袁世凱の「善後借款」ですが、議会の反対をおしてやった
「善後」という言葉の意味は?なんでしょう。固有名詞じゃ
ないんですよね。
345 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/27 07:27
>343
詳しくは
>>193-195
をご覧下さい。
「中華民国」という枠を否定する勢力はほとんど無かったのですが、
袁世凱が皇帝即位を目論んでから北伐の完了までは、
南北の政府が正統性(中央政府の地位)を争っていました。
>344
安徽派、直隷派というのは、北洋軍閥の系列のため、
地域的意味合いはそれほど強くない軍閥です(奉天派は地域性が強いですが)。
北洋軍閥にとって、日本というのはやはりキーとなる列強です。
いずれ、詳しく書き込みたいと思っていますが。
あと、「善後」の意味は、やはり「後始末をつける」「善後策をはかる」という
意味だと思いますが・・・。違ってたらすみません。
346 名前:
投稿日: 02/02/27 12:36
>345
何か、日本の戦国時代みたいですね。
戦国大名も確か軍閥と同じような考えを持っていたような感じですから。
347 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/28 00:19
>346
「軍閥混戦」という政治・軍事情勢は、戦国時代そっくりだと思います。
織田信長や豊臣秀吉のように、天下統一を目指した勢力もあれば、
あるいは地方に割拠するだけで満足する勢力もありましたし。
しかし、民国期には日本の戦国時代とは異なる重要な要素も入っています。
その際たるものは、近代的ナショナリズムと列強の存在です。
中華民国において統一が求められたのは、近代国家の建設を目指す意欲、
そして列強による主権侵害への反発を、最大の契機としています。
とはいえ、現実の国内・国際情勢では完全に列強を排斥することもできず、
時には彼らに依存し、時には排斥的態度をとるなど、
大小軍閥(更に言えば民国中央政府)の対応は常に転変を余儀なくされました。
348 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/02/28 01:49
ナショナリズムの要素を見逃すことはできないね。
当時の日本はこのポイントを外していた。
「支那は砂のようにバラバラ」と思い込んでいた。
昭和10年頃だったか、国民政府が強行した紙幣整理、
法幣への統一が成功したことの重要性を理解していなかった。
349 名前:
靡莫
投稿日: 02/02/28 23:17
>348
(sageでの回答になりますが、スミマセン)
確かにその通りですね。
軍閥混戦について、特に日本の軍部や対外強硬派がそのような解釈をしていたのが、
不幸だったと思います。
蒋介石の北伐成功後も、その後の幣制改革を経ても、基本的にその認識に変化は無かったようです。
また東北(満州)においても、関東軍を中心として日本は軍閥張作霖を利用しようと
しましたが、張がナショナリズムに目覚めた中国人であることを見逃す傾向が強かったです。
張作霖は、汲々として日本の手先になるような単純な人物のわけが無い、という指摘が、
当時においてすら相当なされていたにも関わらずです。
350 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/01 16:22
(軍閥の系譜)
1.北洋軍閥 A.安徽派
B.直隷派
C.国民軍派
2.奉天派
3.山西派
4.西南派 A.広東派
B.広西派
C.雲南派
(河出書房中国の近代より)
数字、ABCは私がつけました。
この分類の気に入った点は、奉天派を北洋軍閥に入れてない点です。
段祺瑞や馮国璋と違って、張作霖は自分が袁世凱の部下だったとは
思っていないんじゃないでしょうか?
351 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/02 00:54
>350
確かに、北洋軍閥から奉天派を外す考えも一理はあると思います。
以前のレスにありました通り、袁世凱の腹心である段芝貴が東北三省の統括者に
成った時、張作霖は段の配下となったわけです。
しかし、その後袁世凱が皇帝僭称に失敗すると、この機を捉えた張作霖は、段芝貴を追放してしまいます。
その点を見れば、張作霖が袁世凱の部下だと言う意識は、比較的薄かったと言うべきでしょう。
その後、張作霖は他の北洋軍閥勢力との主導権を争っていくわけですが、
袁世凱の軍隊内で昇格してきた安徽派・直隷派・国民軍と異なり、
張と奉天派は、奉天(さらには東北三省)の地盤で成長・拡大してきた
地方軍閥としての特性が強い軍閥だったわけです。
僕自身は、北洋政府の指導者の地位を争ったということで、
やはり張作霖は北洋軍閥の系譜に入れたい、と考えています。
(もちろん、他の北洋軍閥との特性の違いを念頭に入れつつです)
352 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/06 02:18
(中国の鉄道建設と列強の進出、その1)
最近鉄道に関心を持っています。段祺瑞のパトロンの交通銀行の
交通とは鉄道の建設関係という意味でしょうし、辛亥革命も鉄道が
原因でおきましたし、当時の重要テーマの一つと考えました。
日本の横浜ー新橋開設が1872年
中国の最初は上海から揚子江河口の呉淞までイギリスが施設1876年
眠いので続く。
353 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/06 18:16
(鉄道の2)
19世紀のイギリスは投機的鉄道建設で白熱、アメリカ、インド
から中国に及んでくる。呉淞鉄道を1865年に企画反対で中止
ジャーディン、マセソン商会が黄浦江の浚渫もあり1898年に
完成したが風水の龍脈を切断するという苦情で1年で廃止になった由。
1908年には上海南京鉄道がイギリス資本の上海電車公司により
完成。100年も前から欧米は今日のヘッジファンドの練習のような
経験をつんでいる。このような資本進出はやっている本人達は、
当然の経済行為と思っていたのだろうか?
354 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/07 05:00
>352-353
中国近現代史では、鉄道は確かに重要な存在ですね。
雲南省でも、テン(水+眞)越鉄道がフランス資本の手で開かれてますし、
東北三省では、もちろん日本の「満鉄」もあるわけです。
鉄道の建設・運営は、列強にとっては当然の経済行為と考えていましたし、
その一方で、中国の近代化を促した側面があったのも確かです。
(もちろん真っ先に潤ったのは、列強の財布ですが)
鉄道は、政治情勢にも深く影響しました。
満鉄については言うに及びませんが、
他にも四川省では、鉄道の改修権を列強に売却しようとしたことが、
省民全体レベルでの反発につながり、大規模な反清運動へとつながりました。
これは、武昌起義・辛亥革命の前奏となっています。
355 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/03/07 05:26
Another "Eastern Question"
356 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/09 22:34
(鉄道の3、満州ー東北)−−(シベリア鉄道と東清鉄道)
1875年モスクワから着工、1891年ウラジオストックより
着工(大津事件)、1898年バイカル湖に西イルーツクまで、
東ではウラジオからハバロスク1897年開通。残りが難工事で
停滞。そこで、日清戦争の賠償で悩む清朝の弱みにつけこんで(??)
満州北部のハルビンを通る迂回路東清鉄道をつくり1903年
一応全通したが、バイカル湖は砕氷機能のフェリーだった。
日露戦争中に突貫工事でバイカル湖迂回路を作り1904年
完成。続く。
357 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/09 22:48
(鉄道3の続き)
日露戦争で東清鉄道が使えなく??(使いづらく??)
なったので、ロシア領内のルートの完成を急いだが、
難工事だったらしい。1916年に完成。
戦前日本からヨーロッパへ行くには、プサン、ソウル、
ハルビン、満州里、からチタでウラジオからの
シベリア鉄道に合流したらしい。続く
358 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/09 23:20
(鉄道3の続き)
ポーツマス条約では
ロシア政府は清国政府の承諾をもって、遼東半島租借地と
長春,旅順間の鉄道及び一切の支線、付属する権利等を
日本帝国に譲与する。
このあと日本は北京で難航の末「満州に関する日清条約」
に調印。ここで南満州鉄道(東清鉄道南支線)とある。
チタからウラジオに行くシベリア鉄道迂回路が東清鉄道
本線で日本のは支線らしい。
後に広田弘毅が残りをロシヤから買い取る。
満州事変のあとのチチハル侵攻の時は北部の鉄道はロシア
所有だったから、日本軍は乗車券を買って客として乗った
らしい。
シベリア鉄道の歴史については詳しい資料が捜しにくい。
一番でていたのは、地球の歩き方、シベリア鉄道とサハリン。
http://www.fk.urban.ne.jp/home/takatomo/1890.html
http://www.ejrcf.or.jp/research/h7/h7_05.html
http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-10/1025/51.htm
宮脇俊三「シベリア鉄道9400キロ」角川文庫
359 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/10 18:08
(鉄道4)
その他北京ー奉天間のイギリス資本の京奉鉄道
北京−漢口間のベルギー資本の京漢鉄道
1)どうも借款といっても、戦争をしかけられて
(義和団事件、清仏戦争、アヘン戦争、
日清戦争)その賠償金がグルグル回っている感じ。
2)鉄道債権は日本ドイツベルギーオランダが多く
フランスイギリスが少ないのが変だ。返却が優先的に
なってたのだろうか?
360 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/12 01:46
>356-359
鉄道について色々書き込んでいただき、ありがとうございました。
軍閥史の流れの中で鉄道を考えると、
やはり、張作霖・学良父子と日本との利権争いが一番目立つでしょうか?
張作霖が列車乗車中の所を関東軍に爆殺されたのも、
後世から見れば、何か象徴的なように思えますね。
361 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/15 00:25
今回は、民国軍閥を考えるうえで、ぜひ読んで頂きたい入門書を紹介します。
(1)時代背景を知る上での書
○尾形勇・岸本美緒編『中国史』(山川出版社、1998年)
通史としての中国を理解する上で、ぜひ読んで下さい。民国軍閥にとって重要
なのは、第六章・第七章です。
○小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』(岩波新書、1986年)
○横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)
いずれも民国史についての入門書です。まずこの2冊で、民国史の流れを把握
してみてください。
(2)民国軍閥についての専門書
○ジェローム・チェン著、北村稔ほか訳『軍紳政権』(岩波書店、1991年)
民国軍閥について詳しく知りたい方には必読です。僕自身は、ジェローム・チェンの
民国軍閥観については批判的な態度を持っていますが、それでも軍閥の構造を知る上で
は読まなければならないでしょう。残念ながら、現在は版元品切れのようですが。
○波多野善大『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社、1973年)
30年近く前に書かれた本ですが、依然として日本での軍閥研究の基本書としての
地位を維持しています。中国軍閥史について丁寧にまとめている他、個別の軍閥
についての論文も収録されています。
応用編については、次の機会に書き込みます。
362 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/19 23:06
(鉄道、追加)
1928年6月 張作霖爆破
12月 易幟
1930年 反蒋戦争
張学良、蒋介石支持
1928年頃から満鉄の経営は急速に悪化していたらしい。
東北交通委員会は満鉄の東西に平行線を含む鉄道網をドイツ、
アメリカ、イギリス資本で部分的には完成、更に拡大を計画。
日本はこれに反対する大義名分はなかったようですね。
この東北交通委員会というのは、いつ頃から始まったので
しょうか?張作霖が始めたのでしょうか?
この問題は満州事変、日中戦争、日米戦争の引き金のような
気もします。
363 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/20 15:22
(鉄道、続き)
1909年に錫良はアメリカ、イギリスの援助で満鉄西側に
錦州ーチチハルーアイグン鉄道計画、日本ロシアの反対で
中止。1924年に東三省交通委員会組織。20年代後半に
吉林省、黒龍江省の大豆地帯に交通網整備。
時代が軍閥から離れるので、深追いしないが、張作霖時代
すでに、清朝時代にも満鉄包囲網は計画されている。その
すべてが、反日目的でなく経済的理由も大きかったであろう。
しかしながら、日本が満州にいる存在根拠が満鉄なのだから
日本には脅威だっただろう。
364 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/22 21:57
鈴江言一著「中国革命の階級的対立 T、U」
東洋文庫272 平凡社
これは驚くべき本だった。昭和5年(1930年)中国に
いた日本人が当時の中国を分析している。実のところ、私は
フランス人とオーストリア人の中国紀行文を読んで今日でも
通用する分析力に驚いて、日本の軍部などの分析、見通しの
いいかげんさにうんざりし、日本人の分析力に悲観していた。
著者は左翼なので、その史観にとらわれ必ずしも賛成でない
意見も多々あるがデータを沢山使った分析は面白い。
365 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/03/23 01:34
靡莫さん
新民主主義革命時期の革命(政治?)勢力を語るスレッドを番外編でつくりません?
五四運動〜中国革命成立までの国共両党、中間派、上海浙江財閥、青幇を語る
モノマニアックなスレッドを
気分が向いたらお返事ください
366 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/23 20:21
>362-363
東北交通委員会は、張作霖が設立した東三省交通委員会を張学良が改組したものです。
これによって、東北軍閥による自弁鉄道の建設が更に活性化されました。
もちろん、満鉄への対抗意識もある(満鉄に対して並行線を建設しています)と同時に、
軍閥独自の財力を高める狙いもあったでしょう。
>364
鈴江言一は、橘樸・尾崎秀美とともに、戦前の「中国学」を担った人物です。
彼らの中国に対する視線は透徹したものであると同時に、当時の政治情勢の影響も
あって、極めて複雑な色合いも持ち合わせています。
367 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/23 20:25
>365
西国さん、お久しぶりです。
革命勢力のスレッドですか?それは面白そうですね!
国民党や共産党の中にも各種政治・軍事勢力が存在していましたし、
「第三勢力」と呼ばれることもある民主党派などについても、
色々触れてみたいですね。
というわけで、僕は賛成です。
新スレの名前と作成は西国さんにお願いしてもよろしいですか?
368 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/03/23 21:12
>367
靡莫さん、こんなに早くレスをくださりありがとうございます。
実は…なにも考えもせず今日スレッドをたててしまって
「立てすぎです」表示がでて立てられない状態です。
しくじってしまいました。
もし宜しければ、靡莫さんが立てていただけないでしょうか?
あと3日か4日かもすれば、ぼくでも立てられますが、今のところ
無理な状態で。
369 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/23 21:28
>368
こちらこそ、すばやいレスありがとうございます。
新スレ作成の件、了解しました。
「★民国期中国の革命勢力★」
という題名でどうでしょう?
370 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/24 00:54
西国さん、新スレ立ち上げました。
>369の題名と少し異なりますが、
「★中華民国期の革命勢力★」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1016898626/
としました。
あちらでも盛り上がっていきましょう。
このスレにカキコ、あるいはスレをご覧になっている皆さんも、
よろしく御願いします。
371 名前:
名無的発言者
投稿日: 02/03/28 00:07
上海の共同租界は「義勇団(万国商団)」って独自の民兵組織(?)があったんだな。
でも軍閥じゃないけどナ。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/colo/shanghai.html
372 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/29 16:37
慶応大学出版から女性の助教授の先生が3月に「蒋介石と南京国民政府」
という本をだしましたね。この先生の過去の出版に書いてあった「近代
中国人名辞典」というのがみてみたい。
373 名前:
勲章好き
投稿日: 02/03/30 09:33
>靡莫様
どうもお久しぶりです。ちょっと靡莫様にお聞きしたいのですが、袁世凱時代海軍
総長は劉冠雄でしたが、その後段祺瑞政府の時代になりますと程壁光になっており
ます。この2人がいつ頃交代したかご存知ありませんか?ちょっとその辺の人事に
興味を持ちまして・・・・
また、雲南の蔡鍔の写真で、大礼服着用ではっきり写っている物がありますが、ど
なたかこの画像で大きな物をお持ちの方おられませんか?お持ちでしたらどこかに
UPしていただけないでしょうか?
374 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/30 13:50
>371
共同租界の義勇兵については、ファルジュネル『辛亥革命見聞記』(平凡社東洋文庫)
でも、叙述されています。
上海の工部局や万国商団については、こちらで論じた方が宜しいかも知れませんね。
↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1016898626/
>372
家近亮子氏ですね(ちなみにこの方は敬愛大助教授のようです。『蒋介石と南京国民政府』は
慶応大学出版会の発行ですが)。『近代中国人名辞典』については、後日詳しく調べて
きます。
375 名前:
靡莫
投稿日: 02/03/30 14:26
>373
こちらこそ、お久しぶりです。
さて、海軍総長についてですが、『民国職官年表』(中華書局、1995年)に
よると、劉冠雄から程璧光へ交代したのは、1916年6月30日となっています。
ちなみに程璧光は、1917年6月5日に孫中山らの護法軍政府に合流して、
海軍部長となりました。
北洋政府では、程の後任に薩鎮冰が短期間就き、
次いで劉冠雄が1917年7月15日に再び総長となりました(〜1919年12月3日)。
蔡鍔の画像については、お待ちください。
中国のサイトなども含めて、少し探してみます。
376 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/03/30 16:22
勲章好きさんもお持ちの法律文化社の図説中国近現代史の
p93の蔡鍔の写真はその小さなものでしょうけれど、
「辛亥革命見聞記」のp28の蔡鍔の軍服姿も礼服でない
ですが興味深いですね。若いですね。写真の状態は悪い。
377 名前:
勲章好き
投稿日: 02/03/30 18:42
>靡莫様
ありがとうございます。実は、中華民国軍の礼服復元を企んでおりまして・・・。
最近購入した”民国社会風情図録・服飾巻”(江荵(?)古籍出版、2000年)
に民国時代の礼服写真が色々載っており、後は襟や袖の刺繍が解れば、という状態
まで来ています。
陸軍は難しそうですが、海軍は刺繍部分がないので国内で出来そうです。
ちなみにこの本、洪憲帝として即位した時の袁世凱や徐世昌の礼服写真、海軍礼服
の薩鎮冰、他にも外交官礼服、留学生や官僚の中山服など色々載っており見ていて
飽きません。
378 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/01 00:09
(広東政府 その1)
個人的な理由があって広州についてしばらく勉強する予定です。
いつものように、勉強してからカキコしないで、カキコ
してから、恥をかいて勉強するつもりです。辛亥革命のとき
孫文は政権を一時袁世凱にあずけたけれど、彼が死ねばまた
本来の自分達が政府の本流と考えただろう。
1917年8月段祺瑞ww1参戦
9月10日第1広東軍政府
大元帥孫文、陸栄廷,唐継尭この2人の肩書きは
元帥か?副元帥か?
旧国民党系の岑春けん(進歩的な大先輩の官僚?軍人?)
軍政府とは、議会の上に軍部があって支配するという意味か?
形の上では大元帥孫文の独裁だが、孫文に実働部隊がないので
形式と実力がつりあわなかったのだろう。
広西派軍閥に岑春けん、陸栄廷、李宗仁,白崇禧と人材が多い。
第1軍政府がうまくいかなかったのは、唐継尭が非協力的だった
から?孫文の政策が非現実的だったから?岑春けんが権力的だった
から?
379 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/02 18:53
1917年8.14 段祺瑞ww1宣戦布告
9.1広州国会非常会議、孫文大元帥に
10月北京と広州軍事衝突開始(湖南湖北で護法戦争)
孫文、広州で中国革命党結成
1918年5.20中華民国軍改組、孫文大元帥辞任
5月孫文は広州から上海へ
11.11ww1終結
1919年1.18−6.18 パリ講和会議
2.20南北和平会談
5.4 五四運動
10.10孫文、革命党を中国国民党へ変更(秘密組織を公開)
1920年 7月安直戦争 呉佩孚(直隷派)+張作霖(奉天派) VS
段祺瑞(安徽派安国軍)
安徽派敗れる
11.29 孫文、広州の軍政府に復帰
380 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/02 18:57
(広東改組軍政府と上海軍政府 その2)
南方4省の軍閥西南護法連合。7人の総裁合議制。
広西派が指導権。政学系が結合。
4省とは、広東、広西、雲南もう一つは?
政学系とは?
改組の目的として、孫文は護法戦争を続けたかったが広西派は
北と妥協したかったからでよいのか?
上海軍政府というほどのものがあったか解らないが、孫文と反広西派
西南軍閥(誰か?)の連合らしい。
南北会議の南の代表は唐紹儀らしい。会議は孫文は無視されたのか?
岑春けんは遠くからコントロールしていたのだろうか?
381 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/04/03 09:46
>>374
上海の工部局は反革命勢力では?
382 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/03 21:33
>「近代中国人名辞典」
http://www.kazankai.org/
35680円は手が出せないが1364ページは、かなりの
本のようだ。
383 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/04/05 18:10
霞山会(かざんかい)とはなんだろう?ただの企業らしくない。
公的機関の外郭団体の感じがする。日中友好協会でも
関係しているんだろうか?
384 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/06 21:13
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/
ピンインが解れば文字が出そうだが、へんもつくりもわからない
文字はピンインもわからないか?
385 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/07 01:29
最近、年度末・年度始めで仕事が忙しく、書き込みも止まってました。
スミマセン・・・。とりあえず、軍閥スレを優先に書き込んでますが、
親日政権スレや革命勢力スレは後回しで全然書き込めてないし・・・(泣
>>377
礼服復元ですか!?それは凄いですね!
そんな作業が日本でも行えるとは思いませんでした。
月並みな言葉しか掛けられなくて申し訳ありませんが、頑張ってください!
あと蔡鍔の写真ですが、謝本書『討袁名人・蔡鍔』(蘭州大学出版社)に、
礼服の写真が載ってました。中国語の本ですが、内山か東方のどちらかの書店に、
今も置いてあった覚えがあります。比較的手に入りやすいと思いますが・・・。
386 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/07 01:44
>>378-380
質問の答えは、順次以下のように為ります。
※
>>378
@唐継堯と陸榮廷の1917年当時の肩書きは「元帥」です。元帥は大元帥を補佐し、
大元帥が職務を執り行えない場合は、これに代行することができます。
A軍政府(ここでは護法軍政府)とは、孫文のイデオロギーの中の「軍政→訓政→憲政」
という三段階の発展構想(「三序」)が意図されていたものと見る方が妥当と思われます。
もちろんこの護法軍政府は、「軍政」段階の政府として組織されたものです。
B唐継堯の非協力的態度は、やはり孫中山への対抗意識と唐の個人的野心にあります。
また政権構想でも、中央集権型の孫と聯省自治型の唐との間で対立がありました。
元々が南方軍閥の寄り合い所帯だった護法軍政府では、
孫中山の構想は他の領袖から冷淡の目を向けられています。
387 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/04/07 01:48
>>383
戦前の日本の大陸における教育機関(諜報もやってたけど)
東亜同文会の後継団体だよ。戦後は愛知大学に。
別個に活動じゃなかったか?
388 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/07 02:24
※
>>380
@西南軍閥の残る1省は貴州です。劉顕世の支配下にありましたが、実際は
唐継堯の支持を受けて統治していました。
A政学系とは、国民党(中華革命党との合流前)の右派の一部(欧事研究会グループ)
によって結成された政治勢力です。
護法軍政府では、岑春ケンや西南軍閥に与し、また、北洋政府の段祺瑞とも連絡をとり、
孫中山に対抗する勢力となっていました。
B軍政府の改組の目的は、仰るとおりで、北洋政府との和議推進と孫中山の権限を
削減することにありました。元帥制が7総裁制へと改められ、しかも主席総裁には
岑春ケンが就任しています。孫中山は失望して上海へ去りました。
C1920年6月、上海にいた孫中山と唐継堯、伍廷芳、唐紹儀らが、岑春ケンと陸榮廷の
連合の打倒を唱え、岑を失脚に追い込んでいます。しかしこれをもって、
「上海軍政府」と表現できるかは、僕は疑問です。
D南北会議は孫中山を除外し、岑春ケン主導の下で行われました。しかし
北洋政府が軍事行動を停止しなかったため、和議は失敗に終わりました。
和議に失敗してからの唐紹儀は、孫中山へ接近しています。
389 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/07 02:35
>>381
そうですね。租界における列強の連合政府ですから、「反革命」と言った方が妥当でしょうね。
ただ、革命勢力に対しても何か影響を及ぼしてるかも知れませんし
・・・と、ゴマカす(w
>>383
>>381
で西国さんが書き込まれた通りです。
霞山会のホームページもありますので、そちらを参照されたらいかがでしょうか?
ttp://www.kazankai.org/
390 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/07 02:39
>389のところ、×381→
>>387
です。
失礼しました。
>西国さん
お久しぶりです。
新スレ立てましたが、あんなもので宜しかったでしょうか?
僕は時間が無くて中々書き込めないでいます。申し訳ありません。
391 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/04/07 23:48
こちらこそ旅行で来週一杯書き込めません
もし宜しければ向こうのスレッドもよろしくお願いします
392 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/09 18:26
(陸栄廷)
少数民族の壮族(チワン族)出身。清朝打倒の秘密結社に入り
いったんは中国同盟会に参加したが、孫中山の鎮南関起義には
弾圧側に回った。辛亥革命では広西の独立を宣言、広西都督と
なった。その後袁世凱打倒の護国運動に参加した。北洋軍閥
支配の北京政府に対抗する西南軍閥の雄となり、孫中山を大元帥
とする護法政府の元帥となった。また改組護法政府の7総裁の
一人となった。
393 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/04/13 00:32
(第二広東軍政府)
1920.12.01−1921.6.15
陳烱明(1875〜1933)
広東省海豊県人、1875年生まれ
革命党員として、
1910年 黄興らと広州の総督を襲撃して失敗亡命。
辛亥革命では胡漢民と恵州に挙兵して広州を攻略、
胡の下で広東副都督になった。
1912年 都督に
第二革命失敗後、北洋系の龍済光に逐われて再び亡命。
第3革命で雲南、広西の討袁軍に協力し、龍済光を
逐ったが、かれは援ビン粤軍総司令として
福建省に進駐、背後の広州は陸栄廷ら広西派
の勢力下におかれた。
1920年ようやく「粤人治粤」のスローガンで広西派
を逐った。
続く
394 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/04/13 00:38
1920年 11.29 孫文、広州の軍政府に復帰
1921年 4.7 孫文を大総統に
5.5軍政府は廃止、護法政府に 続く
395 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/15 17:48
(広東護法政府)1921.5.5-1922.6.15
1920.7.27呉佩孚は「国民大会」を召集し、憲法を制定して
「国民自決」の実現を呼びかける「感電」を発した。
公団型民主運動
1920.11湖南省省自治宣言
湖南、湖北の省自治戦争
1921.11ワシントン会議(誰を中国代表にするか?)
1922.4.19第一次奉直戦争直隷の勝ち
5月中旬黎元洪の大総統復位「旧国会」の再開
正式憲法の制定
{広東護法政府の合法性がゆらぐ}
1922.2 孫文は桂林の大本営で北伐宣言
4月陳炯明北伐反対により恵州に左遷される。
6月北伐軍、広西に進む。
陳炯明広州にクーデター、孫文は上海に
396 名前:
勲章好き
投稿日: 02/04/16 11:23
>靡莫様
お久しぶりです。仕事が忙しくてなかなか書きこめませんでした。
礼服の件、色々とありがとうございました。結局、長期スパンで陸軍の礼服を
復活させる事になりそうです。あの派手な刺繍もなんとかなりそうです。
397 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/16 23:05
(第3広東軍政府)1923.2.21−1925.6.30
広西軍、雲南軍,湖南軍、河南軍の進出、陳炯明撤退
1923.3.1 孫文広州に復帰し大元帥に
1924.6.16 黄埔軍管学校開設
1925.2.3 広東省東部の陳炯明攻撃(第一次東征)
3.12 孫文逝去
6.11 (サンズイに真)軍、桂軍を粛清
7.1 中華民国国民政府が成立(広州)
10.1 第二次東征 汕頭
一段落
398 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/04/16 23:15
(雑記)
1、孫文は国家建設を軍制時期、訓政時期,憲政時期と
しているが、軍政府とはその一段階か?
2、国共合作関係は省いた
3、一番興味深い点は、陳炯明のクーデターのころの中国
で、呉佩孚の工作がうまくいっていて、孫文はかなり
ピンチだったんだろうか?孫文なしで中国がうまくいく
ならそれでもいいという雰囲気があったのでは?反乱が
なかったら、北伐も失敗してただろう。
4, 陳炯明は辛亥革命以前からいろいろ行動を起こしている。
たんなる利権志向の軍閥ではなさそう。
5. 第3軍政府で広西、雲南軍の立場は?反乱があったの
だろうか?北伐に反対したのだろうか?
6. 陸栄邸や竜雲は少数民族出身らしい。少数民族という
言葉は中国人の中で少ないという意味だが、出身地でも
少数派なのだろうか?
399 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/04/18 14:57
良スレ上げ
400 名前:
正義の枢軸
投稿日: 02/04/18 22:15
由来支那は革命の国である。試みに見よ興亡実に四千年その古き歴史はあげてこれ「革命の歴史」と
言うも過言ではない。しかしながら一方視点を変えてそもそも「革命の真意義」かかる点より観る時
におよそ支那四千年の歴史ほど、真の革命家に乏しき歴史がどこにある。
経書にいわく「湯武革命順乎天而応乎人」とあり、これを要するに
「天子は命を天に受く、国の乱るるや仁政なし茲に於いてか天は天下の黎元をいつくしみ、之を済ひ
導かんが為に茲に革めて聖者を派し之を授くるに政権を以てしかくて天下の黎元を治めしむ」これが
すなわち革命である。果たしてしからばここに革命を行う者はいやしくも、自ら立って茲に天下の黎
元を治め以て天意に応うる者でなければならぬ。
・・・かく支那の已往を顧みる時、ここに支那四億の黎元を救う真の革命家は遂に支那においては見当
たらない、そは過去四千年の経験済みだ。ここにおいて此所に東海の天子国たる我が帝国を立たしめ
てこの難局に当たらせんと、実は今回の事変を我等の前投げかけたのだ。・・・
「箭暁」第二巻第一号 昭和13年1月15日発行より
中川晴之「支那に尭舜の世を再現せしめよ」
401 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/29 20:51
>>396
すみません、メチャクチャ遅レスになってしまって・・・。
礼服の復活作業、上手く行くといいですね?
>>398
広東軍政府については、代表的なものとして深町英夫氏の研究があり、
その論考によると、広東軍政府はその形態の観点から3期に分かれています。
まず第一期は、孫中山指導の軍政府が存在していた時期で、
この時期は西南諸軍閥と対立し、広東省の諸勢力からも遊離していました。
第二期は、西南諸軍閥が軍政府の指導権を握った時期で、孫中山は上海へと逃れることとなります。
そして第三期は、広東省の諸勢力を代表していた陳炯明が台頭した時期です。
この時期に、聯省自治を唱える陳と、中央集権を唱える孫との間で対立が発生したわけです。
ただ、陳炯明は決して守旧的な軍閥ではないと、僕は考えています。
孫中山との政権構想・統一構想の対立が、彼を「革命の敵」へと押しやってしまったのではないでしょうか?
402 名前:
靡莫
投稿日: 02/04/29 20:53
>>400
中国において、近代国家の建設が容易でなかったことは事実です。
孫中山も、蒋介石も、毛沢東も苦しみ続けました。
しかし、それを担えるのが「東海の天子国」(=日本)であるという主張には、
首肯できませんね。
このスレも、400レスまで到達しました。
書き込んでくださった皆さんに、御礼を申し上げます。
これからもよろしくお願いします。
403 名前:
松井石根大将辞世
投稿日: 02/05/04 12:58
天地も人もうらみず一すぢに
無為を念じて安らけく逝く
衆生皆姑息
生気払神州
無畏観音力
普明照亞洲
404 名前:
四筑紫
投稿日: 02/05/04 13:48
四百四州をこぞる十万四騎の敵 国難ここに見る弘安四年夏のころ…
\______ ______________________________/
|/
∧_∧
(○) (∀・ )
ヽ|〃 (∩∩ )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
405 名前:
豚東
投稿日: 02/05/04 19:58
>96
内線時の南京や上海それに、朝鮮戦争でやつた人海戦術て・・・
意図的な消耗戦じゃないかと思うんですが如何に?
406 名前:
靡莫
投稿日: 02/05/07 00:19
>405
申し訳ないのですが、
>>96
の方のレスとの関係が僕には今イチ分からないのですが(スミマセン・・・)
それはさておくとして、
南京・南京攻防戦は、国共内戦の中でもハイライトと言える戦闘だったでしょう。
激戦にはなりましたが、最終的には人海戦術などを駆使し、
そしてすでに政略上・戦略上で圧倒的優位を築いていた共産党が、この2都市を攻め落としました。
特に上海は、「易守難攻」の都市で、仰るとおり意図的な消耗戦をもってしか攻め落とせなかったのかもしれません
(僕は軍事学に詳しくないのですが・・・)。
人海戦術はその後の朝鮮戦争でも使われていますが、
恐らくは内戦時で有効だった戦術をそのまま使用しようとしたものでしょう。
確かに人海戦術はアメリカ軍を恐れさせ、これと互角に戦うことを可能にはしましたが、
結局は人力の凄まじい消耗を招き、
その後の中国国内の運営に大きな支障をもたらす要因ともなりました。
407 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/05/08 00:33
1925年からの広東中華国民政府を調べようとして
ますが、ここからはソ連や共産党の知識がないので、
理解がしにくいようです。
(カラハン)
ソ連の外交官。アルメニア人の代弁人の子として生まれ、
少年時代から革命運動に参加。ロシア革命以降は外交官
となり、中国に対するカラハン宣言を出すなどして活躍
した。スターリンの大粛清にあい獄死した。
(カラハン宣言)
1919年と20年の2回、ソヴィエトロシアの外務人民
委員代理カラハン名義で出された宣言。帝政ロシア時代に
締結された中国との不平等条約の撤廃、平等な原則に立つ
国交樹立を呼びかけ、第二次宣言を基礎に24年、国交が
樹立された。”トロッキーが外務人民委員つまり外相だった
のだろうか?”
1919年 コミンテルン結成
1920年 第二回大会
レーニン「民族及び植民地テーゼ」報告
1924年 1.20国民党一全大会 国共合作
レーニン死亡、一国共産主義
レーニンの死後各国の共産党がソ連の
対外的道具と化す
1927年4月 武漢に対し南京国民政府
7月 ロシア顧問約140人帰国
1929年 トロッキー国外追放
中国工作をしていたロシア人達がトロッキー系の
グループだったのか、そういうことは無関係なのか
は解らない。
408 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/05/08 14:47
(陳独秀 1879〜1942)
安徽省懐寧の人。科挙を嫌って新学に打ちこみ、日・仏に留学した。
故郷の安徽省で辛亥革命に参加。1915年上海で『青年雑誌』を創刊して主宰し、
翌年『新青年』と改題した。新文化運動の旗手となった。1917年から北京大学教授、
同文科部長。胡適らと文学革命を提唱して、白話運動を主唱。
五・四運動を指導した。1921年中国共産党の結成に参加。党中央委総書記となる。
国共合作には批判的だったが、コミンテルンの指示でこれを推進。党勢は拡大した。
1927年には、反共クーデターの責任を追及され、右翼日和見主義者と批判された。
以後、スターリンを批判して、トロツキズムに傾斜した。
1929年に共産党を除名された。1932年国民政府に逮捕され、のち釈放されたが
孤独のうちに病没した。
409 名前:
勲章好き
投稿日: 02/05/10 19:18
>靡莫様
お久しぶりです。礼服復元作業はとりあえず刺繍部分の見積もりをさせております。
ただ、個人レベルでの作業ですので完成はいつになる事やら・・・・。
ちなみに、張作霖が全体に麦の模様が入った白い礼服で息子2人と写った写真があり
ますが、あれを製作するといくらかかるか業者に聞いてみたら100万円とかいわれ
ました(笑)。まあ、今回製作予定の物はもっと安いのですが・・・・。
410 名前:
407,408
投稿日: 02/05/10 20:04
中国工作をしていたロシア人がトロッキーグループと
いうのはどうも論理的でなく撤回します。
陳独秀 の反共クーデターとはなんでしょう?
411 名前:
西国のアズマ帰依者
投稿日: 02/05/10 21:10
えっとですね、蒋介石の反共クーデターを易々と許した責任を取らされたのです
時のコミンテルン指導部が蒋介石打倒をためらい明確な指示をださなかった
責任があるのに、陳独秀はその責任を取らされ止めさせられたんですね。
ちなみに1927年8月1日、南昌蜂起がたたえられ、人民解放軍の前身「紅軍」
の建設の日として讃えられますが、これは陳独秀批判と表裏一体でしょう。
共産党の言説を中身から解読していくと非常に面白く病みつきになります(w
412 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/05/10 23:18
>>411
勉強になります。ありがとうございました。
(譚平山 たんへいざん 1886−1956)
中国の政治家、広東省出身。共産党に加入、第1次国共合作
では国民党常務委員、農民部長を歴任。国境分裂後、第3勢力
の道を歩み、戦後三民主義同志連合会を結成、1949年
政治協商会議に参加した。
譚ろみ著「中国共産党 葬られた過去」文春新書
オモシロイ
413 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/05/11 23:30
5月11日の朝日新聞朝刊によると中国で中山艦が
引き揚げられて修理して漢口に展示されたようですね。
1938年に漢口で日本軍が撃沈したとは知りませんでした。
414 名前:
@名無しさん
投稿日: 02/05/11 23:47
>>413
漢口→武漢と書いてありました。
415 名前:
405です。
投稿日: 02/05/12 00:17
>406さん
共産党からみれば地域権力を有していた軍閥の関係者や
軍隊そのものが不必要なんですよね。
だから軍閥の兵力の消耗も人海戦術の目的やなかつたんじゃないか
てことなんです。
軍事力さえ奪えばあとは簡単ですよね。
人民裁判に労働改良所・・・・・・・。
そこまで面倒なことしなくても暗殺、公開殺人なんでもありですよ!。
416 名前:
靡莫
投稿日: 02/05/12 00:50
>>409
こちらこそ、お久しぶりです。
礼服復元作業に頑張っておられるようで何よりです。
でも礼服の刺繍って、きわめて緻密なものですよね?
人件費がいくらかかるか分からない芸術品、と言って良いものでしょうし。
>>410
、
>>411
陳独秀は悲運の共産党リーダーですよね。
もともと第一次国共合作そのもの(共産党員の国民党入党など)に反発してましたし。
結局、現場を知らない上層部(=コミンテルン)に振り回されて詰め腹を切らされてしまいましたが。
今後は、共産党については「★中国の革命勢力★」で論じた方が良いかも知れませんね。
もっとも共産党でも、民国初期の賀竜や朱徳などは、軍閥スレで論じることができるでしょうけど。
417 名前:
毛沢東語録より
投稿日: 02/05/12 00:52
中国革命が全国的成功をおさめ、さらに土地問題が解決された後にも、中国にはなお二つの
基本的問題が存在する。その一は国内的なもの、すなわち、労働者階級とブルジョア階級と
の矛盾である。その二は国際的なもの、すなわち中国と帝国主義国家との矛盾である。
*中国共産党体制は、まだ持続できるのか?それとも・・・「春秋に義戦なし」の再来か?
418 名前:
靡莫
投稿日: 02/05/12 01:11
>>415
そういうことでしたか。
>>406
では意を察することができず、申し訳ありませんでした。
もちろん、敵対的軍閥を攻め滅ぼす際には、物量に物を言わせて(人海戦術を使って)いますが、
少なくとも建国以前は、共産党は軍閥を滅ぼすよりは、むしろ寛大に取り込む方向で動いています
(いずれ、軍閥の権力を解体する狙いがあるにしても)。
七期二中全会(1949年3月)の毛沢東報告などからも、それは明らかです。
中華人民共和国は、共産党がリーダーシップをとる各派閥の連合政権としてスタートを切っており、
それは中央と地方政権(軍閥政権)の関係についても、ある程度は当てはまることでした。
ただし、僕が
>>98
でも書いたように、軍閥の解消は建国後少しずつ進めていき、
毛沢東の政治姿勢の変化に伴い、それは急進的に進められたようです。
答えになってなかったら、すみません。
419 名前:
世界@名無史さん
投稿日: 02/05/12 01:19
>>417
個人的には、中国共産党が今後も政権を維持できるかどうかは、
「正統性」を確保できるか否かにかかっている、と考えています。
すなわち、中国の近代化を推進し、国際社会での地位を維持する主体と成り得るか。
“崩壊”を阻むカギは、詰まる所その点になるでしょう。
420 名前:
勲章好き
投稿日: 02/05/12 06:20
>靡莫様
北洋系政府において、元帥の階級になった軍人はおるのでしょうか?
張作霖が最終的に”大元帥”になったのは知っているのですが・・・・
421 名前:
靡莫
投稿日: 02/05/12 13:24
>>420
元帥及び大元帥の階級は、張作霖の「陸海軍大元帥(安国軍大元帥)」を除くと、
全て南方政府の階級だったようです。
「陸海軍大元帥」自体、北伐で追い詰められた北洋政府が張作霖を擁立するために
緊急に作った階級のため、その他の北洋政府首脳では「大元帥」も「元帥」も
名乗った人物はいないようです。
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